少女にとって、世界とは残酷なものだった。
期待すれば、裏切られる。
助けたところで見捨てられる。
心の優しい人間には、生きていくことが許されない世界だった。
そんな世界だった。
だが……
「士郎。パパ、ママ……」
彼女は、世界に絶望することすら、赦されなかった。
世界がもう、平和になどなり得ないことを、嫌というほど知っていた。
それでも――彼女はその願いを、手放せなかった。
彼女の絶望が、何処まで続くのか。
それは、誰にも分からない。
*
「はあ……」
俯いたまま、街を歩く少女がいた。
肩まで伸びた髪が、風に揺れている。
明るい色の服とよく馴染むその髪は、淡い茶色――春の光を閉じ込めたような色だった。
少女の名は、立花響。
幸か不幸か、ほんの数ヶ月前にガングニールの装者としてノイズとの戦いに身を投じることになった。
だが、その成果は著しく無い。寧ろ結果だけを見れば、惨憺たるものだった。
ノイズとの戦闘では、基本的に先輩装者である、風鳴翼が先行、殲滅し。
彼女はその後を、ただ必死に追うしかなかった。
時には、自分の存在が足手纏いにさえ思える。
自分でも、どうしてここまで無力なのかと、焦りに呑まれそうになる。
「どうしたの?響?」
親友の小日向未来にも、心配の声を掛けられている。
二課からの指示で、シンフォギアの事は、他者に公言することは許されない。
誰にも話せない。未来にも。
それだけで、胸の奥がきつく締めつけられる。
「いや、何でもないよ……」
心なしか、普段のような元気な響の声は、どこか遠くに置き去りにされたようだった。
「本当に?」
未来が響の目の前に自身の顔を覗き込ませる。
やはり、長年の交流故に彼女には気づかれてしまうのだろう。
それでも、この事を彼女に言うわけにはいかない。
『シンフォギアは、政府の抱えている超特大の秘密。
シンフォギアの情報は、世界中の国が、必死になって探してる。
それこそ、どんなことをしても。
つまりこの事を誰かに話して仕舞えば、その人を危険に晒してしまう……なんてことにもなりかねないのよ』
二課で言われた言葉が耳に響く。
響だって、未来を危険に巻き込みたいなんて、思わない。
ただ、かけがえのない親友である彼女に秘密を抱えてしまうことは、これ以上ないくらいに心苦しい。
「うん。ちょっと反省文を書くのに寝不足になっちゃっただけ。
大丈夫。平気へっちゃらだよ」
嘘と分かるほどに拙い言葉を、どうにか搾り出した。
だが、未来の自身に向けた憂虞の視線は無くならない。
慌ててどうにかして話題を逸らそうと、視線を周囲に向けて右往左往させる。
そこでふと、見上げた木の上で、小さな子猫が震えているのが目に入った。
「あ……」
子猫の姿を捉えた瞬間、響はほぼ無意識に駆け出していた。
「ちょっと、響!?前もこんなことしてなかった?」
「うん。でも、ほっとけないから」
そう言って響は駆け出す。
そんな彼女の姿を見て、未来は一瞬だけ呆れた顔をして、それでもすぐに響の後を追った。
「もお!どうするの?学校遅刻しちゃうよ」
「それは、この子を助けてから考える!」
「ええ〜〜!?」
余りにも荒唐無稽な響の言葉に、未来は呆れた声を上げる。
正直なところ、予想はしていた。
だが、行動している所を実際に見るとやっぱり呆れてしまう。
「ちょっと、響!?」
声を掛けた瞬間には、響は猿のようにスルスルと木を登り、子猫のすぐそばまでたどり着いていた。
「ほら、おいで。大丈夫。怖くないよ……」
ゆっくり、子猫の瞳を見つめながら、響は手を伸ばした。震える声を抑え、まるで魔法のように、そっと囁く。
「もおーーっ! そんなこと言っても、その子に通じるわけないじゃん!」
真下から未来の呆れ声が響く。それでも響の手は止まらない。
「……あと、少し」
枝葉を踏む音にすら気にかけながら、彼女は慎重に、枝の先へ身を乗り出す。
――あと少しで、届く。
そう、確信し、ほんの少しだけ気を抜いたその瞬間、足元の枝が――パキリと音を立てて、裂けた。
「きゃあっ!!」
「響!?」
音と共に、響の体がふわりと浮く。子猫の小さな悲鳴も、空気に溶けて消えていったようだった。
ひゅっ、と胃が跳ねた。子猫を抱いたまま、響は悲鳴を上げた。
逃げ場なんて、どこにもなかった。背中から、地面へ一直線。
「っと。」
「あぎゃっ!!」
次の瞬間、道から、黒髪で眼鏡の少女が飛び出して来た。
少女は、地面を蹴り上げると空中を回転する子猫を、難なくキャッチしてみせる。
響に関しては、特にフォローも無く、そのまま地面に激突した。
「響!!」
「ったく……」
慌てて駆け寄る未来をよそに、黒髪の少女は、子猫の首根っこを掴んだまま、そっぽを向いた。
響の方など見もしないで、スタスタと歩き出す。
――少しくらい、心配してくれても良いのに。
そう言いかけて、やめた。
親友が立ち上がるのを見て、それだけで、未来は言葉を飲み込んだ。
「ありがとう。私、鈍臭くて。
助かったよ」
「……。」
黒髪の少女は子猫を優しく離してやると、そのまま何かを言うわけでもなく、ただ黙って響の姿をじっと見詰める。
「私、立花響って言うの。
えっと、君の名前は……?」
「何で……わざわざテメェなんかに、あたしの名前、教えなきゃなんねぇんだよ?」
そんな響に対して、少女は苛立ちを隠すこともなく、低く押し殺した声で返す。
「あ、そっか……うん、ごめんね。わたし、ちょっとズレてたかも」
「……ふん!」
頭の後ろに片手を回して謝罪をする響に、少女は鼻を鳴らすと、踵を返して歩き去ってしまった。
「何なの?あの子、あそこまで言うなんて、変わった子だね?」
親友からの好意を無碍にされたからなのか、未来の珍しく強い口調に、響は黙ってうなずくしかなかった。
その頷きには、どこか濁った迷いが滲んでいる。
「うん。変わってるね。あの子、何だか全然嬉しそうじゃない」
「へ?」
ポカンと表情を惚けさせる未来に対して、響は更に言葉を重ねる。
「人とか誰かを助けると、心の中がポッてあったかくなって、嬉しい気持ちになるのに、
あの子……なんだか、すごい悲しそう。」
黙って去っていく少女の背中に、響は哀れみとは違う、そんな視線を向ける。
「そうかな?響の気にしすぎなんじゃない?」
その問いかけに、響は視線を落として頷くだけしか出来なかった。
「ねえ、響今日、流星見に行くの、覚えてる?」
「へ?どうしたの?急に」
唐突に呟く未来に、響はポカンと惚けた表情を見せる。
「なんだか、最近響、用事があるって言って、色々動いてるから。
……行けるのか、心配になっちゃって」
虚し気に、言葉を重ねる未来。
今まで、彼女との間に、隠し事は無かった。
それが、二課でシンフォギアの装者として活動することになってからは、その事を必死になって隠し、彼女を遠下げるようになった。
「なんとかするから。だから、ごめんね」
「うん……」
ハッキリと肯定するわけではない響の言葉に、未来は頭を下げる。
どうしても、はっきりと大丈夫だと言って欲しかった。
それでも、追求をするわけでもない。
もし仮に、そんなことをしてしまったのなら、自分は響を信用してないことになってしまう。
短くも、永遠のように思える沈黙が流れた。
次の瞬間、静寂を切り裂くようにして突然響の携帯のアラーム音が鳴った。
響の個人用の携帯ではない。この一ヶ月、否応無く耳に入るこの無機質な音……。
ジャケットの右ポケットが振動している。
つまり。
「……はい」
*
「クソッ!」
響を無視して離れた少女は、薄暗い路地裏で拳を壁に叩きつけた。
黒髪のウィッグが外れ、白い髪が肩にふわりと落ちる。
誰にも関わるつもりなどなかった。
それなのによりによって、立花響――最も関わってはならない存在に接触してしまった。
自分の軽率さが腹立たしい。
冷静でいられるはずだった。あんなくだらないことなんてせずに、潜伏に徹するべきだった。
……それなのに、何をやっているんだ、あたしは――。
白髪の少女……クリスは自身の軽率さに苛立つ。
無駄だとわかっていた。けれど身体が勝手に動いてしまっていた。
衛宮士郎との日々で染みついた“悪癖”が、今さら顔を出すだなんて。
完全に予想外だった。
ギリギリの所で、立花響との接触を最小限に抑えたから良いものの。
自分の足跡を残してしまっては、それがいつ、どんな時に尾を引いてくるのかは分かったものではない。
「……いや、大丈夫だ。この程度なら、どうとでもなる」
虚空にこぼすように呟く。
たしかに、今回のは失敗だ。間違いなく痛手ではある。
けれど、致命傷じゃない。まだ、やれる。取り戻せる。
くだらない自責に耽るくらいなら――目的を遂げろ。
そう、自身に言い聞かせたクリスは、手のひらを地面に優しく押し当てた。
「
呪文を唱え、そこを起点に、彼女の魔力が地中深くへと浸透していく。
やがて、地中を這う魔力は、彼女が立っていた場所の地下深くに存在する、地下鉄の構内へとたどり着く。
この魔術なら、実際に足を運ばずとも地形や構造を把握できる。クリスが好んで使う理由だ。
人が多い場合は、その人間がいつ、どこに集まり、どう動くかまで調べなければならない。
だが、今回は深夜の実行だ。そのような余計な手間は不要だった。
「………。」
無言で、地面に触れていた手を離す。
構造、材質、内部空間──目を閉じるまでもなく、既に頭の中には簡易な設計図が描きあがっていた。
想定通りだった。
地下鉄は主にコンクリートと鋼材によって組み上げられ、ところどころに倉庫として使われている広い空間が存在する。
ノイズの性質と合わせれば、この地下は中々に良い戦場だ。
ノイズは人間のような有機物に触れれば、それを瞬時に炭化させ、自身もまた崩壊する。
だが、無機物なら話は別だ。
この世界の理に属さず、別次元に存在しているノイズはそれを障害とせず、ただ通り抜ける。
──この特性と地下鉄構内の構造を利用すれば、いくらでも奇襲が仕掛けられる。
シンフォギアの装者といえど、絶えず警戒を張り巡らせることはできまい。
この策で、立花響を捕らえられたのなら、それで万々歳。
ただ、それで満足するほど、甘い考えは持ち合わせていない。
もし仮に、そうならなかった時の為の備えも必要だ。
立花響については何の問題にもしていない。
警戒するべきはやはり、もう一人のシンフォギアの装者である、風鳴翼だ。
フィーネから貰った情報によれば、風鳴翼は立花響とは違い、幼い頃からシンフォギアの装者としての訓練に励み、戦闘経験も豊富らしい。
この襲撃、鍵になるのは風鳴翼をどう立花響から引き離すかだ。
もし仮に、ノイズでの奇襲が上手く行かなかった場合は……
クリスは、カバンから二振りの剣を取り出す。
黒と白、陰と陽。交差する刃が静かに光を弾いた。
――あたしが出る。
静寂の中、少女は立ち上がる。
希望の名を捨てた少女に、もはや迷いはなかった。
*
愛剣と共に、
片翼の喪失から数年。
ガングニールを纏う、少女が現れてから数ヶ月。
風鳴翼は、穏やかではないその心中を必死に押し殺した上で、目の前のノイズを殲滅する。
例えどれほどの日がどれほど過ぎようと、喪失の痛みは癒える事はなく、彼女の心を締め付ける。
それでも、その国を守る、護国の使命から逃げることは、自分自身が許せなかった。だからこそ今も、彼女は戦い続けている。
装者・風鳴翼。
護国の使命を背負うこの名の下、彼女は戦場へと足を踏み入れる。
コンクリートの地に、黒い瘴気が沸き立つ。
ノイズの咆哮が、夜の帳を裂いた。
――即応。
蒼き光が、空間を貫いた。
展開される
疾風の如く、翼は駆ける。
その刹那。
鋼の刃が閃光を引き、唸るように斬り裂く。瞬間、ノイズは黒煙と共に炭の塊へと崩れ落ちた。
無駄な言葉はない。
誇りも怒りも、すべて剣に込める。
「………。」
そんな戦闘の最中で、翼は明確に違和感を感じていた。
――動きが、妙だ。
これまでのノイズは、獣のように無秩序に突っ込んできた。
個々の行動は予測できず、ただ手数で押し潰そうとするだけの存在。だが今のこいつらは違う。
左右から迫る二体が、寸分違わぬタイミングで飛びかかってきた。
視線すら交わさずにだ。まるで訓練された兵士のような連携。
「……連中、意思疎通でもしているのか?」
背筋が、寒くなった。
ノイズにそんな真似ができるはずがない――それが“常識”だったのに。
だが……
「■■■■■■■■――――――ッ!!」
「ぐっ!!」
まただ。
自分の死角から、壁を通り抜けて出現するノイズ。
単純であり、偶然として片付けられるほどの些細な事であるが、翼には、ノイズが意思を持って、戦略的に動いているように思えた。
――何かがおかしい。
ノイズが、まるで“連携”しているかのようだ。
後方支援を潰すように、配置された個体。
逃げ道を塞ぐように、壁から這い出る影。
一匹の単純な獣が、まるで軍隊のように動いている。
「立花は、何処に?」
翼は素早く跳躍し、逆手に構えた剣で、背後のノイズを炭に変える。
地に落ちるその音は、風の鳴き声と共鳴するように、耳に残った。
「誰かが……指揮している……?」
そして次の瞬間――
「■■■■ッ!!」
真正面から飛びかかってくるノイズ。
だが、それは明らかに“囮”だった。
視界の隅で、別のノイズが構えを取る。
翼は即座に身体を捻り、辛うじて致命の一撃を避けたが……
その動きは、まるで“人間の兵士”のようだった。
「ぐっ……。」
ノイズの一撃が身体を擦り、その衝撃をバックステップで殺す。
その先の言葉が翼の口から零れるよりも早く、ノイズは――別方向からの一撃で、塵に還った。
……一瞬、風が止んだように感じた。
粉々になったノイズの残骸が、静かに宙を漂う。
そして、その向こうに――。
「立花……?」
そこに立っていたのは、翼の知る立花響ではなかった。
赤く発光する瞳。
甘さも優しさも消え失せ、剥き出しの殺意がそこにある。
そしてその全身を包む、赤黒く渦巻く“何か”。
言葉では言い表せない、禍々しさと異質さ。
まるで、人ではない――。
響の姿は、翼の知らない、異常そのものだった。
「……見たかった」
響が、ポツリとその口から言葉を漏らす。
一瞬、場の空気が凍った。
「流れ星、見たかったァァァッ!!」
絶叫と共に駆け出した響は、踏みつけ、投げつけ、叩きつけ、瞬く間にノイズを殲滅していく。
だが、それは翼の知る彼女ではなかった。
優しさも、笑顔も、どこにもなかった。
背筋に、氷の刃をなぞられるような感覚。
「あんたたちが……」
響の姿をした、黒い何かがノイズに向かって飛び出していく。
「誰かの約束を侵しッ!」
二つに引きちぎり。
「嘘のない言葉を」
中心部を殴り抜き。
「争いのない世界をッ!」
踏みつぶし。
「何でもない日常をッ! 剥奪するというのならッ!」
響は地下鉄の壁を突き破り、星空が瞬く外の世界へ――あっという間に、飛び去ってしまった。
追いつけない。
今の彼女には、もう。
*
「あれ……?」
夜の風に晒されて、我に返る。
気づけば、あの黒い“何か”は消えていて。
響は、ただの響に戻っていた。
ノイズの影を探して、夜空を仰ぐ。
雲一つない夜天だ。
今頃、未来はひとりで星を見ているのだろうか。
あの願いは、誰にも届かずに消えていくのか。
そんなことを思った矢先だった。
「流れ星……?」
見上げた空を、青い光が斜めに裂いた。
それは炎ではなく――歌だった。
空気を震わせる旋律が、夜を貫いて降りてくる。
彼女の歌声。彼女の剣。
━━━━━━━━蒼ノ一閃━━━━━━━━
響から一拍遅れて、外に飛び出した翼の巨大な剣の一撃が地に突き刺さる。
その一撃で、ノイズは何事もなかったように塵と化した。
音も、動きも、戦いの余韻さえ残らない。
ただ、夜の静けさだけが、響の中にぽっかりと空いた穴を強調していた。
自分との違いが、はっきりとわかる。
あの強さにも、あの想いにも、彼女には届かない。
そう思わされるだけで、喉の奥が締めつけられた。
どれほど近くにいても、気づけなかった。
今、ようやく翼の存在に目を向けた響は、無言で彼女を見つめる。
馴染めていない。
言葉を交わしても、気持ちは交わらない。
拒まれている気がして、いつも一歩引いてしまう――そんな距離感だった。
それでも、関係を変えたいと思った。
言葉を紡ごうと、ほんのわずか唇を動かした――そのとき。
「……助けて!」
知らない少女の声が、夜を引き裂いた。
慌てて視線を向けた先には、初めて見る――はずなのに、雪のように白い髪と、淡い硝子のような瞳に、どこか覚えのある既視感を覚える少女の姿があった。
「ノイズに襲われて、それで……」
フラフラと歩く少女に、響が慌てて近寄る。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄る響に対して、翼は少女の姿に、どこか釈然としない違和感を覚えた。
民間人はすでに、二課の誘導で避難済みのはずだ――なのに、どうしてこの子だけが、こんな場所に?
それも、無傷で。
「……まさか、」
頭の中に、ある疑惑が上がった。
間違いなのかもしれない。
だが、ただ偶然残っていた少女と言うよりは、幾分か現実味のある。
「待て!!立花」
その瞬間、少女の瞳が、まるで氷のように冷たく光る。
「あぐっ!!」
翼が声を上げるよりも早く、白い剣が立花響の身体を貫いた。
「バカがよ」
白髪の少女が、吐き捨てるように呟いた。