遠ざかっていく響の足音を聞きながら、クリスはふぅ――と長く息を吐いた。
目の前には、まだ数体のノイズがうごめいている。
だが、もう終わる。
唯一残った左手を酷使するような真似はせず、シンフォギアの武装を駆使して淡々と殲滅していく。
銃口の閃光が一閃、二閃。
響の残した熱を焼き払うように、最後のノイズが塵となって消えた。
音が――消える。
戦場に、ひとりだけが残された。
「……また、一人か」
消え去ったノイズの影を踏みしめながら、クリスはぼんやりと呟いた。
「人間は嫌いか? ああ、きっとそうなんだろうな。
嫌いじゃなきゃ、理由もなく殺せやしない。
好きじゃなきゃ、理由もなく助けやしない。
言葉は、冷えた空気に溶けていく。
悲しいことだ。虚しいことだ。胸の奥で誰にも聞こえない苦笑が零れる。
好きになるのに理由はいらない。嫌いになるのにも理由はいらない。
人の心は変わりやすく、決して元には戻らない。
(じゃあ、あたしは――もう戻れない)
それが悲しい。それが虚しい。
なりたいのになれない。どこかで諦めてしまっている。
その虚しさが、針のように心臓に刺さって抜けない。
静寂。
ノイズの残滓すら消え、世界が息を潜めている。
街のざわめきも風の音も――何も聞こえない。
クリスはその中で、息を一つ吐いた。
*
暗闇の中。
フィーネは無言で、無数のモニターに流れるデータを見つめていた。
青白いスクリーンの光だけが室内を切り取り、彼女の頬に異様な陰影を落とす。
「――ようやく。ようやくだ」
感慨深げに呟き、彼女は視線を窓の外へと移す。
夜空に浮かぶ満月は、大きなキャンバスに穴が穿たれたかのように冷たく光っている。
純情も、それ以外の全ても捧げた。
死んで、また生きて、死んで、死んで、死んで、そして生きて。
その果てに、ようやく届いたのだ。
『フン。くだらん。貴様のしていることは、人としてあるべき全てを放り投げ、エンキめの生を辱めている。道化としてはこれ以上の物はあるまい』
「……何とでも言え。私は必ず、あの方のために――」
フィーネは言葉を暗闇へ投げるように呟いた。背後から、コツ、コツと足音が近づく。
「
冷酷にそう言い放つと、フィーネの全身から光の粒子が立ち昇った。
それはまるで血の代わりに流れる情報――神の設計図が蘇るようだった。
次の瞬間、彼女の肌に銀の紋様が浮かび上がり、音を立てて組み上がっていく。
金属と骨が噛み合うような鈍い音。
装甲が花弁のように展開し、やがて一つの姿へと収束する。
――ネフシュタン。
古代の叡智と人間の傲慢が融合した、神の遺骸を纏う鎧。
光の尾を引きながら、彼女の身体に完璧な形で馴染んでいく。
「ふふ……これでいい。あの方への、愛を、思いを、必ずこの手で叶えてみせる」
最後の動作確認を終え、唇の端がわずかに上がる。
これは人の時代が始まる前から組み上げられた計画。
失敗は許されない。その為に、不安要素は徹底して削ぎ落とす。
自分の計画には、
*
あの日、ノイズの襲撃を乗り越えてから、数日が経った。
クリスはノイズの被害で崩れ落ちた古いアパートに潜伏していた。
夜が明けるたび、瓦礫の隙間から朝の光が差し込む。
その光は、まだ癒えぬ傷を照らし出す残酷な現実の証だった。
「……ッ」
肌にまとわりつく朝露が、傷口を冷やす。
かすかに震える息。指先の感覚は鈍く、体力も限界に近い。
――片手を失った身体は、想像以上に不便だった。
だが、病院には行けない。
フィーネに見つかれば、この前のように、自分だけでなく無関係な人間をも巻き込むことになるだろう。
結果、クリスは街の影を渡り歩き、時折物資を仕入れては命を繋ぐといったような、ドブネズミのような生活を余儀なくされた。
辛くはある。だが、だからといって耐えられないというわけではない。戦場では食べられるものなら、それこそゴキブリだって食べなければならなかった。それと比べれば、幾分かはマシというものだ。
錆びた缶詰を開け、ボウフラの湧いていた冷たい水を飲み下す。
その味のない生存は、ただの延命にしか思えなかった。
『――すき……だと思うよ。それに、私が誰かの役に立てるなら、それは嬉しい事だから』
「……クソ」
不意に頭の奥に蘇った声に、心臓が強く打つ。
胸の奥に熱い針が刺さるような感覚が走り、思わず吐き捨てた。
何て無様な姿だろう。
世界を救うために必死だったはずなのに、それを折られた結果、今のあたしは足を止め、迷い、目的すら掴めずにいる。
このまま、呪い続ければ良いのか。
何も出来ないのにも関わらず。
このまま、助けた方が良いのか。
今よりも、醜くなるこの世界を。
視界の隅で、瓦礫の隙間から光が差し込む。
夜の冷たさが、ひどく皮肉に思えた。
「ーーーッ!」
手の痺れを感じて、顔を歪ませる。
ネフシュタンの鎧を失ったが故だ。
「そこまで、時間が無いのかもな」
そんな中で、わずかに空気が揺れた気がした。
背筋を伝う、嫌な予感。
ガタリ、と音がした。
「――誰だ!」
反射で銃口を向ける。戦闘回路は既に働いていた。
偶然立ち寄った一般人……いや、そんな確率は低い。考えられるのは――フィーネの追手だ。
「いや、済まない。驚かせるつもりはなかった」
低い声が闇を割る。クリスはそれを聞いて、肩の力をほんのわずかに抜いた。
闇の向こうから現れたのは、筋骨隆々の赤髪の偉丈夫だった。
「元々、俺は公安に顔があってね。
そいつを使って、君の居場所を突き止めさせてもらった。
敵意はない」
――風鳴弦十郎。
シンフォギアを指揮する、防人の男。
その姿を認めた瞬間、クリスの口から短く息が漏れた。
「……なんだ。あたしに何の用だ」
言葉にした瞬間、自分でもわかる。
問いの形をしていながら、そこには警戒と拒絶しかない。
「いや、どうせ言うまでもないな。
アンタらと“協力しろ”って話だろ?」
クリスは低く吐き捨てた。
そして――銃口を、迷いなく弦十郎の額へと向ける。
「悪いけど、お断りだ。
あたしはアンタらを知らない。
そもそも――あたしは組織なんて大嫌いなんだ」
キッと、睨みつけるように視線を突き刺す。
わずかに震える指先を、引き金の上で抑え込む。
“撃てる”のではなく、“撃たざるを得ない”のだ。
それほどまでに、もう誰も信じられなかった。
――そのとき。
ぐいっと、視界の端からコンビニの袋が突き出された。
反射的に銃口を向け直す。
しかし、その手の主は――まるで何でもない顔で、クリスの前に立っていた。
「……なんだ、それ」
「見ての通り、差し入れだ」
敵意を感じさせない、太い声。
弦十郎はコンビニ袋をぶら下げたまま、静かに一歩、また一歩と近づいてくる。
「ほらよ」
無造作に袋を放り出すと、ズカズカと部屋に入り込み、振り返りざまに言った。
「応援は連れてきていない。俺一人だ」
クリスは、わずかに眉をひそめる。
けれど、銃口はまだ下ろさない。
弦十郎は、そんなことを気にも留めず、その場に胡坐をかいた。
床の埃を気にするでもなく、まるで“ここが談話室だ”と言わんばかりの落ち着きだ。
「腹、減ってるだろ。食べないか?」
袋の中には、梱包されたアンパンが数個。
弦十郎はそのうちの一つを取り出し、包みを開けると、パンを千切り、ためらいもなく口に運んだ。
「……毒は入ってない。見ての通りだ」
もぐもぐ、と音を立てながら平然と言う。
この状況で、そんなことをやってのける胆力。
敵意も、脅しも、哀れみもない。あるのはただ、真っすぐな目だけ。
――だからこそ、厄介だった。
「要らない。施しは受けない」
「……そう言わずに。そのなりから察するに、ろくに食ってないんだろう?」
尚も引き下がらずに、善意を押し付けてくる。
何となく、こいつも馬鹿の類いかと思った。
「ああ、クソ……」
考えるのも面倒になってきて、
クリスは弦十郎の手からアンパンを乱暴にひったくると、そのままかぶりついた。
甘い。
胃に落ちる感覚が、思った以上に沁みた。
久方ぶりの食事だった。――思わず、ほんの少しだけ目を細めてしまう。
「……どうだ。悪くないだろ」
「……別に」
ぶっきらぼうに答えながらも、口の端に残る甘さが、妙に癪だった。
沈黙の間を一拍。
弦十郎はふと、遠くを見つめるように息を吐く。
「……当時の俺たちは、“適合者”を探していた。音楽の血筋を引く子どもたちを片っ端から調べていた時期だ」
「は?」
クリスの動きが止まる。
「その中に――天涯孤独となった少女がいた。
身元の引き受け先として、俺が手を挙げた」
淡々と、しかし確かな感情を滲ませながら弦十郎は続ける。
語る声が低く、まるで懺悔のようだった。
「だが、日本へ帰国した直後に、その少女は消息を絶った。
捜索に関わった職員の多くが死んだ。あるいは、消息を絶った。……最悪の形で、幕を閉じた」
その一言で、空気が変わった。
胸の奥で、何かがピキリと軋む。
「――何がしてぇんだ、オッサン!」
銃口を向け直し、声を荒げる。
弦十郎は一歩も引かない。ただ、まっすぐにその視線を受け止めていた。
「俺がやりたいのは――君を、救い出すことだ」
「……は?」
「それに、君との縁はそれだけじゃない」
弦十郎の瞳がほんの少しだけ細くなる。
「君は、
「――――ッ」
呼吸が止まった。
何の前触れもなく撃ち込まれた名。
心臓が握り潰されるように痛んだ。
銃口が、わずかに震えた。
「……どこで、その名前を……」
声が震えた。
心臓の奥が、ギリ、と鈍く痛む。
「いや、待て。――五年前の、あの日。
フィーネがあたしに初めて接触したあの日……!
なら当然、二課の連中も近くにいたって、おかしくは……ない、か……」
言葉が、途中で細くなっていく。
自分で口にしながら、それがただの“納得のための言い訳”だとわかっていた。
視界が揺れていた。
怒りでも、悲しみでもない。
何か、もっと根の深い――怖さに似た感情が、喉の奥を締めつけていた。
(なんで、今さら……あの名前が……)
弦十郎の方を見据えようとしたが、焦点が合わない。
予想していなかった言葉に、動揺が抑えられない。
握った銃の先が、わずかに下を向く。
カチリ。
銃口が、地面に向けられた。
「……ッ」
力が入らなかった。
撃てない。――脅しの意味すら、もうそこにはなかった。
「つまりは、アレか? お前はテロリストに誘拐された哀れな被害者に同情して、ここまできたと……
舐めてんじゃねえぞ! 言ったはずだ、同情は要らねぇってな!」
「…………いや、そういうわけではない」
弦十郎は淡々とした声で返した。
「話した時間はほんのわずかだが、彼がそんなことをする人間だとは思えない」
その言葉が――胸の奥で“何か”を弾いた。
「…………ッ!」
頭の中で、金属音が響くような感覚。
気づけば、身体が勝手に動いていた。
ドンッ!!と鈍い音がして弦十郎の巨体が、壁に叩きつけられる。
その音が響くよりも早く、クリスの左手が彼の胸に銃口を押し当てていた。
距離はゼロ。引き金を引けば、即死だ。
「――いい加減にしろ!」
喉の奥から、嗚咽に似た怒声が漏れた。
涙ではなく、怒りでもなく、ただ心の奥の傷が開いた音。
「士郎とお前が話したのは、五年前のあの一瞬だけのはずだ!
そんな奴が士郎を語るな! そんな奴が士郎を知った気になるなッ!!」
言葉の最後は、悲鳴のように掠れていた。
壁に銃口を押しつけたまま、クリスの肩が震えていた。
言葉の最後は、悲鳴のように掠れていた。
壁に銃口を押しつけたまま、クリスの肩が震えていた。
「…………済まない。君の言う通りだ。俺は彼のことを詳しくは知らない」
弦十郎の声は低く、決して逆らうものではなかった。
「だが――今の君を見て、確信した。
衛宮士郎という男は、俺の思っていた通りの人間だ」
「…………ああ、吐き気がする」
その言葉に、クリスは深く息を吐き出した。
銃口を下げ、背を向けるように座り込む。
そして、まるで逃げるように――パンにかぶりついた。
甘いあんこの味が、ひどく味気なかった。
「……なんだよ、今までのあたしって」
小さく笑うような声。
けれどそれは、もう自嘲にもならなかった。
「そんなんで分かると思ってるのか?あの時の、あたしの気持ちが
ほんの……ほんの一週間眠ってる間に、全部だ。
全部、奪われたんだよ。あたしの気持ちが……希望が……」
声が掠れる。
それでも、止められなかった。
「あたしの――初恋が」
その一言が、胸の奥からこぼれた瞬間、張り詰めていたものが一気にほどけた。
最初は気丈に振るまっていた少女の声は、次第に震えていき、気が付いた時には息の端が掠れていた。
そして――涙が零れ落ちる。
悲しく、哀しく。
抑えきれないほどの感情が、ようやく形を持って溢れ出した。
かつての自分の理想も、誰かを救いたいと願った日々も。
全部、自分の手で壊してしまったような気がして。
今のクリスには、ただ涙を流すことしかできなかった。
「…………そうか。初恋。君は、そこまで――」
「五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い!
お前に何が分かる!」
声が掠れていた。
でも、止められなかった。
「嬉しかったんだ。
辛いときに助けてもらったのが。
凄いと思ったんだ。誰かの為に、あんなに必死になれたのが」
堰を切ったように言葉が溢れる。
「その在り方に憧れた。
その姿に救われた。
その夢に、近づきたいと思った……!」
少女の顔は、涙も嗚咽も混じってぐちゃぐちゃになっていた。
今まで押さえつけてきた、触れてほしくなかった感情が、抑えても抑えても止まらない。
「なの、なのに………あたし、なにもできなかった……!
あんなに、すきだったのに。がんばったのに。ぜんぜんできなくて……
あたし、あいつに、なにもできなかった」
「…………好きなだけ、泣くといい。
ここには、君が泣くのを咎める人間はいない」
優しく、いたわるように――弦十郎の大きな手が、彼女の背を撫でた。
一度、背中をなぞるごとに、少女の感情の堰が切れていく。
「うるさい! うるさい! うるさい!!
あたしはやるんだ……!」
嗚咽混じりの声が、今度は決意に変わる。
「生きてるとき、士郎に……あたしは何もできなかった。
だからせめて、あいつの夢のために、あたしは死ぬんだ。
つらくても、くるしくても、あたしはやるんだ!!」
その言葉は、叫びというより、祈りのようだった。
「…………それはいけない」
弦十郎の声が、低く、しかし強く響く。
「そんな生き方をしたところで、誰も幸せにはならない。
君も、彼もだ」
「なんなんだよ、お前……!
なんで、何の関係もねえ奴があたしをいたわってんだよ!?
その拳で、ぶん殴れよ。テロリストに加担した、馬鹿な小娘を。
その手で、報復しろよ。アンタの姪の腹に穴を開けた、この女に!」
言葉が途切れ、クリスの胸が激しく上下する。
怒りの裏にあるのは、焦燥と壊れそうな哀しさだ。
弦十郎は動じず、ただ静かに彼女を見据えた。
数秒の間。部屋の埃だけが舞う。
「――それも含めてだ」
低く、確かな声。弦十郎の眼差しには嫌味も同情もない。ただ、真っ直ぐな責任が宿っている。
「俺は、君のために来た。大人として――お前を助けるのは、大人の義務だ」
言葉は簡潔だが、その重みが部屋に沈んだ。
クリスの拳が、わずかに震える。
「ふざけんな!! 大人の義務だと? 余計なこと以外、何もしない大人が偉そうに何言ってんだ!」
目が血走る。声が割れる。だがそれはただの憎悪ではなく、もっと厄介な感情――裏切られた期待と、取り戻せなかった時間の叫びだ。
「何が大人だ! 何が音楽で世界を救うだ! 何が正義の味方だ!!
そんなことが、そんなことが……出来るわけねぇだろ。
そのために、テメェが死んだら、
それで終わりじゃねぇか――」
その言葉に含まれるのは、軽蔑でも嘲りでもない。
それは、生き残った者の痛みそのものだった――誰かを救おうとした“約束”が、片手の裂け目から零れ落ちていった痛み。
クリスはしばらく黙り、指先で壁を握る。息は荒く、目は潤んでいる。
「もっと、もっと効率よくやればよかったんだ。合理的に、冷酷に。大人が夢なんか見んなよ。
火種を切り捨て、小を捨てて大を拾う。
そうすれば、違う結末が、見られただろうに」
最後の言葉は、叫びではなく呟きだった。怒りの震えが、静かに冷たい理性へと溶けていく。
「――それが、お前の流儀か」
静かに、だが確かに。
そこで初めて、弦十郎が口を開いた。
「……確かに、そうかもしれない。
もしかしたら、そんな方針を取らなければならない時もあるのかもしれん」
短く息を吐き、続ける。
「だけどな――それで、お前は一度でも“争い”を無くせたのか?」
「……無理だ。
だから、あたしは奇跡に縋った。
世界から争いを無くす。その願いを、叶えるために」
「……了子君の言っていた“あれ”か」
その名を聞いた瞬間、空気が一段階、重く沈んだ。
クリスの目が、わずかに揺れる。
「……まあ、確かに。もしかしたら、“出来る”のかもしれんな」
弦十郎は低く呟いた。
「だけどな――どうやって、世界を救うつもりだ?」
その問いに、クリスは言葉を詰まらせる。
弦十郎は続けた。
「了子君が言っていたぞ。“あれ”は、過程をショートカットするための道具に過ぎない。
どんな奇跡だろうと、結末を決めるのは使う者自身だ。
お前が、何を望んで、どんな世界を見たいのか……その“ビジョン”を持たなきゃ、願いは叶いやしない」
「それは……だから、火種を消すんだよ」
クリスの返答は、どこか曖昧だった。
“奇跡”という言葉の大きさに、具体の輪郭が追いついていない。
彼女自身も、心のどこかで分かっているのだろう。
――その方法では、火種は消えない。
今ある火種を消したとしても、人の欲は尽きない。
火種がなくなるのはほんの一瞬で、次の瞬間にはまた、同じような争いに満ちた世界が形を取り戻すのだろう。
弦十郎は、静かに言葉を重ねた。
「いい大人は夢を見ない――そう言ったな? 違う。
大人だからこそ、夢を見るんだ」
クリスの瞳が、わずかに揺れる。
「大人になったら背も伸びるし、力も強くなる。
財布の中の小遣いだって、少しは増える。
子どもの頃は、ただ眺めることしかできなかった夢も――
大人になれば、叶えるチャンスがある。
夢を見る“意味”も、“責任”も、でかくなるんだ」
そこで一拍置いて、弦十郎は目を細めた。
「それにな、衛宮士郎は、“誰も傷つけたくない”と願っていた。
誰もが笑っていられる世界を、信じていた。
お前が今、握ってるその、
あいつが見たかった“明日”の断片じゃないのか?」
「……本当の理想って、何知った気でいやがるんだよ」
クリスは拗ねるように顔を背け、吐き捨てる。
けれど、その声には、先ほどまでの刺々しさはなかった。
弦十郎は、ゆっくりと息を吐く。
「それは分かるさ。俺も現場で見てきた。
お前が前線に立ってから――被害者は、必要最小限に抑えられていた」
クリスが、はっと目を上げる。
「しかもその少数だって、お前と相対した連中だけだ。
お前の攻撃で死んだ人間は、一人もいない。
……つまり、そういうことだ」
「……何が言いたいんだよ」
「お前、本当は――誰も傷つけたくなかったんじゃないか?」
その一言が、部屋の空気を止めた。
何かを言い返そうとした唇が、震えたまま動かない。
自分でも気づいていなかった本音を、図星で撃ち抜かれたように。
「……ふざけんなよ。そんな綺麗ごとで……」
否定しようと口を開くが、言葉は出なかった。
頭の中で仮定が延々と再生される。
もし――と仮に考えるのなら、立花響と争ったとき、デュランダルをもっと乱れ打ちにして威力を上げていたら。
巻き込まれる人間は確実に増えただろう。響も、きっと――殺していたかもしれない。だが、勝てただろう。
もし――デュランダルの争奪戦で、護衛の二課職員たちへ最初から攻勢に出ていたら。
わざわざ牽制を重ねることなく、ノイズを総攻撃していれば。
響の動揺を誘い、事態はもっと別の形に転がったかもしれない。
そうした「もし」が、頭の中で刃のように回る。
だが、その根底にある答えは、冷徹な計算ではおさまらない。
――あたしが、誰かを殺したくないと思っていたから、だろうか。
言葉は最初は問いかけのつもりで出たが、最後には自分への告白になっていた。
胸の奥が熱くなる。手のひらが、かすかに震えた。
「はあぁぁああああああ……」
大きく息を吐き、感情を押し出すように言葉が零れる。
「……もしかしたら、そうなのかもな。
だけど――だからって、あたしが手を貸すとは思うなよ。
今まで、あんなにやり合ってたんだ。
そう簡単に分かり合えるはずがないだろ」
弦十郎は静かに頷く。
怒鳴り返すでも、言い返すでもなく、淡々と、しかし確かな声で返した。
「お前は、お前が思ってるほど独りぼっちじゃない。
お前が一人で道を歩いたとしても、その道は、遠からず俺たちの道と交わる」
「……世慣れた大人が、そんな綺麗事を言えるのかよ」
皮肉混じりに吐き捨てたつもりだったが、声の端にはどこか力がなかった。
「本当、ひねてるな……。ほれ」
弦十郎が何かを投げよこす。
無骨なデザインの箱状の物体――どこかで見た形だ。フィーネが使っていた通信機にも似ている。
「なんだよ、こいつは?」
「二課の通信機だ。限度額内なら公共交通機関も利用できるし、自販機で買い物もできる。
便利だぞ」
「……仲間にもなってねぇ人間に、よく渡すな」
クリスはぼそりと呟き、通信機をじっと見つめる。
掌の中のその小さな箱が、まるで――今にも“繋がり”の形をして見えるような気がして。
「……本当に、馬鹿の気持ちってのは、知れないもんだな」
「失礼なやつだな」
「違う、褒めてんだよ」
クリスは苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。
「あたしみたいな馬鹿に理解されちゃあ、そいつが可哀想だろ?」
そう言って、窓辺に歩み寄る。
外の風が頬を撫で、夜の街のざわめきがかすかに聞こえてきた。
彼女の指が、窓枠にそっと触れる。
「ああ、そういえばな――」
「ん?」
振り返ったクリスの表情には、ほんの一瞬だけ、あの日の無邪気さが残っていた。
「ヒーローは期間限定で、
オトナになると名乗るのが難しくなる。……そんな話を、とある馬鹿から聞いた」
少し間を置いて、続ける。
「アンタは言ったよな?
“大人になったからこそ、夢を見る”って。……どう思うんだ?」
「そうさな……」
弦十郎は、少しだけ顎に手を当てて考える。
だが、その答えはすぐに口をついて出た。
「誰かのために、必死に頑張って助けてるんなら――
そいつはもう、立派な“正義の味方”だろう」
その言葉が、やけに遠くから響いた気がした。
一瞬、空気が止まる。
思考が、心臓の鼓動に追いつかない。
(……“正義の味方”。)
胸の奥で、懐かしい痛みが、静かに鳴った。
まるで、止まっていた時計が再び動き出すように。
「……そうか。そうだったな」
言葉は、呟きというより――祈りのようだった。
その瞬間、凍りついていた過去が静かに溶けていく。
それは後悔でも贖罪でもない。ただ、ようやく“今”を掴んだ音。
夜風が頬を撫でる。
遠くの街灯の光が、彼女の瞳にわずかな輝きを映す。
ほんのわずかに、笑った気がした。
それが涙なのか、安堵なのか――自分でも分からないまま。
雪音クリスは、音もなく夜の闇へと消えていった。