「がはっ……!」
「立花!?」
白髪の少女に突き刺された響は嗚咽混じりの声を漏らし、その場に膝をついた。
肩が小刻みに震え、息がうまく吸えていない。
「なあに、心配すんな、ただの神経遮断剤だよ。死にやしない。
ま、ちょっとばかし暴れすぎたし、頭冷やすにはちょうどいいんじゃねぇか?」
白髪の少女は、手の中で剣を逆手に持ち替え、まるでおもちゃのように指先で回した。
殺意も緊張感もなく、それが却って不気味だった。
翼は、怒声と共に地面がひび割れるほどの勢いで、空へと跳んだ。
「貴様、何者だ!その正体……今すぐ答えろッ!」
風が唸り、跳躍と同時に周囲の空気が一気に押し出される。
一瞬で少女との距離を詰め、剣を構える。
シンフォギアの纏うバリアフィールドは、通常兵器程度の攻撃なら、簡単に無効化するほどの防御性能を誇る。
実際、翼と奏が過去に行った自衛隊との模擬戦では、自衛隊の一部隊を装者二人だけで圧倒してみせたほどだ。
そんなシンフォギアの装甲を、あの剣はアッサリと貫通して見せた。
その東洋の古い神話に登場する鳥の翼のような意匠。
あの白い剣は、明らかにただの武器ではない。――恐らく何か、聖遺物の系譜に連なる存在だ。
油断してはいけない。
ただならぬ気配。殺気と冷気が、肌を刺すように伝わってくる。
この少女は、明らかに、何かが違う。
きぃん、と甲高く響く音。
翼が剣を振り下ろす寸前、少女はわずかに身を沈め――。
次の瞬間、跳ね上げるように短剣を突き上げ、翼の腹部に直撃させた。
そのまま体勢を崩した翼が、地面に叩きつけられる。
「ぐっ……」
先ほどの彼女の話では、この剣にはシンフォギアの装者であろうとも問答無用で戦闘不能に追い込む毒が仕込まれている。
決して喰らってはいけない。
ギリギリのところで、剣を生成し、それを簡易的な鎧として、少女の一撃を防ぐ。
「オラオラァ!どうした、もう終わりかよ?」
少女が短剣を勢いよく振り続ける。
その軽薄な口調とは裏腹に、少女の眼光は冷たく鋭く、まるで実験を観察するかのようだった。
一振りごとに、紅い尾が剣先に残像のように伸びる。
鮮血の閃光のようなその軌跡は、目で追うことすら困難だった。
「侮るなよ……」
翼は唸るように呟き、紅の斬撃に向けて鋭く反転した。
青のシンフォギアが、まさに旋風のごとく切り返す。
倒れた体勢から、翼は地面に手をつく。
そこを軸にスピンし、脚部に刃を展開。
そのまま、加速を乗せて突撃する。
翼の蹴りが少女の肩に命中――したかに見えたその瞬間。
少女はバックステップでその力を逃がし、…まるで風そのもののように、衝撃を受け流してみせた。
衝撃が、吸い込まれるように霧散していく。
「チッ……」
(……なんという反応速度だ)
確実に決まったと確信した一撃が、いとも簡単に受け流された。その事実に、翼は息を呑む。
撃ち合った中で、分かった事がある。
この相手の剣術は、自身とは違う。
自分が修練を積み重ねた末の技とは違い、型となっているのは、凡そ基本と呼ばれる単純な物だけ。
基本のみで構成されたその剣技を、少女は完璧に振るい――
持ち前の戦闘センスで、常人の遥か高みへと昇華させている
翼が重ねた修練が、幾何学ならば。
少女の剣は、風のような自由そのものだった。
「だが、その程度で、我が護国の剣は破れはしない。」
そう、呟くと同時に翼は手に剣を生成、それを超高速で投げつける。
「おいおい、そんな芸当で何がしたい?」
少女は首を傾けると、アッサリとその投擲を回避してしまう。
「この程度で……」
少女が苛立ちと共に短剣を翼へ向けた、その瞬間。
「なっ……!?」
……動かない。
意識は命じている。けれど、身体が応えない。
足が地に縫いつけられたような感覚。いや、それだけではない。
肩も、腕も、まるで何かに束縛されたように動かない——!
だがこれは一体どういうことなのか。
……気づけば、自分の視線は自然と少女の足元へと吸い寄せられていた。
そこから延びた、細く黒い影——
その中心に、刺さったままの刃が一本。
━━━━━━━━影縫い━━━━━━━━
まさか攻撃以外の技も持っていたのか。
先ほど翼が放った短剣は、少女の影に突き刺さっている。
少女の体はまるで見えない鎖に縛られたように、ぎこちなく震えていた。
翼は、静かに口を開く。
「……終わりだ」
この機を逃すまいと、少女の顔めがけて剣を突き出す。
影縫いによって動きを封じられた少女には、もはや回避など不可能なはず――その一撃が、少女に届くその刹那。
「クソッ!ネフシュタン!!」
「なにッ!?」
少女の叫びと共に、爆音のような衝撃音。
閃光が弾け、白銀の装甲が一瞬で彼女の身体を包む。
その姿は白きアーマーに桃色の棘が絡みついた、異形の戦闘装束。
生き物のようにうねる鞭、青緑色のバイザーに覆われたその顔の奥には、冷たい眼光が覗く。
剣は、装甲に弾かれていた。
翼は、その姿に目を見張る。
忘れていたはずの記憶が、静かに胸を打つ。
「……あれは……まさか……」
数年ぶりに、心が震えた。
「ネフシュタンの、鎧ッ……!?」
「へぇ……ってことはお前、この鎧の出自を知ってんだ?」
「二年前――私の不始末で、奪われたものを忘れるものか。
…なにより
私の不手際で、奪われた“命”を……忘れるものかッ!!」
月が大きく見える夜。
だが今、その月は、立ち込めた暗雲に呑まれようとしていた。
眼前には、ネフシュタンの鎧を纏った謎の少女。
背後には、奏が遺したガングニールのシンフォギアを背負う少女――響。
二年前、奏を失った事件。
一か月前、ガングニール装者との邂逅。
そして今、それらが一本の線で繋がった。
なんたる、残酷。
……けれど、その怒りが、不思議と心地よかった。
「惚けてんじゃ、ねえぞ!!」
少女が荊を手繰り、鞭が地を這い、空気を裂く。
完全聖遺物――それは、一点の翳りもない、“純粋な力”。
受けるなど、許されない。
翼は、研ぎ澄まされた感覚に従って、刹那の回避行動をとった。
地面を一瞥する。
数瞬前、翼が立っていた場所から、まっすぐ数十メートルにわたって――地面が抉られていた。
「オラァッ!!」
少女の操る荊が、蛇のように蠢きながら翼の目前へと迫る。
その先――荊の刃には、先ほど彼女が手にしていた、あの聖遺物の短剣。
『心配すんな、ただの神経遮断剤だよ。死にやしない。』
「ッ……」
受けてはならない。
だが、今の体勢では、回避は間に合わない。
「……ならばッ!!」
翼は咄嗟に、前方に複数の剣を生成し、鋼鉄の壁を築く。
それは一瞬で砕け散った――が、その刹那があれば、十分だった。
翼は身を翻し、体勢を立て直す。
だが、このまま退いたところで、荊はなおも彼女を喰らわんと追ってくるだろう。
「ならば、私から近づくのみ――ッ!」
鞭は一度勢いよく伸ばすと戻すのに多少のタイムラグがある。それは翼に見せるには致命的な隙、そこを狙えば―
「甘えよ。」
そんな翼の思考を嘲笑うかの如く、少女が邪悪な笑みを漏らす。
「
少女の手から走る蒼い光が、鞭の全体を包み込む。
それは質量を与え、力の流れを固定し、形を変える魔術のようだった。
鞭は、本来ならば、重力に釣られて地面に堕ちる筈だ。
だが、蒼の光を纏った鞭は、重力に逆らい、一直線に空中に張り詰めた。
まるで空に突き立った一本の槍――否、天を貫く棘のようだった。
「オラよ!」
少女が槍と化した鞭を大きく振るう。
荊が真っ直ぐ翼にぶつかり、翼の装甲が砕ける。
「ああっ!?」
装甲を貫いた荊が、内側の神経にまで食い込む。
焼けた鉄を押し当てられたような激痛――翼の呼吸が、一瞬止まった。
シンフォギアでは、防ぎようが無い。
これが、完全聖遺物の力。
「ぐっ……」
それでも、翼は歯を食いしばって立ち上がると、少女に向けて剣を向ける。
「ゲホッ……! やめてください、翼さん……!
あの人は、人間です! 私たちと同じ、ただの人間です!!」
「
後ろで立花響がそんなことを口にした。
……馬鹿な話だ。一度、戦場に立った以上、生きるか、死ぬか。それだけだ。
人々を守る使命を背負うシンフォギア装者ならば、立ち止まるなどあってはならない。
――そう思えば、銀髪の少女との方が、よほど気が楽だ。
「寧ろ、貴女と気が合いそうね」
「ははっ、じゃあ仲良く殺りあおうか?」
愉快な笑みを浮かべた少女は、そのまま荊の鞭を翼に向けて伸ばす。
それをギリギリで回避すると、翼は上空に飛ぶ。
先程のやり取りで、この少女の間合いに入り込むのは危険だ。
━━━━━━━━蒼ノ一閃━━━━━━━━
この世に、永遠に同じであり続けられるものなどない。
ならば、彼女がするべきことはただ一つ──奏を失う原因となった、その完全聖遺物を奪い返すために、全霊でもって少女を斬り伏せること。
この胸に渦巻く迷いを断ち斬る術など、翼にはただ一つ──覚悟という名の牙を銀髪の少女に突き立てることだけ……
青い斬撃が少女に直撃、否。
即座に左手に持っていたもう一つの鞭を薙ぎ、斬撃を弾き飛ばした。
この攻撃が有効打にならないことなど、最初から分かっていた。
それでも――こうも容易く弾かれるとは。
一人で戦うようになってからというもの、慎次に教わった幾つかの忍術を取り入れ、独学で剣術や技を鍛え上げてきたつもりだった。
自分は、確かに強くなった……そう信じていた。
――だが、それでも届かない。完全聖遺物には。
動揺を押し殺し、空中から急降下。
大剣を振るい、脚部のブレードを閃かせ、あらゆる角度から斬り込む。
だが、銀髪の少女は、すべてを最小限の動きでいなしてみせる。
それでも――ついに、その剣筋が彼女を捉えた……はずだった。
「ッ!?」
翼は即座に大剣を袈裟懸けに振り抜く。
しかし刀身は、茨の鞭に巻き取られるようにして止められた。
火花が弾け、重い衝撃が走る。
鞭の節に刃が食い込んでいる――完全に、絡めとられた。
「くっ……!」
このままでは、こちらの動きを封じられ、反撃を許す。
回収を終えた少女のもう片方の鞭が振るわれる――
だが、その動きは妙に大振りだった。
……避けられる。
そう判断した翼は、ほんのわずかに身を沈める。
それこそが、銀髪の少女の狙いだった。
腹部――水月に、鋭い衝撃が走る。
体がくの字に折れる。
見ずとも分かる。彼女の脚が、正確に突き刺さっていた。
鞭は囮。蹴りが本命だったのだ。
届かない。
まだ、届かない。
完全聖遺物のポテンシャル――侮ってはいなかった。
それでも、ここまでの差とは……。
「ネフシュタンの力だなんて思うなよ?
あたしの“本気”は、まだ一合目ってとこだッ!」
鞭の先に取り付けていた短剣を、少女が回収する。
その切っ先が、再び翼へと向けられた。
――極めて、まずい。
近接戦闘において、単純な実力差だけでも、少女は翼を上回っている。
それに加えて、あの短剣。
ほんの僅かにでも掠めれば、翼を即座に戦闘不能へと追い込むーー神経遮断剤が仕込まれているのだ。
一撃も許されない。
少女に間合いを支配されたままでは、次の瞬間には倒れている。
*
「「せい──ッ!」
白銀の短剣と、翼の蒼剣が激しく衝突。
夜の闇を切り裂くように、火花が舞う。
短剣の一撃。
それを受けることすら即・戦闘不能を意味する翼は、ただ必死に防ぐしかなかった。
守勢一方──
この距離では、『蒼ノ一閃』も『天ノ逆鱗』も撃てない。
振りかぶる暇すら、ないのだ。
「翼さん!!」
その瞬間、響の声が届く。
視界の端、短剣を避け続ける翼の姿に、彼女が焦りを滲ませて叫んだのだ。
――馬鹿な……!
この状況で、注意を引くようなことを……!
案の定、銀髪の少女の目がすっと響の方へと動いた。
「チッ……毒、まだ回ってねぇのか。どんだけタフなんだよ……
……まあ良い
こいつ等でも相手してな」
少女が懐から取り出したのは、ネフシュタンの鎧と似た色調の、不気味に輝く杖だった。
それを無言で響に向けると、緑色の宝玉がパルスのように脈打ち、突然まばゆい閃光が弾ける。
「なっ……!?」
響は反射的に背を向けるが、光は空中で四つに分かれ、逃げ場を塞ぐように地面へと突き刺さる。
着弾と同時に、それらは呻き声のようなノイズを発しながら変形を始め──
「ノイズッ……!?」
爆ぜる光の中から現れたのは、全高数メートル、漆黒の異形――ノイズだった。
それも四体。まるで狩りの獲物を囲むように、響の周囲に立ちはだかる。
「な……なんなの、これ……!?」
そのうちの一体の頭部、くちばしのような器官が光を放ち、射出された黄色い粘液が空を裂く。
響は逃げる間もなく捕らえられた。両腕、両脚、そして胴体をも粘着質の液体が絡め取り、完全に動きを封じられる。
「立花ッ!」
遠くから様子を見ていた翼が叫ぶも、もう間に合わない。
それでも、ノイズたちは動かない。ただ沈黙したまま、まるで獲物の絶望をじっくり味わっているかのように――。
…… 少女は響を見ている。
今しかない──!
「その子に
一転、翼は大地を砕ける程に踏み締め、凄まじい加速と共に飛び込む。
少女が構えていた短剣を、その一撃で弾き飛ばした。
「お高くとまるなッ!偶像風情がよォッ!!」
少女の手元に、黒い短剣が瞬時に顕現する。
その刃が、翼の剣と火花を散らしながら激突し、激しい鍔迫り合いへと発展した。
「ぐっ……」
「ハハハ!!もう終わりか?」
剣と剣がぶつかり合う。
耳を打つ剣載は、よく出来た音楽のようだった。
「……!?」
剣戟の最中、突然何かに右足を引かれ、翼が前のめりに転びかけた。踏み込みのために全体重を右足にかけた、まさにその一瞬を狙いすました奇襲。
いかに鍛錬を重ねた戦士と言えども、一点に集中した重心を崩されては、どれだけの身体能力を持とうと、人体の構造上耐えようがない。
驚愕する翼が背後に視線を向ければ、そこには地面を突き破って彼女の足に絡みつく荊の鞭が。
「──視野狭窄もいいとこだな」
少女の声と同時、翼の右手首が掴まれる。直後、視界が反転し、背中から大地に叩きつけられた衝撃で、肺が押し潰される。喉が震えても、空気は一滴も入ってこない。
なんとか地面を転がって距離を取ったものの──
少女の掌に、白と黒の光を螺旋状に編んだ球体が現れる。
熱を帯び、周囲の空気を振るわせるそれは、ただの光球ではない。
黒いスパークを纏い、空気を焦がすように周囲の温度すら変える“
鞭を振り下ろすと連動して光球が放たれ、振るわれた鞭と連動して放たれた閃光が、大剣を構える翼を飲み込む。
刹那、地面が爆ぜ、空間ごとねじれたような重い爆発が起こった。
「……ハッ、せいぜい出来損ないらしく、地べた這ってな」
地面に伏せっている翼にかけた挑発、侮蔑の言葉。
少女にとって、翼との戦闘はどうでも良い物だ。
彼女の目的はあくまでも立花響であり、風鳴翼は、どうでもよい。
だから、さっさと終わらせるつもりだった。
⸻
「……確かに、私は出来損ないだ」
「あ……? 何言ってやがる」
少女の眉がぴくりと動く。今の返しは、想定外のものだった。
「この身を一振りの剣と鍛えてきたはずなのに、私はあの日、無様に生き残ってしまった……
出来損ないの剣として、ただただ生き恥を晒してきた」
翼はフラつく足取りのまま、剣に体を預けて立ち上がる。
その姿は傷つき、ボロボロで、立つことさえやっとに見えた。
だがその瞳に宿る闘志だけは、今尚消えてはいない。
「……だが、それも今、この瞬間までの事。
奪われたネフシュタンを取り戻し、この身の汚名、成果によって洗わせてもらうッ!」
空を仰ぎながら、瞳だけを少女に向ける。その角度は図らずも、少女を見下ろす形となった。
「チッ……さっさと終いだ。アンタに用はない」
完全にトドメを刺してしまおうと、少女が剣を持って、翼に近づく。
「ぐっ……」
翼は剣を掲げる。しかし──
腕が痙攣し、次の瞬間、重力に抗えずそのまま膝をついた。
ズサ、と乾いた音を立てて剣が地面を擦る。
「ふん……やっぱりな」
少女は肩をすくめて剣を構え直す。
もう、これ以上彼女に構う必要は無い。
さっさと目的を果たしてしまおう。
「……!?」
足が動かない。
何故。
いや、考えられる可能性は一つだけだ。
「テメェ……」
苛立ちと共に呟く。
少女の影──。
そこに、翼の剣が深く突き立っていた。
あの瞬間、倒れる寸前、彼女は剣を手放したのではない。
──影を狙って投げ込んでいたのだ。
⸻
「……月が出ているうちに、決着を着けましょう」
月光が少女の背を照らす。
──影縫い。
その技の正体が見えた。光源のある今しか使えないもの。
(なら、雲が月を隠せば──この技も終わる)
だが、翼には焦りがない。
まるで、この状況を“想定済み”とでも言いたげな瞳。
不意に、背筋が凍る。
「……まさか、お前……絶唱を!? 本気かよッ!」
少女の顔から余裕が消える。
シンフォギア最大の奥義──命と引き換えに放つ、滅びの歌。
翼は地面に突き刺さった刀を引き抜き、それを高く掲げた。
「防人の生き様、覚悟を見せてあげる!
その胸に、刻み込みなさいッ!!」
「チッ!!」
少女が身体をよじらせ、小太刀を振り払おうとする。
だが──。
歌が、響いた。
重く、切実で、美しく。
一節、また一節……そのたびに空気が震え、世界の輪郭がにじみ始める。
少女は杖を振り上げ、咄嗟にノイズを召喚する。
翼に絶唱を歌わせてはならない。たとえ不完全でも、あの滅びの歌を放たれれば──こちらも無事では済まない。
──しかし。
「────el……」
その瞬間、空気が震えた。
世界が呼吸を止める。あらゆる雑音が消え失せ、ただ彼女の声だけが支配する。
翼の体から、音という名の凶気が、少しずつ、確実に放たれていく。
破滅を運ぶ旋律が、夜の静寂を引き裂いていた。
空気が振動し、月が瞬き、地の底から何かが呼び起こされるような、そんな錯覚すら覚える。
だが、その直前だった。
「……ーーー、ーーー」
ふと、少女の唇が動く。誰かに語りかけるような、小さな声。
「……躱わせと言ったのが聞こえなかったか? 情けねえ」
その直後、別方向から鋭い斬撃──
翼の背に、確かな痛みが走る。
「翼さん! 避けて!!」
響の叫びが、夜を貫く。
──次の瞬間。
「あ、ぁ──ぐっ………………ッ!?」
袈裟に斬られた感触。骨が軋む音。呼吸が乱れる。
ドボドボと流れる血の感覚が、皮膚の上を這い回る。
意識が、煙のように遠のいていく。
喉から絞り出されていた絶唱は、そこでぷつりと途切れた。
背に刺さるのは、少女の短剣──
かつて翼が弾き飛ばしたはずのそれが、彼女自身の背を穿っていた。
「
無機質な声とともに、少女の掌に黒い魔力が宿る。
月が隠れる。
影縫いが溶ける。
白髪の少女がゆっくりと、まるで儀式のように短剣を振り上げる。
「悪かった。侮っていたよ、アンタのこと」
言葉とは裏腹に、その眼に慈悲はなかった。
黒き短剣が、光を裂く閃きとともに振り下ろされ──
振り下ろされた刃が、翼の体を貫いた。
ぶしゅ、と重く鈍い音が夜気を裂く。
「翼さあああああああん!!」
叫ぶ響。だが、届かない。
翼の身体は、その場で力なく崩れ落ちた。
赤が、夜に咲いた。