放たれた矢は、光だった。
祈りのようで、呪いのようで――それでも確かに、“誰かの願い”そのものだった。
カ・ディンギルの砲口が、唸りを上げる。
収束された荷電粒子が奔流となり、天を裂く白い閃光を吐き出す。
天地が震え、空間が軋み、世界が焦げる。
その中心で、二つの光がぶつかった。
白と紅。
創造と破壊。
神と人。
光と光が、世界の理を削り合いながら、ゆっくりと形を失っていく。
それはまるで、夜空に浮かぶ二つの意志が、互いを飲み込みあうかのようだった。
――静止。
次の瞬間、世界は、音を失った。
時間が止まったかのように、全ての存在が“矢”に焦点を奪われる。
その矢は、確かに届いた。
それは、神代の塔を穿つ“人間の祈り”だった。
砲身を貫く。
光がねじれ、空間が弾け、塔の中枢を形作っていた魔術回路が崩壊する。
そして――
轟音。
カ・ディンギルが爆発に包まれた。
砲身が瓦礫となって砕け散っていく。
轟音。カ・ディンギルが爆発に包まれた。砲身が瓦礫となって砕け散っていく。
「あぁ……あ……あぁっ…………」
彼女のそれを一言で表すなら、絶望だ。
長年の野望が、積み上げた全ての時が、崩れ去ったのだから。
「嘘……そんな、はずが……」
その声は、もはや“神”のものではなかった。
千年を超えて世界を見下ろしてきた巫女の声ではなく、ただ一人の、敗北を知った女の呻き。
瓦礫が崩れる。
月光に照らされたその顔に――かつて櫻井了子であった面影が、ほんの一瞬だけ、戻る。
だが、そのことに気を回せるような状態では、少女達は、決してなかった。
「雪音……」
「そんな……せっかく、仲良くなれたのに……こんなの、嫌だよ……嘘だよ……!」
膝から崩れ落ちる響。
今の彼女に掛けてやる言葉を、翼は持ち合わせていない。
翼も、奏を喪ったあの時は、まさに同じだった。
どうやって立ち直ったのかも覚えていない。
だから、今の響に――何をしてやればいいのかが、分からない。
響は、クリスと出会った日からずっと、彼女と分かり合いたいと願っていた。
相手は同じ人間なのだから。言葉が通じるのだから。
そう信じ続け、ようやく、彼女と手を取り合えた。
だが、それを果たせたのは――ほんの数時間前のことだ。
別れるには、あまりにも早すぎた。
あれからまだ、夜すら明けていないというのに。
「もう……話せないの……?」
響の声が震える。
喉の奥から漏れる嗚咽は、叫びにもならず、ただ夜に溶けていく。
翼も、胸の奥を締めつけられるような痛みに顔を歪めた。
本当なら――もう少し、彼女と話したかった。
けれど今は、目の前の現実に立ち向かうために、
震える心と身体を、無理やり立たせているだけだ。
「もっと……もっと、たくさん話したかった。
話さなきゃ、喧嘩することも――今より、もっと仲良くなることもできないんだよぉッ……!」
響の慟哭が、瓦礫の間を這う風に溶けて消える。
月光の下で、ただ静かに――少女たちは、喪失の重さを抱きしめていた。
空から何かが墜ちてくる。
淡雪のように仄かに輝く赤い光。
それが、世界を護った少女であることは、誰の目にも明らかだった。
「………。」
無言で立ち上がるフィーネ。
「もう、終わりだ。
貴様の野望は、少女の命によって、無に帰した。
櫻井女史……
例え、それが嘘偽りが故であったとしても。
……投降してください。
そうすれば、悪いようには致しません。」
「………ハッ!!」
翼の、慈悲のように紡がれる言葉。
それをフィーネは、とんでもないと言わんばかりに、嘲笑った。
「悪いようにしない? 馬鹿な甘言だ。
ここでこの命が終わったとて、
貴様らと違い、大した問題ではない。
唯一の私の問題とすれば、そうだな……
私の存在を知られてしまったことぐらいか?」
ゆっくりと、フィーネは立ち上がる。
戦闘体制は解除されていない。
それよりも、寧ろ手負いの獣の如く、ゆらゆらと、空間が歪むような、強い殺意が湧き上がる。
「──ならば、皆殺しにしてやる。
私ごと、ここにいる全てを灰燼に帰せばいい。
そうすれば、ここにはいない、第三者にはただのノイズ災害として処理される。
振り出しに戻せば、あの者の死も、無駄にはならぬ。
次こそは、必ず、成功させてみせる……」
「戯れ言をッ!」
翼の怒声が、瓦礫を震わせた。
だが、フィーネはただ微笑むだけだった。あの女にとって、この戦場でさえも舞台装置の一つに過ぎぬかのように。
足元の影がゆらりと伸び、空気の温度すら下がる。
いくら弦十郎に匹敵する力を持つとしても、状況は明らかにこちらが有利だ。
我々の勝利条件は彼女の拘束――それだけ。
対して彼女の勝利は、この場にいる全ての命を屠り尽くすこと。
理屈で言えば、勝ち目はない。
……なのに、感じる。この女の纏う、異様な“静けさ”を。
「♩――」
瓦礫の中に、鼻歌が流れた。
血と鉄と焦げた空気の中で、その旋律だけがあまりに清らかだった。
不協和音。戦場に似つかわしくない音の連なりが、翼の神経を逆撫でした。
「……余裕のつもりか。」
応急処置を終えた傷口が軋む。だが剣はまだ握れる。
問題は、フィーネの視線――だ。挑発でもなく、虚空を見るでもない。
その視線は、自分を過ぎて、隣を見ていた。
立花響。
膝をつき、項垂れた少女。肩が小刻みに震えている。
すすり泣いているように見えた――その瞬間までは。
「立花!」
気づくのが遅すぎた。
震えていたのは、悲しみではない。
噛み殺した唸り声。地を握り潰すように爪がめり込み、石が砕ける。
前髪の隙間から覗く瞳は、狂気に濁り、不規則に焦点を彷徨っていた。
「……それが……」
翼の喉が、凍りつく。
立ち上がった響の顔に、もう“人の”表情は残っていなかった。
唇は震え、剥き出しの歯の奥で犬歯が鋭く光る。
全身が、怒りに軋んでいる。
「それが――夢ごとッ!!」
低く、濁った声が、爆ぜた。
「命を握り潰した奴の言うことかアアアアアアアアッッ!!!」
夜空が裂けた。
獣の咆哮が、風も瓦礫も、全てを押しのけて吹き荒れる。
爆風が背後を襲い、翼は反射的に腕で顔を庇った。
次の瞬間には、響が黒い閃光と化して、フィーネへ跳んでいた。
それは、怒りの化身。
立花響という少女の皮を被った、“何か”だった。
*
――時は、少し遡る。
時間にすれば、カ・ディンギルにエネルギーが満ち、
雪音クリスが命を捨てる、そのほんの少し前。
カ・ディンギルのエネルギーの余波は、周辺のシェルターにまで影響を与えていた。
頑丈な造りのはずの壁は軋み、天井には蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
一部のドアは歪み、開閉不能に。
中に避難した人々の危機感を煽るには、十分すぎる惨状だった。
「きゃーっ!?」
「やばいって! これ、やばいって!!」
「逃げ……逃げるとこなんて、どこにもないよっ!?」
まだ怪我人こそ出ていない。
だが、避難してきたリディアンの生徒や町の住民たちは、すでに恐慌の淵に立っていた。
このままでは――パニックが広がり、誰かが怪我をするのは時間の問題だ。
(……もう嫌だよ。誰か……誰か、助けて……)
弓美は膝を抱え、震える声で祈るように呟いた。
唇は青く、頬を伝う涙の筋が震えている。
「どうにか、外の様子だけでも見られないものでしょうか……」
静かに言ったのは、寺島詩織だった。
彼女はふと、壁際の端末に目を留める。
シェルター内部のモニター――非常用の観測装置だ。
恐る恐る電源を押す。カチリと音が鳴り、黒い画面に光がともる。
幸か不幸か、その瞬間。
二課の生存者たちが、シェルターの非常用回線を中継地点として使用していた。
彼らが戦場の映像を取得し、断片的に転送していたのだ。
結果として――詩織の指先が押したそのスイッチが、
この閉ざされた避難所の運命を決定的に変える。
そこに映し出されたのは――地獄の光景だった。
輝きに満ちる、謎の塔。
浮かび上がる魔術式の文様は、一般市民である彼らに理解できるはずもない。
ただ、それは「恐怖」の象徴として、そこにあった。
「……なに、あれ……」
状況を理解し、絶望の色を濃くする者がいる。
「え、やばくない……? マジで……?」
理解が追いつかず、現実逃避の言葉を繰り返す者もいる。
「響……」
それとは別に、友人の心配をする者もいる。
けれど――そこにいた誰もが、根源的に同じ感情を抱いていた。
それは、ある種の絶望感。
何も出来ないとか、どうすれば良いのか分からないとかの感情は発生せず、ただ、ただ……漠然と感じる不安感。
だからこそ、皆、食い入るようにモニターを見つめ続けた。
その先にそびえる、あの塔を。
世界の終わりを告げる、赤い光を。
「あ……」
その中で、ただ一人。
他の誰とも違う場所を見ている少女がいた。
視線の先は、皆と同じモニターだ。
だが――彼女が見つめているのは、塔ではない。
その正反対。
今まさに、自分を含めた誰かのために、
文字通り“命を燃やしている”少女。
「……四馬鹿。」
震える唇から、ぽつりと零れた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、どうしようもないほどの悔しさと、
誇りが混じり合った声だった。
画面の先では、名も知らない――一度会っただけの“そいつ”が、弓を構えていた。
生き物としての本能が告げる。
見てはいけない、と。
それでも、視線は勝手に動く。
自分たちに“死”を押し付けようとしている、あの塔へと。
まるで何かに強制されるように、横へ、横へと引き寄せられる。
――それでも。
たった数時間しか共にいなかった少女から、目を離すことができなかった。
彼女の姿は、確かにそこにあった。
光に焼かれ、命を削りながら、それでも弓を引き絞っていた。
やがて――塔の光が最長点に達する。
その刹那、避難民の中から、念仏を唱える声が漏れた。
恐怖と祈りが入り混じった、どうしようもなく人間的な音だった。
弓美は、その瞬間を見た。
血を吐き、胸の中心――まるでそこだけ“ぽっかり”と消えたかのような空洞を、
掻きむしるように押さえながら、倒れ込む彼女の姿を。
次の瞬間、世界が弾けた。
白が、視界を奪う。光が網膜を焼く。
その次に、キィンと鋭い音が鼓膜を貫いた。
誰もが息を飲む間もなく、膝をつく。
あまりにも――一般人が体験するには大きすぎる、“世界の崩壊”だった。
その中で、彼女は見た。
ずっと、見続けていた。
弓を引き、撃ち、そして――落ちていく、“彼女”の姿を。
「――ッ!!」
次の瞬間、彼女は走り出していた。
理由なんて、ない。死ぬかもしれない。
それでも――どうしても、止まれなかった。
いや、止まるという選択肢が、最初から存在していなかったのだ。
背後からはその後も映像は届けられていた。
そこに何が映ったのかは、彼女は結局分からない。
*
「ガアァァァアア!!!」
叫び声を上げ、立花響が疾走する。
(……速い)
翼はその姿、その勢いに息を呑んだ。
目測で分かる。先ほどまでとは、桁が違う。
一歩、一歩――踏み出すたびに、空気が爆ぜる。
地を踏み砕く衝撃が反発となって、響の速度は倍々に跳ね上がっていく。
瞬きの間に距離が溶け、百メートルあった間合いが、数秒で――無へと変わった。
「復讐か! それもよかろう!
いや、むしろその方がいい! そうして貴様は、感情のままにかつての覚悟すらも飲み込んでいく!
人間とは、そうでなくてはならない!!」
彼女は焦るどころか、うっとりとした恍惚の表情を見せた。
互いに踏み込み、拳と拳が正面からぶつかり合う。
衝撃波が校舎を包み、周辺にいたノイズたちが一瞬で霧散した。
反動で、二人の身体が同時に後方へ弾き飛ばされる。
着地の瞬間、フィーネが薔薇の鞭を投げつける。
響は軽やかに跳び上がり、その一撃をかわした。
だが、それも計算のうち。
空を裂いた鞭の先端が、意思を持つ蛇のように軌道を変え、飛び回る響を追尾する。
回避を繰り返しながら、響は気づいた。
いつの間にか、無数の鞭が自分の周囲を取り囲み――球体を成していることに。
逃げ場はない。誘導されていたのだ。
「っ……!」
次の瞬間、鞭が一斉に収束し、響を押し潰さんと迫る。
だが、響は拳を握り締め――叫びと共に叩きつけた。
「ガアァァァアアッ!!」
轟音と共に、鞭の壁が弾け飛ぶ。
それは、今までの彼女ならば決して破れなかったはずの障壁。
だが――今の響は、違った。
極めてあっさりと、荊の障壁を粉砕し、フィーネの眼前へと飛び出す。
「ほう……」
感心の吐息。
だが、驚愕の色は一切ない。
次の瞬間には、フィーネの身体が拳に弾かれ、空を裂いた。
「ーーッ!?」
翼は思わず息を呑む。
その衝撃と共に、胸の奥にざらりとした違和感が走った。
確かに――響は、暴走によって強くなっている。
けれど、フィーネはこの程度で吹き飛ばされるような相手ではない。
あの女は、“理”すらも己の手中に収めた怪物だ。
「ッ!」
そして、気づく。
フィーネが弾き飛ばされる、その軌道の先に――。
「まさか……それが、狙いか!?」
視線の先。
そこには、なお微かに燐光を漏らすカ・ディンギルの残骸があった。
ドン、と。
腹の底を叩くような音を立てて、フィーネの身体が瓦礫に突っ伏す。
砕けた装甲片が、まるで嘲笑のように宙を舞う。
「ガアァァァアアッ!!」
吼える。
怒号と共に、響が地を蹴る。
踏み荒らされた大地が悲鳴を上げた。
「待て! 立花!!」
翼の声が、空気を震わせた。
だが、その警告は届かない。
響はただ、獣のように突き進む。
――違う。
何かが、不味い。
これは追い詰めているのではない。
頭ではなく、魂の奥底が告げていた。
風が止む。
赤い月の光が、まるで息を潜めるように、静まり返る。
予感ではなかった。
それは、確信に変わっていた。
「ガアッ……!」
「立花ッ!!」
次の瞬間、赤い閃光が走る。
立花響に“何か”が突き刺さる。
槍?それとも何かの長物?
否、
光のように現れ、闇のように喰らう。
肉体の境界を無視して、響の胸を貫通していた。
「ぐっ……アアァァァァッ!!」
響が絶叫し、己の胸を掴む。
突き刺さったノイズを、素手で――握り潰す。
その音は、骨の砕ける音に似ていた。
しかし、それと同時に。
翼の脳裏に、ひとつの閃きが走る。
(……まさか)
冷たい戦慄が背骨を這う。
脳裏に浮かぶのは、ほんの少し前――
あの女が誇らしげに語った、言葉の断片。
《完全聖遺物》
フィーネの所持していた、もうひとつの神の遺産。
ガ・ディンギルを制御していたのはネフシュタンだけではない。
その奥に、まだ“何か”がある。
「立花、離れろッ!! そいつは――!」
叫びは、間に合わなかった。
「
バビロニアの宝物庫を――今一度、この世に顕現せよ!」
言葉が終わるのと同時に、空気が変わった。
世界そのものが、彼女の詠唱に反応して軋みを上げる。
瓦礫が震える。
月が、鳴いた。
まるで天地の位相そのものが、彼女の意志に従い書き換わっていくかのようだった。
「……チッ、中身が喪失している、か。
それもそうだ。あの宝具群は、後世に持ち去られ、時代の果てに散った。
だが――弾が無くなっただけ。
射出する機構は、まだ此処に在るッ!!」
フィーネの叫びと同時に、彼女の背後――虚空に金の輪が幾重にも展開する。
それは確かに、“門”だった。
虚無と現実を繋ぐ、神代の兵装庫。
そして、その門の隙間から覗く光。
それは、星の色に似て。
だが、星よりも遥かに禍々しかった。
「ハハハハハ!! 素晴らしい……これが、あの王の遺した機構か!
細く、固く、柔らかく、脈動するノイズ共。
人の憎悪と罪悪の象徴。これこそが、バビロニアの宝物蔵に相応しい!!」
嘲笑と共に、黄金の環が空間に展開する。
まるで星の墓標。
数百の環が、天を覆い尽くすように光り、開いた“口”から放たれるのは――神の加護すら拒絶するノイズの群れ。
「ガアアアアアッ!!」
響の咆哮。
暴走した彼女は、理性も痛みも投げ捨て、ただ目の前の“敵”を壊すために拳を握る。
だが、それすらも“意思”ではない。ただの反射。
ノイズが迫るたび、光と衝撃が弾け、世界が軋む。
「くっ……立花っ、やめろ!」
翼の叫びも届かない。
響の瞳にはもう、誰も映っていない。
理性の最後の欠片は、怒りと悲しみに焼かれ、ただ破壊だけを求めていた。
フィーネが手を掲げる。
数百のノイズが一斉に動き、まるで生物のように渦を巻く。
その中心、彼女の周囲だけが“静寂”に包まれる。
「美しいな……。
怒りも、悲しみも、哀れも、すべて人の力。
だからこそ、私は人を愛している。
そして、殺すのだよ――。」
「ガアアアアアアアアッ!!」
轟音。
響が飛び込む。
拳が大地を砕き、空間を裂き、ノイズを纏う黄金の環を粉砕する。
だが、そのたびに別の“門”が開く。
フィーネの背後に浮かぶ無数の環――まるで、空が血を流しているかのように、紅いノイズの奔流がそこから迸る。
「無駄だよ、立花響。お前が壊すたびに、新しい“憎悪”が生まれる。
これが世界の理。滅びも進化も、同じ円環の中にある。」
「――立花ッ!!」
翼が背後に刃を作り出す。
神殺しの剣・デュランダルを模した斬撃を、一直線にフィーネへと投げ放った。
だが、次の瞬間――。
「少ない、少ない! 少ないぞ風鳴翼!!」
フィーネの声が、狂気を帯びて響く。
開かれた“門”の奥で、無数のノイズがうごめく。
まるでそれ自体が生きているかのように。
「わからないのか? 私が“王にしか許されぬ所業”を行える理由を!
――デュランダルだ! 私には“無限のエネルギー回路”がある!
そして、その結果与えられる負荷は、ネフシュタンによって無へと還る!」
声が反響する。
地が震え、空が歪む。
その異常な力の奔流に、翼は思わず膝をついた。
「これこそが、完全なる合理!
雪音クリスが選んだ“戦い”など、理に過ぎぬ欠陥だった!
あれは無駄死にだ! 感情に殉じただけの、愚行だ!!」
血のように赤い魔力が空を染め上げる。
カ・ディンギルの崩壊でさえ、この場の前では霞むほどの濃密な魔力。
フィーネの身体を中心に、再び数十の“門”が開いた。
「ガアァァァアアァァァアア!!」
咆哮。
それはもはや言葉ではなく、獣の咆哮。
理性を失った立花響の全身から、黒い波動が噴き出していた。
「怒りか? その状態でも、まだ“怒り”を感じるのか? 立花響!」
フィーネの唇が愉悦に歪む。
「良いだろう! 馬鹿にされたのだから、愚弄されたのだから、怒るのは当然だ!
だが――そこは既に、行き止まりだ!」
パチン――。
乾いた音が、夜空に響いた。
その瞬間、響の周囲に幾十もの“門”が開く。
それは魔術の陣ではない。
空間そのものが穿たれ、異界と現世の狭間を繋げた“傷口”だった。
そして――。
爆ぜた。
音も、光も、衝撃も、一瞬で世界を塗りつぶす。
地を割り、瓦礫を吹き飛ばし、空を裂く。
門の奥から吐き出されたノイズが、数百、数千という群れとなって、
怒涛のように響へ殺到した。
暴走する少女の身体が、次々と叩きつけられ、穿たれ、抉られていく。
それでも響は止まらない。
痛覚すら壊れた身体が、なお拳を振るい、ノイズを砕く。
響の拳が、何度も空を裂いた。
その度に、フィーネの背後の“門”が開く。
金属の唸りと共に、無数のノイズが溢れ出す。
いくら殴っても、いくら叫んでも、終わらない。
破壊しても、次の瞬間には新しい“憎悪”が形を取る。
息が荒い。
拳を握るたびに、骨が軋む音が聞こえた。
それでも響は前に出る。
自分の怒りが、自分を焼いているのも気付かないまま。
「ガァァァァァァッッ!!」
「無駄だよ、立花響。お前が壊すたびに、新しい“怨嗟”が生まれる。
それこそが人の定め――円環の理だ。」
フィーネの声が、耳を刺す。
響の拳が止まる。
瞬間、無数のノイズの腕が彼女の身体を掴み、押し潰そうと迫った。
「――立花ッ!!」
その声が響いた瞬間、世界が一拍、遅れた。
次の瞬間、空気が震える。
背後から迫る――無数のノイズ。
黒い槍のように伸びた腕が、立花響の背を貫かんと迫る。
「ッ!」
響は振り返れなかった。
ただ、音もなく空気が弾ける音だけを聞いた。
世界が、一瞬止まる。
時間が伸び、音が遠ざかる。
――刺さった。
胸の奥が冷える。
遅れて、熱が広がる。
自分の身体なのか、誰のものなのか、判然としない。
振り向いた。
そこにいたのは、翼だった。
「……え……」
刹那、世界の色が失われる。
背中から突き出たノイズの刃。
翼の身体を貫き、血の霧が夜気に散る。
「ぐ……ぅッ……!」
焼けた鉄の匂い。
そのまま、翼は膝を折る――いや、折りかけて、止めた。
彼女は、まだ立っていた。
震える腕で、響を抱きしめるように庇いながら。
「……お前は……立花響だろう……ッ」
震える声。
けれど、その声音には、絶対の信念があった。
「ならば……その心を、忘れるな……!」
血が喉を伝う。
それでも翼は、笑った。
奏がそうしたように。
命を燃やして、ただ一つの想いを繋ぐために。
「■■ァ、ア■……アア……」
翼の血が、響に流れ込む。
それは、鋭く、それでいて、ひどく優しい熱だった。
何かを断ち切るようで、何かを結び直すような――そんな血。
そして、胸の奥で鳴る。
自分にとっての“始まり”の歌が。
「ア……ああ……―――」
暴獣ではなく、人としての理性と感情を取り戻した瞳で。
響は、震える喉で――
「―――あああああああああっ!!!」
悲嘆と無力を、そのまま声に変えて叫んだ。
*
走る。走る。
あの映像を見た瞬間、考えるより先に、身体が動いていた。
シェルターを飛び出して、灰と瓦礫だけが散らばる通路を、ただ、ひたすらに。
「たぶんこっち……きっとこっち……!」
理由なんてない。
名前だって知らない。
けれど――ベッドで、苦しそうに眠っていたあの子の顔が、脳裏から離れなかった。
どこか、泣きそうで。
どこか、無理して笑っているみたいで。
そんな顔、もう見たくなかった。
だから走る。
行き先も、出口も分からないのに。
「……あぁもう! どこよここ!!」
叫んだ声が、瓦礫に反響して返ってくる。
まるで誰かに嘲笑されているみたいだった。
シェルターの内部は、ノイズの侵入を防ぐために複雑に入り組んでいて、どこが上で、どこが出口なのかも分からない。
足音だけが、乾いた空気に吸い込まれていく。
「アニメだったら! アニメだったら、こんなとこ迷わないのに!
迷っても、カットされて! ちゃんと、カッコよく助けに行って、終わるのに!
……どうして、できないのよ!」
自分でも何を言っているのか分からない。
それでも言わずにはいられなかった。
声に出していなければ、きっと心が折れていた。
そのとき――地面が揺れる。
重たい衝撃音が、全身を貫いた。
「きゃあッ!!」
崩れた瓦礫に足を取られ、前のめりに倒れ込む。
手のひらに冷たい砂利が刺さる。
涙で視界が滲み、世界が歪んで見えた。
地面の低い視点から見える通路は、立って見るよりもずっと長く、恐ろしく、果てがない。
まるでこの先に“出口なんて存在しない”と告げられているみたいで、胸が締め付けられる。
「たった……三日よ……」
震える声が漏れた。
たった三日。
それだけで、あんなに辛そうな顔をしてた子が、幸せになれるはずないじゃない。
だから、走らなきゃ。
どうにかしなきゃ。
――どうにかしないと、誰も助からない。
「お願い……お願いだから……何か、起こってよ……!」
そう願っても、神様は答えない。
ただ、遠くで、崩壊の音が響いた。
分かっていた。自分はアニメが好きなだけの、ただの一般人の女の子A。
アニメを見れば、何かすごいことが出来る気がする。
けれどそれは、登場人物が“主人公”だからであって、
モブには何も出来ない。何も成せない。
この世界は、どこまでも“モブ”に厳しい。
現実は、誰の味方もしない。
……そう思った瞬間、遠くで誰かの声が響いた。
「――弓美ちゃん!!」
だからこそ。
それでも、だからこそ。
ただの少女の“一歩”が、世界を変えることだってあるのだ。