其処は明るく、そして穏やかだった。
何処までも広がっている、静かな世界。
明るい白が空一面に広まり、地面は霞が掛かったかのようにその姿を閉じている。
霞の先には、もしかしたら花園があるのかもしれないし、同時に何もなくてもおかしくない。
兎に角、何があるこか分からないということだけが分かった。
ゆらゆらと、揺らめく
それがそこだった。
ぼんやりと、やがてハッキリと――あたしは、自分が死んだということを受け入れた。
……受け入れたというのも、変な話ではある。
自分から命を捨てたはずなのに、いまいち“死んだ”実感がない。
それがどうにも……おかしくて仕方なかった。
自分の命を捨てたことに関しては、間違いなく自分自身の決断だったし、そのことに後悔はない。
だというのに、死んだ実感が湧かないのは――
この空間そのものが、どこか“他人事”みたいに感じるからかもしれない。
何処までも続く、静かな世界。
足元は霞んでいて、確かな感触がない。
周囲、四方八方は全て霧が覆っており先を見ることは叶わらない。
それでも、自分が死んだという確信だけはある。
まるで、誰かの死を遠くから見ているような気分だった。
――“自分の死”なのに。
「………。」
何もすることがなく、かと言って、何かをする理由が見つかるわけでもない。
仕方なく、霞の中を歩きはじめた。
もしかしたら、この空間が永遠に続いているのかもしれない。
そう思うと、ほんの少しだけ――針を喉元に近づけた時のように、心細くなった。
でも、きっとそれも当然の罰なのだろう。
結局、あたしは命を捨てただけで、それ以外の何かが出来たわけじゃない。
ただ、自分の信念に蓋をして、嘘をついて。
それでも、見せかけの“信念”だけは破ることができなかった。
中途半端なまま、生きていた。
……自分が“自分らしく”生きていられたのは、最期の最期だけだった。
そしてそれすら、きっと――誰かを傷つけることに繋がっていたのかもしれない。
その瞬間、雪音クリスはふと足を止めた。
胸の奥がざわりと揺れる。
今までどこまでも続いていたはずの白の世界に、僅かな“違和感”があった。
空気が変わった――そんな感覚だった。
音も、風も、匂いもないこの世界で、ただ一つ、何かが変わったと分かる。
気づけば、周辺の霧が薄くなっている。
歩き続けていたはずなのに、いつの間にか、そこは開けた空間だった。
それより外は相変わらず霧に包まれている。
だが、その場所だけは、半径十メートルほどの範囲で霧が遠のき、淡い光が満ちていた。
白い霞の中にぽつりと浮かぶ、静かな場所。
不思議と心を落ち着かせる穏やかな光景に、彼女はほんの少しだけ息をついた。
霧の中にあって、わずかに安らげる“休憩場”。
雪音クリスには、そんな風に思えた。
「……ん?」
ふと視線の先に、いつの間にか赤い光が揺れているのが見えた。
この白い世界には似つかわしくない、暖かな色だった。
近づくと、それが焚き火だと分かった。
小さな炎が静かに燃え、淡く周囲を照らしている。
その傍らに、一人の男が座っていた。
……男、と呼ぶのは半ば直感だった。
体格や座り方、焚き火の向こうから漂う落ち着いた気配――
それらを総合して、そうとしか思えなかった。
その人物は白く薄汚れたフードを深く被り、顔どころか、表情すら見えない。
まるで、必要最小限の情報以外を誰にも与えないようにしているかのようだった。
「なあ、アンタ……ひとりなのか?」
何となく、口が勝手に動いていた。
自分が一人でいるのが嫌だったのか。
それとも――あの男が、あまりにも静かにそこにいたからか。
問いかけた理由を、自分でもうまく説明できなかった。
白い靄の中で、焚き火の音だけが小さく爆ぜた。
「……そうだな」
不意に、低い声が返ってくる。
それはこの世界では異質なほど“生”を感じる声だった。
予想外だった。
この男はどういうわけか……もっと沈黙を選ぶタイプだと思っていたのに。
クリスは一瞬、拍子抜けして、
けれど同時にほんの少しだけ、安堵している自分に気づいた。
「座ってもいいか? 疲れてるんだ」
「だろうな。ここに来て、疲れていない人間は、それほどいないだろう」
焚き火の火が、ぱちりと音を立てた。
その光が、男のフードの縁をわずかに照らし、顎の線と口元だけをかろうじて浮かび上がらせる。
「ある意味では、幸運なタイプだが――お前は違うらしい」
淡々とした声。
それなのに、不思議と胸の奥に刺さる響きだった。
「別に構わないが、今座れる場所はもうないぞ」
言われて、クリスはようやく気づいた。
地面を覆う靄は、男の腰あたりまで濃く立ちこめている。
その下は見えず、奥に目を凝らしても――深い霧に呑まれて、境界すら分からない。
まるで、この世界には“地面”という概念すら存在しないようだった。
これでは、男が何に座っているのか見当もつかない。
けれど、その“何もない”空間の中で、ひとつだけ焚き火だけが、重要な
「なら良い。アンタに場所を譲ってもらう気も起きないしな」
軽口を叩いたつもりだったが、声が妙に乾いて響いた。
音が吸い込まれていく――まるで、この空間そのものが呼吸をしていないように。
「この下、座って良いものなのか? それとも、座ったら不味いか?」
クリスの言葉に、男がゆっくりと顔を向ける。
一瞬だけ、フードの奥から覗いた瞳が見えた。
鷹のような鋭さ――それが、相変わらずこの世界で唯一“生”を感じさせるものだった。
だがそれ以上の情報は、なぜか求める気になれなかった。
「そうだな……」
男は少し考え、焚き火を見つめながら口を開く。
「聞くが、お前には“大丈夫”に見えるか?」
「何言ってんだ。見えないんだよ、霧に囲まれて」
男は静かに頷いた。なるほど――と、どこか納得したように。
そうしてクリスは改めて気づく。
焚き火の周囲には、薪が一本もない。
燃えるものがないのに、火は消えず、まるで永遠を約束されたように灯り続けている。
ああ、やっぱり。ここは“そういう場所”なのだろう。
あの世というやつは、理屈の通じる場所ではないらしい。
「成程、見えないか」
男がぼそりと呟いた。
「俺には、ここが――どこまでも続く夕焼けの荒野に見える」
「ーーは?」
「お前のような奴に会うのは、初めてだ。
今までは、誰にも会わなかったからな」
その声音は、懐かしさと安堵の混じった響きだった。
「どういうことだよ」
「人それぞれだという話だ、雪音クリス」
その名を呼ばれ、クリスの眉がわずかに動く。
「知覚の個人差……
この場所では、それが顕著に現れる。
俺の見ている世界と、お前の見ている世界は――同じ場所にあっても、違うんだよ」
随分と神妙な言葉を使う男だ。
何だか煙に巻かれているような気もするし、もしかしたら――そういうつもりすらないのかもしれない。
「アンタ、いつからここにいるんだ?」
何気なく投げかけた問い。
だが男は少しだけ目を伏せ、焚き火の炎を見つめた。
赤でも橙でもない、どこか曖昧な光がその瞳に映る。
「……残念ながら、途中で数えるのをやめてしまったよ」
静かに吐き出す息に、乾いた笑みが混じる。
あからさまな苦笑というよりは、自嘲に近かった。
「なにぶん、それしかすることが無い……という話ではないのでね」
「ーー仕事があるのか?」
思わず聞き返すと、男は僅かに肩をすくめた。
「そうだな。言うなれば――“私だけの仕事”だ」
「はあ……」
どういう意味かは分からない。
だがその言い方には、どこか“重み”があった。
冗談めかしているのに、どこか取り返しのつかない響きを含んでいる。
「聞くが、それはアタシには出来ないのか?
こんなところに来て言うのもなんだが、暇なんだよ。
男は、ゆっくりと顔を上げた。
焚き火の橙に照らされて、薄く笑みを浮かべる。
その瞬間、クリスは息を呑む。
はっきりとは言えない。だが、その時点で彼女の心には死が近くにあったとは思えない程、穏やかな感情が浮かんでいた。
「ならば、こちらから聞こうか」
低い声が、焚き火を揺らすように響く。
「お前は、私のする仕事が出来ると思うか?」
問われて、クリスは眉をひそめた。
男は炎を見つめながら、淡々と続ける。
「人を守る――そう言えば聞こえはいい。
だが、実際は違う。
十を守るために一を捨てる。
百を守るために十を殺す。
そんな掃除ばかりだ」
焚き火の光が、男の横顔を照らす。
その影には、幾度も炎に焼かれたような深い疲れがあった。
「……そんな馬鹿げた仕事、お前に出来ると思うか?」
問いかけは静かだった。
だが、その一言に込められた重みは、あまりにも現実的で――
まるで、現世の地獄を知っている者の言葉のようだった。
「うん。無理だな」
クリスは特に悩むこともなく、即答した。
「そんな仕事、何で今もやってんだ。
バカなのか?」
その言葉に、男はわずかに口元を緩める。
笑っているのか、それとも苦笑なのか判別がつかない。
「そう言ってもらえるとありがたい。
私も、うら若き乙女をそんな仕事に借り出したくはないからな」
焚き火の炎が、ぱち、と音を立てた。
その音が、言葉の代わりに沈黙を区切る。
キザな言い回しに、クリスはげんなりした顔をする。
場違いなほど落ち着いた声音が、かえって耳についた。
(なに言ってんだよ……今の空気でそれ、出てくるか?)
そう心の中で呟く。
文学の教養があるわけでもないが、
少なくとも――こういう時に使う台詞じゃないことくらいは分かる。
「それで、いいのか?
アンタは、それで。アタシだったら多分、今頃発狂してるぞ」
クリスが、軽口を叩くように言った。
だがその声の奥には、わずかに滲む心配の色があった。
ただ、それを素直に言葉にするほど、彼女は器用ではない。
「少し前なら――確かに、絶望していたさ」
男は小さく笑った。
それは乾いた笑いだったが、不思議と、穏やかでもあった。
「ーー答えは得た。
たとえ今の仕事がどれほど残酷であろうと、
ここに至るまでに積み上げてきたものまでが、間違いだったわけじゃない。
それに――」
言葉を切る。
焚き火の火がぱちりと鳴って、ふたりの影がゆらぐ。
その続きを促すように、クリスは自然と身を乗り出した。
何が出てくるのか。
納得のいく言葉か、あるいは許せないほどの偽善か。
どちらであれ、聞くつもりだった。
「その仕事の中で、掛け替えのない出会いをすることもある。
古い鏡を覗いてみたり、月の迷宮を駆け抜けてみたり、はたまた、世界を救ったり。」
男は、ふっと笑う。
懐かしむような、それでいて遠くを見つめるような目だった。
「……生憎どこで、どんなふうにだったかまでは、もう思い出せない。
けれど、その出会いが美しく、大切なものだったということだけは、はっきりと覚えている」
その声音には、悔いも嘆きもなかった。
ただ、長い旅路の果てにようやく辿り着いた者の静けさだけがあった。
クリスは小さく息をつく。
きっと本当に、良いモノだったのだろう。
そう思えてしまうほどに、その言葉には揺るぎがなかった。
「――さて、ここからは君の時間だ」
男がゆっくりと顔を上げる。
その視線が、まっすぐにクリスを射抜いた。
焚き火が、ぱちりと鳴る。
それが、まるで“現世へ戻るための合図”のように響いた。
「お前は一体、何のために生きる?」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
淡い火の粉が宙に舞い、男の声が静かに続く。
「一応、聞くが――“何のために死んだ”ではない。
唐突に向けられた問いに、クリスは目を瞬かせる。
けれど、答えはすぐに口をついた。
「何って……そりゃ、誰かのためだよ。
あたしは、あまりにも罪深い。
だから、誰かのために生きるんだ」
男はしばらく黙っていた。
焚き火の音だけが、間を繋ぐ。
やがて、深く息を吐いた。
「……そういう話ではない」
「は?」
「それは“何のために死ぬか”の話だ。
お前が言っているのは、贖罪だろう。
けれど――生きるというのは、それとは違う」
声は穏やかだったが、同時にその響きには冷ややかな確信があった。
「いいか。
人間が生きるのは、究極的には
誰かのために見える生も、最後には必ず己に還る。
それが分からないままでは……お前の“生”には意味が生まれない」
焚き火の光が、二人の間に小さな影を作る。
クリスは、その影を見つめながら歯を食いしばった。
「……言いたいことは分かるけどな。
それでも、あたしは誰かのために生きたいんだよ。
それがアタシなんだ」
その言葉に、男はわずかに口角を上げた。
嘲るようでもあり、どこか懐かしむようでもあった。
「それが間違いなのだ。
お前が誰かのために死んだのも、本質的には――“死にたいほどに大切な誰か”がいたからだろう?
それを、見つめろ。」
「………。」
無言で、クリスは目を伏せた。
焚き火の明かりが、わずかに瞳の奥で揺れる。
心の奥に沈めていた過去が、ぼんやりと形を取り始める。
“誰かのため”という言葉の奥にあるのは、結局――“自分が守りたかったもの”だった。
その矛盾を、あの男は見抜いている。
悪くない、と言えば嘘になる。
じゃあ、自分はどうすればよかったのか。
誰かのためではなく、自分のために。
もしも、それが許されるのなら――
「聞くぞ? お前は何をしたかった?
究極的には、そこだ。
そこを忘れているからこそ、罪深い」
言葉が、胸を突いた。
まるで心臓の奥に刃を刺されたみたいだった。
「……そうだな。アタシ……アイツに、何も出来てない。
あんなに助けてもらったのに。
アイツにも、だ。
あの人がいたからこそ、今のあたしがあって……
それに……アイツも」
声が震える。
頭の中で、光景が浮かんでは消えていく。
笑っていた顔。泣きそうな声。伸ばした手。
どれも、もう二度と届かない。
――でも。
(だったら、どうすればいい?)
その問いを胸に刻んだ瞬間だった。
空気が、わずかに震えた。
何かが、遠くから流れ込んでくる。
微かに――懐かしい音が。
霧の向こうで、確かに“それ”が聞こえた。
ゆっくりと、わずかばかりに光が差す。
霧の帳が裂け、一本の細い道のように、その先だけが晴れていた。
白一色だった世界に、初めて“輪郭”が生まれる。
その先に見えるのは――草原。
風が流れたように錯覚するほどの、柔らかな緑の気配。
「――ほら、それが聞こえたのなら、まだ死ぬわけにはいかないだろう?」
男の声が背中から届く。
皮肉めいているのに、不思議と優しい響きだった。
「どうやら、死ぬのはまだ早いようだぞ」
焚き火の光が、わずかに揺らぐ。
その明かりが、彼女の背を押した。
クリスは、ゆっくりと一歩を踏み出した。
霧が足元でほどけ、白の世界に色が混じっていく。
踏みしめるたびに、世界が戻ってくる感覚。
噛み締めるように。
掴み損ねた温もりを、二度と離さないように。
――歩き出した。
「最後に一つ、良いか?」
「一つだけだぞ」
振り返らず、前を見据えたまま。
霧の中を歩きながら、クリスはぽつりと呟いた。
男は少し間を置いてから、やけに穏やかな声で答えた。
「お前、こんなところにいる癖に……意外と元気そうで、安心したよ。クソッタレ。」
焚き火の音が、小さく弾けた。
それが別れの合図のように、ふっと光が揺らぐ。
「じゃあな。」
足音が遠ざかる。
白い世界が再び、静寂に包まれていく。
最後に、彼女はほんの少しだけ笑った。
「……士郎。」
「ーー。」
その言葉に、衛宮士郎は何も言わない。
言うべきではないのだろう。
それでも、ほんの少しくらい優しさを見せてもいいのではないか――そう思ったとき。
後ろから、その声が届いた。
「……負けるなよ。」
それが誰に向けられた言葉なのか。
あたしに、まだ戦っている誰かに――それとも、“生きること”そのものに。
分からない。けれど、そのどれでも良かった。
考えようとしたが、それよりも強く、光の先に引き寄せられる。
抗うことも、立ち止まることもできなかった。
だから、ただ。
小さく笑って、振り返らずに言った。
「負けねえよ。――ずっと、負けられない。」
それだけを伝えて、クリスは真っ直ぐに霧の中を進んでいった。
振り返ることなく、真っ直ぐに。
*
――それは、ずっと昔のことだ。
まだ“彼”が生きていた頃の話。
『あたしの黙ってた昔のことを話すから、アンタの昔のことを話してくれ』
その日に起きたことは、男にとって大した出来事ではなかった。
彼らが守っていた難民キャンプが襲撃され、戦火が激化し、そして逃げ惑う中で――
ほんの一年ほど共にいた一人の少女が、死にかけていた。
……いや、正確には違う。
彼女は“死にかけている”のではなく、
今まさに“死のうとしていた”。
血は止まらない。
地面を濡らし、やがて湖のような血の池をつくる。
その中心で、少女はもう開かない瞳を閉じたまま、
しゃくりあげるような、弱い呼吸だけを繰り返していた。
――これを“死にかけている”と呼ぶのは、もう違う。
そう理解しても、笑う気力すらなかった。
第一、わざわざ“襲撃された”という時点で話がおかしい。
戦火の拡大が目的なら、他にいくらでも方法はあるだろう。
なのに、狙われたのはこの難民キャンプ。
ならば理由は一つしかない。
「……俺、か。」
諦めを滲ませるように、男は呟いた。
それでも、心の奥は静かだった。
自分を恨む人間がいてもおかしくない。
自分はその分だけ、誰かを救ってきたのだから。
後悔など、あるはずもない。
――“もう、充分だろう?”
風の音に混じって、そんな声が聞こえた気がした。
そうだな、と独りごちる。
もしこれで全てが終わるのなら、自分の命くらい安い。
そうだな、自分が目的だというのなら、自分の命とかわりに戦争の終結でも願ってみるか。
ただ死ぬよりはよっぽど上等だ。
この少女は、無念だとは思う。
だが、だとしても志願して付いてきた少女だ。
そのことに、哀れみを自分が向ける資格があるのだろうか?
「……もう、潮時だな」
ぽつりと呟き、男は立ち上がった。
この場で立ち止まっている時間すら惜しい。
少女のことを哀れに思おうとも、
それよりも優先しなければならない“他の避難民”がいる。
そう自分に言い聞かせ、踵を返しかけた――その瞬間。
風もないのに、空気が小さく揺れた。
まるで、何かがその名を呼んだかのように。
男は足を止めた。
そして、確かに“それ”を聞いた。
「―――……。」
少女は、歌を歌っていた。
既に意識はないはずなのに。
血に濡れた唇を震わせながら、掠れた声で。
呼吸を一つするだけでも血が気管に入り、痛みに喉が詰まるはずなのに――それでも、彼女は歌っていた。
「………。」
『あたしのパパとママは、歌で世界を平和にするなんて、戯言をほざいていた。
そのせいで、あたしは捕虜になって……
アタシは……アタシは、歌なんて大嫌いだ。』
哀れなことだと、男は思った。
だが同時に、自分がその少女よりもずっと臆病だったことを恥じた。
この少女は、死の淵にいながらも――まだ、生を掴もうとしている。
痛みも、恐怖も、すべてを呑み込んで、それでも前を見ようとしている。
それなのに、俺はどうだ?
楽になりたかっただけか?
解放されたかっただけか?
脳裏に、遠い昔の声が響く。
『士郎、貴女は私の……』
ああ。
結局、君に返すことができなかったな――この鞘を。
もし、あの時ほんの少しでも選択肢を違えていたのなら。
君の手の中に、これがあったのかもしれない。
ーー正気か?
問いは、己の内から響いた。
それは理性であり、良心であり、恐怖でもあった。
「……無論だ。」
短く息を吐き、男は応えた。
「何もしなければ、彼女と私は死ぬ。
だが――こうすれば、彼女だけは助けられるかもしれない。
それが上手くいくのかは、私にも分からないがな。」
彼は誰に語るでもなく、静かに言葉を紡ぐ。
まるで、自分の中の“躊躇う子供”をあやすように。
「では、達者でな。雪音クリス」
男は静かにそう呟いた。
その掌に、淡い光が宿る。
焚き火の炎に似ているが、それは熱を持たない――ただ、優しく揺らめく光。
まるで、何処かで見た火が、いま彼の人生の形を取っているかのようだった。
男はその光を、少女の胸へとそっと押し当てる。
光は静かに沈み込み、赤い血潮の中に溶けていった。
その瞬間、少女の呼吸が、ほんのわずかに強くなった気がした。
「……どうか、良い人生を。」
男の声は風のように穏やかで、そして、消えるように途切れた。
残ったのは、まだ温もりを残す光の残滓だけ。
もう誰も知らない、昔の話。
*
「は─────あ、はあ、は────……」
どこか高所から無理やり叩き落とされたような感覚と共に、少女は地面から起き上がった。
おかしい。
たしかに、自分は死んだはずだ。
それなのに、息をしている。
───だが、不思議と動揺はなかった。
死んだと思ったら生きていた。
そんな経験、人生で既に一度している。
「……ったく、ほんっとロクでもねぇ」
そう、自嘲めいたため息を吐いたところで───
少女は、一つの重大な事実に気づいた。
「……あ?」
痛みが、ない。
あれほど焼けるようだった傷も、砕けた骨の軋みも一つもない。
胸に手を当てる。
確かにあの時、自分の胸は完全に崩壊していた。
緩やかに傾いでいく視界の中で――間違いなくそれを見ていた。
「……ぐっ」
思い返した途端、脳に鋭い痛みが走る。
そして気づいた。
無くなったはずの片腕が、そこにある。
「………。」
拳を握り、開く。
当たり前だった動作を、確かめる。
感動は、特にない。
ただ――事実を確認しただけ。
まずすべきことは状況の確認。
崩落した校舎。
夜空に浮かぶ月。
意識を落とす前と、ほとんど変わっていない景色。
ただ、ほんのわずかに月の場所が違う……気がする。
それくらいだ。
意識を失っていた時間は――恐らく三十分ほど。
「ふざ……けんなよ……」
震える声が漏れた。
なぜ治っている?
誰が助けた?
そもそも、どうして自分は――まだここに立っている?
そして
あの男だ。
薄汚れた白いフードの、あいつが。
助けられた。
託された。
胸の奥が脈打つ。
それは痛みではなく――熱であった。
「……勝手な真似、してくれたじゃん」
吐き捨てた声に滲む、怒り。
そして、ほんの少しだけ嬉しさ。
感じるのは、まだ……終われないというみっともない決意。
「ん……」
立ち上がる。
重い身体を何とか持ち上げ、トン、トンと軽く飛び跳ねる。
うん。問題ない。唯一問題があるとすれば……
「まいったなぁ……」
胸元に触れた指先が、壊れたペンダントを掴む。
ギアのコアが砕け、もう光らない。
唯一の
なぜか、心中に焦りはなかった。
胸が熱い。
背中が疼く。
身体が、これまでとは全く違う物に変化した感覚。
────どうしてだろう?
「……まだ、戦える」
自分で驚くほど、強い確信がそこにあった。
瓦礫の山を踏み越え、数歩進む。
その先で、誰かが倒れているのが見えた。
「───雪音か?」
呼ばれた名に、クリスは足を止める。
「……風鳴翼か」
月明かりに照らされた翼は、地に膝をついていた。
それだけで、ここに何があったのか想像がついた。
「よう。随分とこっ酷くやられたらしいな。」
自身の姿を見て、それこそ
「そちらこそ。……なんで生きているんだ」
「さあな。一応、仮説はあるけどよ。
聞くか? 長くなるぞ」
クリスは冗談めかして翼に聞かせる。
「……いや。
立花が……フィーネと……戦ってる……
すぐにでも助太刀に――ぐっ」
何とかして立ちあがろうとするが、それよりも早く、翼は胸を押さえて倒れ込む。
その姿を見て、クリスは即座に分析を始めた。
「
──フィーネに悟られないよう、曲がり角で試すように、密かに実施する。
本来なら、それはかなり時間がかかる、回り道の方法である。
「あ─────」
だが、その状態でも分かるぐらい、ハッキリと以前よりも遥かに解析が早い。
内側に宿った新たな力が、そのまま分析能力の向上に繋がっていると悟る。
小さく満足しながら、状況を口にする。
「今のこの状態……
歌で活性化したフォニックゲインが、お前のシンフォギアに流れ込んでる。
だけど適応が追いついてねえ。
今のお前には負荷がデカすぎる」
短く息を吐き、続けた。
「深海に潜った直後に、急浮上したようなモンだ。
それも──ボロボロの血管でな。
そりゃ身体が壊れるわけだ。
一応聞くが、立花響もこんな感じなのか?」
「ああ。恐らくだが、ほぼ間違いない。
すぐにでも助けに向かわねば……っ」
翼は再び立ちあがろうとする。
それが一人残された響を案じての行動なのは、見ればわかった。
だが──そのまま行かせる気にはならなかった。
「待て待て! 冷静になれってんだ。
言っただろ? 適応が間に合っていないんだって」
クリスは翼の肩を押さえつける。
「今回の件、アタシだけは───まあ訳あって適応が間に合った。
だから、ここはアタシに任せろ」
言い切る声は強い。
決意と覚悟がそのまま響いていた。
「適応が間に合ってないなら──間に合ってから追いつきゃいい……だろ?
その間は、アタシが繋ぐ」
「──だが……」
そうは言うが、それは無茶ではないだろうか。
響もまた、翼と同じだと言うのなら、クリスはシンフォギアを纏うこともできない、そんな生身の状態でフィーネの前に立たなければならない。
そうなれば、どうなるかは想像に難くない。
それを許容出来る、翼ではない。
「………」
何も言わずに、ズイと前に出る雪音クリス。
死ぬ。今度こそ死んでしまう。
今度は、此度のような奇跡が再度起きる筈もない。
ノイズによって、跡形もなく、塵としてそこいらのゴミのように捨てられる。
「なあ、風鳴翼……」
だが、雪音クリスはなおもその表情を崩さない。
これから確実に起こりうる、自分自身の言いようのない程の死よりも尚、見られるものがあるかのように。
「■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■?」
傲岸不遜に、彼女はその言葉を返した。
*
「まあ、待て。確かにその力はいい物だが、万全じゃない。
あっちの風鳴翼も似たようなものだったぞ。
無理すんな。時間はあたしが稼いでやる。」
──そして、時間は現在へと巻き戻る。
「クリスちゃん……?」
「──応。」
砂煙が巻き上がるなか、雪音クリスはフィーネの眼前へと再び舞い戻った。
「心配するな。アタシには、ある程度やりたいこと、それから勝算があってたまらないんだ。
それを試したくて仕方がない。
それに、随分アイツには借りがあるからな。
――ここは、あたしに任せろ。」
ニヤリと笑みを浮かべて、クリスはフィーネを睨みつける。
「何故、貴様が生きている?」
「ソレ、お前が言うことか?
お前だって、
「クク……」
クリスの軽口のような言葉の応酬に、フィーネは笑いを抑えきれないかのように、笑みをこぼす。
「──だとして、だ。
雪音クリス。お前は私に挑むつもりか? たった一人で。
ああ、いや。時間稼ぎだったか?
クク、クククク……
傲慢ここに極まったな。貴様、見ればシンフォギアも失っているようだが。
その状態で、私に挑むと? 時間が稼げると?」
フィーネの指摘に、クリスは自分の身体を見つめる。
「……。」
ボロボロの服も、乾いた自身の血がこびりついた手も、確かに頼りようがない。
「自身の身体を見返してみろ!
お前にそんなことは出来ない。叶わない!
貴様は、そんなことも分からないのか!!」
彼女の言うことは最もだ。少し前の自分なら、こんなことをするなんて、考えられなかった。
だが、クリスはそれでも負けるとは、何も出来ないとは少しも思うことは出来なかった。
「そうだな、フィーネ。
一つ聞いても良いか?」
「──なんだ。命乞いか?」
まさか?
そんなことをするわけがないというのは、お前だってよく分かっているだろうに。
ああいや。これも一種の挑発だろうか。
なら良い。そっちが“その気”だというのなら、こっちだって遠慮せずに返してやれる。
「いや。時間を稼ぐのはいいんだが」
雪音クリスは前に一歩進む。
両手は無手。一切の武器など持ち合わせていない。
あるのは、ただ。その身一つだけ。
「――別に、お前を倒してしまっても構わねえんだろ?」
空気が凍った。
今、これ以上の会話は一つもないと。
そう、暗に告げているかのように。
「ならば良い。貴様の死骸、一片たりともこの世に残してなるものか!」
空中に門が浮かぶ。
アレがどういうものなのか、既に翼から教えられている。
問題は無い。
「ーー来な、フィーネ。
こっからが最終決戦って奴だ」