K社。
HPアンプルを筆頭に数多の医療薬品の製作や食糧生産に重きを置いた翼。
26個の翼の中でも無難と評される、都市の中では珍しく安定の代表格とされる翼。
無論ここが都市である以上さまざまな困難が立ちはだかるだろうが、少なくとも人として生き人として死ぬ事が出来るだろう。
しかしそれも翼の中の話。裏路地ならば何処の翼も命を賭けなければならない修羅場である。
泥水を啜り、血で血を流す。自分が生き残る為に他人を文字通り踏み躙る。それが当たり前、むしろそうでなければ異常とも取れる世界。
そんなK社の裏路地に聳え立つ事務所が一つ。
ルナ事務所。
設立から僅か数週間の新人事務所でありながら、非常に多くのフィクサーが所属する、今俄かに注目を集める事務所である。
現状、実力はかなり不足しているものの、その輝かしい成長速度に一目置く者もいる。
そんな事務所から二人、その後に続き計十数名が裏路地へと歩み出す。
あのフィクサー達もカネの為、事務所の為、明日の暮らしの為。
何にせよ、あの者達もまた、生きる為に誰かを傷付け誰かに傷付けられるのだろう。
剛岳事務所。その室内。
見かけによらずかなり広い応接室は質素ながらも何処か緊張感を覚える。
椅子に座り机越しに話し合う二人とその周りにいる数十人。
一人は椅子にどっしりと構え、どこか恐ろしい雰囲気を纏わせる黒いスーツと白いシャツの男。
かなりの体格を持つのは強化施術のお陰か、はたまた生まれつきか。
少なくとも身体に溢れんばかりに張りついた筋肉があるからと言って、ドレスコードを蔑ろにする事は無さそうだ。
もう一人はあの事務所からやって来た女。
身を苔色のコートで包み、その丸眼鏡からは鋭い視線を飛ばす。
腰には机の上に置かれた鞄からは多くの書類が見える。
「…では、此方の書類にサインを」
その男がある紙を渡す。
あの土地の賃料。その額はルナ事務所の売り上げの大半が消える価格。
事務所始動以来最も高い買い物をする為に、女はサインをする。
ルナ事務所 セブン組部長 ノーティティア
「…代金の方はヂェーヴィチ協会フィクサーが早急に持って来てくれるでしょう」
「ありがとうございます、ノーティティアさん」
ノーティティアと呼ばれた女は少し身体を動かす。
彼女の茶髪が揺れたと同時、男の周りにいる者と女の側に立っている者がピクリと動く。
男の方にいる者はおそらく剛岳事務所所属のフィクサー、見渡すと十八名。
女の方には彼女と同じ様な緑のコートを着たルナ事務所所属のフィクサー、五名。
「…ノーティティアさん」
「分かってる」
彼女の側近の男が一言話そうと、すぐにそれを阻止する。
その男が虚空を見つめた後、どこか納得した様子で下がっていった。
「…では、これからも良好な関係を——」
「…もう一つご確認いただきたいことがございます」
「おや?何か不都合な点でも?」
黒いスーツの男が訝しむ。
「今回のこちらの土地、買い取らせて頂きたいのです」
剛岳事務所のフィクサー達が少しざわめく。
女の側近達は息を呑み、相手の出方を伺っている。
「…分かりました。直ぐに試算を出してきます。…では、あの資料持ってきて下さい」
男が周りの者に声を掛けた後、一つのファイルが部屋の奥から持って来られた。
男はペンを片手に資料に情報を書き加えていく。数刻経った後、一枚の請求書が差し出された。
「簡単に試算した場合、このようになりますね」
「ありがとうございます、ガルコさん」
女…ノーティティアはその資料を眺める。
側近の者がその資料を覗き見れば、余りの額に少し狼狽える。
「3億眼*1とは…少々やり過ぎでは?」
「裏路地の土地とはいえ、丸ごと所有したいならそのぐらいは掛かります」
「此方も懐が寂しくてですね…まあ、それなら仕方がないですね」
黒いスーツの男、ガルコは申し訳なさそうにしている。しかし、だからと言って土地の譲渡や値段を下げる気配は一切しない。
剛岳事務所側もこの土地は大切な資金源である。それを手放すのなら、少なくともそれ相応の対価を取るつもりなのだろう。
「…では…」
しかし、何よりも大切なのは命である。時には不利益を覚悟で財産を手放さなければならない状況もあるだろう。
その引き際を誤れば、その代償は命を持って支払われるだろう。
ノーティティアは椅子を引き、立ち上がる。
「こちらの方が安く済みますね」
腰の剣が振り抜かれた。
「おっと…」
横薙ぎの一閃はガルコの右腕によって防がれる。ノーティティアはその一撃が肉の繊維すらまともに断てないことに目を見開く。
「テメェ!」
剛岳事務所のフィクサーの一人が剣を引き抜き、女へと切りかかる。ノーティティアは細身の剣と共に後方へと退く。
「おい!…気でも狂ったのか?」
切りかかったフィクサーが問う。
「いいえ…このままでは私の事務所は借地料によって潰れてしまうでしょう。かと言って土地を無くせばまともに事務所営業が出来なくなる。
なら残された道は一つ。貴方達から奪うしかない」
「…私利私欲に塗れたクズが…」
「都市とはそういうものでしょう?」
切りかかった男が睨みつける中、剛岳事務所の代表…ガルコが口を開く。
「では…どうして先程あの契約書にサインをしてくれたのですか?そのまま殺してしまえばお金も支払わずに済んだでしょうに」
「あれは契約満了の証でもあります。契約を終えてから奪えば、約束を破る不届きものにはならないですから」
ノーティティアはルナ事務所のフィクサー、セブン協会所属と思われる者達に目を合わせる。
彼等は頷いた後、臨戦体制に入る。
「…都市の人間のような、そうでないような感覚がしますね」
ガルコが小さく呟いた後、拳をノーティティアへと向け、腰を落として構える。
その右腕からは少なからず血が流れている。
「残念です、ノーティティアさん。貴方とは良くやっていけたでしょうに」
「これも都市で生きる人間の流れ、というものです」
——ドンッッ!!
ガルコは床を強く踏みつけて大きく跳躍し、ノーティティアへと殴りかかる。
ガアァン!!
剣と拳がぶつかり合い、どこか鈍い金属音が鳴る。
女は防ぐ事は出来たが、勢いまでは殺すことができずに後ろに吹き飛ばされ、家具を巻き込みながら壁へと衝突する。
「いっ…!!」
「ノーティティアさん!」
「部長!」
「よそ見とは…余裕じゃねえか!」
他のフィクサーも戦闘を開始する。
ノーティティアも直ぐ姿勢を整えようとするが、頭部に向かって鋼鉄の如き拳が飛んでくる。
「ッ!」
体を逸らしガルコの一撃を避ける。その一撃は事務所の壁にクレーターを作る。
ノーティティアは素早く身体を翻し、彼の腰から肩に掛けて剣を振るう。ガルコの身体に左斜め上に赤い線が走る。
「…浅い」
「良い動きですね」
本来なら人を死に至らせる斬撃。しかし彼にとっては文字通りただの切り傷に過ぎなかった。
ガルコは再び床を蹴り、ノーティティアの懐に潜り込む。
崩れそうな姿勢を手で支えながら筋肉の塊の様な足を回し、凄まじい破壊力を纏った蹴りが目の前の人間に襲い掛かる。
「この…程度」
「!!」
胴体を抉ると思われた蹴りは彼女の持つ剣の腹に沿って逸らされる。
追撃を許す前に首元に風穴を空けるべく素早い突きを繰り出す。
「おっと」
彼は即座に剣身を掴む。掴んだ右手からは血が流れ出す。
ノーティティアはそのまま手を切り裂こうと柄を強く握る。
その瞬間、彼女の体が宙を浮く。
「——オッッッッッラアァ!!」
ガルコは剣を力強く掴みぶん投げる。
彼女は剣と共に投げ飛ばされ、先程まで座っていた椅子と鞄が乗ったテーブルを破壊した。
ノーティティアは倒れた身体を起こそうと床に手をつく。
完全に木片へと姿を変えたテーブルと椅子を踏みつける。
「…すいません。口調が崩れてしまいました」
そう話しながら近づくガルコ。他の剛岳事務所のフィクサー達は手を出して来ない。
連れて来たセブン協会フィクサー達は他の剛岳事務所フィクサーと戦っている。実力こそ上だが、一人につき約三〜四人。少しづつ劣勢になっていく。
「…では…」
ドガァァァァンン!!!!!!!
爆音。とてつもない風圧によって周りの人間は身動きが出来なくなる。
散らばった木片は宙を舞い、塵煙が立ち込める。
その爆音がしたのは扉の方から。
「はあ…もう少しデカい穴開けたかったな…」
扉はおろか、その周囲の壁まで纏めて消し飛ばした。
日の光が入り逆光となる中、その者は部屋に入り始めた。
黒髪に赤い瞳、黒いスーツに赤いネクタイ。
しかし何よりも目立つのはその赤黒いコート。夜空を思わせる黒色に、紅色で空へと舞い上がるように燃え上がる様に描かれた龍。
その者の手には煉瓦色の手袋をはめている。
「この部屋じゃ狭くてやってられねぇのにな…はい、皆んな入るぞー」
「…遅いですよ」
彼の後ろから同じように赤いコートを来た者達が入る。
「…クソッ!おい!この女の命が惜し…」
「…かったらどうするんだ?」
ノーティティアを人質にしようとした者は、一息着く間に上半身が消し飛んでいた。
「割とボコボコにされたなノーティティア。まだ動けるか?」
「…動けます。では、そちらは任せます」
「困ります。突然事務所を壊して、私の事務所のフィクサーまで殺してくるなんて」
ガルコが男に対して話しかける。その様子は何処か余裕が無さそうだった。
「あー、そうか。じゃあ…俺はルナ事務所リウ組部長、ポースだ。よろしくな」
「…剛岳事務所代表のガルコです。よろしくお願いします」
瞬間、火花が散った。
次回で一区切りついたらいいね