「メイアイカミン、メイフライ」   作:常時腹痛マン

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 ■Mayfly

 

 

「あんた、中世ヨーロッパ、アンシャン・レジ(旧制度)ームの刑事裁判のことは知ってるか?」

 

 

 蜻蛉(カゲロウ)は、目の前の中年の男を見下ろして言った。

 

 言われた男の名前をこの場では、A木としておこう。

 A木の後ろに撫付けられていた黒髪は、抵抗した際に振り乱したせいで、情けない様になっている。

 日本人にしては珍しい()()()は、異国の血を思わせた。

 

 

「その頃は絶対王政が敷かれていてな、恐ろしいよ。ある日突然裁判にかけられたと思ったら、理不尽な理由で犯罪を犯したと言われるんだ。おかしいのがさ、たとえ同じ状況でも貴族階級には甘くて、市民には厳しかった。酷い話だよな」

 

「は、はあ?」

 

「俺はこう思った。時代背景が何であれ、『何の犯罪をしたか』ではなく『誰がしたか』で判断が下されたのは、許されるべきではない」

 

 

 蜉蝣とは、言うまでもなく偽名、この若者を識別するための記号で、いつしか依頼人、転じてターゲットにまで呼ばれる名称となっていた。

 

 早ければ成虫になって一日で死んでしまうことから、儚さを表す虫だと言われている。おまけに、若者の仕事は相手に最後の宣告を言渡すものだから、不吉の予兆である「虫の知らせ」に通じるものがあるし、上も下もわからなくなるような、蠱惑的で、掴みどころのない雰囲気は若者の印象とも近かった。

 

 

「何が言いたい。大体誰なんだテメェ、ガキの癖に。こんなことをして、ただで済むと思うなよ」

 

 

 A木は唾を散らして叫んだ。困惑して憤慨するのも無理はない。

 自宅のベッドルームで、赤色の手枷と足枷により椅子に縛り付けられ、初対面の若者に見下ろされる形で話しかけられているのだから。

 

 

「なんだよ、強盗か? 金ならやるから」

 

「違う」

 

 

 蜉蝣は食い気味に否定してから、言葉を続けた。

 

 

「金は足がつくから駄目だ」

 

「じゃあ、何が目的だ」

 

「バーバリアンのことは知ってるか?」

 

 

 蜉蝣は更に言う。

 色素の薄い頭髪が美しく、初夏の爽やかな風を思い出させた。

 

 はあ? と男は喉を震わせる。

 蜉蝣の冷淡な声音に少し怯えているようだった。

 

 

「十九世紀に法医学者が唱えた仮説に出てくるんだ。ロンブローゾ、っていう有名な学者だから、覚えておいて。彼が言うには、犯罪者の中には、生まれながらに犯罪を犯すように運命づけられた〝犯罪人〟──バーバリアンがいるらしい」

 

 A木は一瞬、瞼を痙攣させる。

 まるで自分の過去を一瞬の内に振り返り、そして近い未来に起きる出来事に対し、体の中の虫に警鐘を鳴らされたかのようだ。

 それで? という顔をしている。

 

 

「だから何だってんだ」

 

「そのバーバリアンは半人半獣の怪物なんだってさ。二つの特徴があるんだ。一つは、動物的な身体的特徴。例えばウサギのように長い耳や、ネズミのように異様に小さい耳。もちろん、わし鼻なんてのも例外じゃない。──どうだ?」

 

 わし鼻、と言うと同時に蜉蝣がA木に目を向ければ、A木は漸く合点がいったように、高い鼻の上に皺を寄せた。

 

「どうだって、何だよ。そんなの、ただの差別だろ!」

 

 

 A木は自分に突き付けられた言葉の刃を、最近覚えた言葉を得意げに自慢するように、突っぱねた。

 蜉蝣は表情を変えず、続ける。

 

 

「そうだな。そこに関しては、そう言われても仕方ない。後世でも批判されてた」

 

「さっきから何の話を」

 

「もう一つは、精神的特徴だよ。これは簡単。道徳性の欠如、残忍性とか、そんなところ。尊い命を蔑ろにしても、何も思わないような人間だ」

 

 ひと呼吸おいて、じっくりと相手を観察した。

 

「そういった人間は、許してはならない。()()()。いくら逃げようとも、いつかは糾弾されないと、と俺は思うわけだが…」

 

 

A木がまた顔を引き攣らせたのを、蜉蝣は見逃さない。

 

 

「どうした。なにか、引っかかることでもあったか」

 

 

 A木は嗚咽するかのように呼吸を荒くした。

 

 

「知らねえよ!」と遂には大きな声を出した。叫んだ彼自身が、目を丸くしている。

 

「今から十余年前、この周辺で、小中学生が行方不明になって、しばらくして変わり果てた姿で見つかった。その()()()()は〈貴族の遊び〉と称して、残虐の限りを尽くしたんだ。知ってるよな」

 

 

 この〈貴族の遊び〉は、十六世紀頃の貴族の遊びに倣っているらしい。

 

 奴隷を殴って骨を一本ずつ端から砕き、初めは「助けてくれ」と言っていた奴隷が、何本目で「殺して」と言うか賭ける。

 

 それを模倣したのだ。

 

 最初は犬猫で行われていた虐待を、やがてどこからか幼い少年少女を連れてきて試すようになった。

 チームの輪は次第に広がり、ねずみ算式に、順調にメンバーを増やしていった。

 やがて事件発覚後、そのメンバーたちは続々と検挙されることとなる。が、一部主犯格は逮捕されることはなかった。

 

 

「なぜ主犯格が早々に捕まらなかったか。チームメンバーが資産家だったり、警察関係者に繋がりがあったりしたからだった。──もう、詳しいことは言わなくてもいいよな」

 

 蜉蝣は一度、言葉を区切り、A木を見る。

 

「あんたも知ってんだろ。そのチームの中でも『俺は刑罰を免れた〈ノーブルマン〉だ』と()()()()()()んだから。上級の貴族だから許された、ってさ」

 

 

 もちろん多くの一般人が、〈ノーブルマン〉を非難し、激怒し、それなりのニュースにはなった。

 だが、それだけだった。

 

 誤魔化すための準備にも、息苦しさに喘ぐようにも見える様子で、A木は口をパクパクと開閉した。

 蜉蝣は、じっと黙っている。

 

 

「──ッそ、それより、お前は誰なんだ。雇われたのか、いくらで請け負ったんだ」

 

 するとA木が突然、蜉蝣に質問してきた。興味や好奇心ではないだろう。

 これ以上会話の主導権を握らせたら、と展開の結末を恐れたのかもしれない。

 

 

 蜉蝣はそれを平坦な感情をもって見つめてから、淡々と再度話し始める。

 

 

「この事件は、犯人が捕まらない内にもみ消された。追っていたジャーナリストが見せしめに殺された、とかいう噂もあったよ。酷いよな。犠牲になった子供やペットの家族の大半は、悲しみと同等の怒りを抱いていたのに」

 

「怒りって」

 

「でも、できることは限られてた。もはや国は敵。世間からは好奇の目。法律も意味をなさず、頼れる人もいない。泣き寝入りするしかなかった」

 

「だ、だからっ、お前は!」

 

「────〝蜉蝣〟はさ、限られた時間の中で、一斉に羽化して移動するんだ。個々の存在がちっぽけでも、団結すれば、人間の視界を覆い尽くすくらい大きなことができる。集団で、次に命のバトンを繋げる」

 

「は……?」

 

「彼らは団結したんだ。そして、次にバトンを渡した。雇ったんだよ。〈ノーブルマン〉を見つけて、復讐してくれる、無かったことにしないでくれる人間を。自分たちの全財産を賭けて」

 

 

 相手は信じられなかったのか、「何の冗談だ」と笑って頬をひくつかせた。

 まだ笑える余裕はあるんだな、と蜉蝣は思う。

 

 

「嘘じゃない、本当だ。それじゃあ、改めて、はじめまして。俺が、彼らの代わりに、最後を言い渡しに来た」

 

「は、ひっ、や、やめろ!! やめてくれ、やめてください、頼む、命だけは!」

 

「悪くない冗談だ。ケ・セラ・セラに匹敵する」

 

 蜉蝣はふっと頬を綻ばせた。

 

 

「頑張ってね、A木さん。何本目までいくか、数えてあげるから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 □降谷

 

 

 『警視庁/立ち入り禁止/KEEP OUT』

 

 

 見慣れた黄色と黒のテープが、家屋の門扉を塞いでいる。

 そこに立つ見張りの制服警察官が、集団となった野次馬が首を伸ばすのを困った顔で制していた。

 たくさんの人集りで、視界が塞がれている。

 

 降谷は、あくまで偶然この現場の前を歩く通行人を装い、伝えられている情報を思い出しながら、横目で確認した。

 

 

 

 数日前、この住居に住む三十代半ばの青木という男が意識不明の重体となって発見された。

 白、赤、茶、黒、紫。迷彩色となった体は酷いものだったらしい。

 

 一時的に意識を取り戻すも、目を覚ました男は半狂乱で「アイツが来る」「虫だ」「殺して」と大暴れだったのだと。

 

 噂によれば、それだけ伝えると青木は、まるで命のバトンを繋ぎきったかのように、搬送先の病院で息絶えたと言う。

 その濁った目が一体何を見たのか、終ぞ語られずじまいだった。

 

 

 ここからは後に分かったことである。

 被害者の青木は、詳しくは秘匿されているが、過去に非道な犯罪に手を染めていた。

 本来であれば起訴され、重罰が課せられる筈だったにもかかわらず、そうならなかった一連の流れは、降谷とて許せることではない。

 

 以前まで、青木には有事の際のために監視役がついていたのだが、近頃は緩みがちだったという。

 

 その一瞬の隙をつき、今回の事件が起きた。

 

 果たして狙ったのか、偶然か。

 答えは考えずとも浮かび上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「虫って、何のことだろうね」

 

 この話を聞いた親友の諸伏は、ロッドに溶剤に浸したパッチを着けて、ライフルを掃除しながら、呟いた。パチリ、カチャン、と子気味良い音が聞こえる。

 

 

 潜入捜査。

 情報や証拠を掴むために潜り込む秘匿捜査。危険中の危険だ。

 この時、降谷と諸伏は日本の公安警察として某組織に潜入しており、セーフハウスの中で漸く一息ついた頃だった。

 

 

「薬でも使っていたのか?」諸伏が言う。

 

 副作用の幻覚の可能性は、降谷も考えた。

 肌の裏側を蛆虫が這う感覚とはよく言ったものだ。

 

 

「いや、薬物の類は検知されなかったんだ。ただ、手首と足首に拘束された痕跡が残っていた」

 

「拘束?」

 

「薄ら、な。なるべく跡がつかないように細工されていたらしいが」

 

「そうか」

 

 諸伏は、乾いたパッチをロッドに付け替え、バレルに通す。目を伏せて言葉を続けた。

 

「これで、何件目だろうな」

 

「そろそろ十件を超える筈だ」

 

「ペースが早いな。もうそんなに…」

 

「組織的な犯罪の線も追ったが、見事なまでに掴めなかった。多分、実行犯は一人なんだなんだ。馬鹿馬鹿しいが、犯人はその場に突然現れて、事が済んだらその場で消えているんじゃないか、なんて声もあった」

 

陽炎(カゲロウ)みたいだな」

 

 諸伏は次に、薬室にブラシをかけ始めていた。

 

「ゆらっと出て、ゆらっと消える」

 

(ヒロ)……」

 

 

 降谷が冗談を咎めるように肩を落とせば、「悪い」と柔らかく返ってくる。ブラシがカチャリ、と音を立てた。

 

 

「でも、そんな殺し屋が日本にいるなんて。組織の奴らの方がまだ現実味があるよ」

 

「単独犯だった場合、組織が目をつけて、手を組まれでもしたら面倒だ」

 

(ゼロ)はその犯人を追うの?」

 

「まあ、できる限りな。まだ組織の信用を勝ち取れていない内は、下手に公安側の仕事に手を付けて、ボロを出すような真似は避けたいしね」

 

「そうだね」

 

 

 諸伏は仕上げにオイルに浸したフェルト(パッチ)を通し、カチャリ、と閉める。

 

 

「よし。何か飲む?」

 

「ん、じゃあコーヒーを頼むよ」

 

 

 ミルク入りだね、と言いながらキッチンに向かう諸伏を暫し視線で追い、ふと足元に意識を向ける。

 

 ゆらりと現れてゆらりと消える陽炎か、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさかな」

 

 降谷は現実に意識を戻し、コンクリートの地面から視線を持ち上げた。

 現場の戸建てを背にその場を後にする。そんな幻のような殺し屋がいるなんて、信じろという方が無理な話である。

 

 ────組織の奴らの方がまだ現実味がある。

 

 諸伏の声が思い出される。

 本当にな。全くもってその通りだ。

 

 

 そこで視界に、一人の青年が映った。

 

 野次馬の一人かと思ったが、なにやら様子がおかしく、スマートフォンの画面を見ながら、「おしまいだ」と言ったのだ。

 

 

「え」

 

 

 思わず足を止め、視線を向けた。

 

 まだ若い容貌だった。

 どう年配に見積っても二十代前半と思しき男性で、痩身だ。コーデュロイのパンツを履き、黒のシャツを羽織っている。

 黒いキャップの下に見える薄緑色の頭髪が、初夏を思わせた。

 

 

「──……どうされたんですか?」

 

 降谷は意識の中のスイッチを切り替え、穏やかに話しかけた。

 普段の自分とは違い、友人たちの朗らかな人柄を模した性格を作り上げる。

 

 青年はゆっくりと顔を上げ、降谷と目を合わせる。ほお、と声を上げそうになった。

 

 彼はどちらかと言えば、善良で人が良さそうな外見をしていたが、それよりも、その人並み以上の相貌に感嘆していた。

 

 通りすがりの者の視線を、女性に限らず男たちの目も集めそうだ。美男子と言うほど派手ではなく、たとえば若葉風のような儚さが滲んでいる。

 

 ただ、安直に、「美人」と言ってしまうのには抵抗があった。真っ白い肌のせいだろう。幽霊や作り物じみた白さのせいで、生命力のようなものを感じることができない。

 

 何の興奮も乗っていない風貌が、従容とした苦笑を纏った。

 何だ、と内心で身構えると、青年が、唇を震わせた。

 

 

 

「────逆転された」

 

「…………は?」

 

 

 逆転?

 はいおしまいおしまい、と青年がまた軽々と言う。

 

 

「前半は点差があったのに、逆転されちゃった」

 

「え、何がです」

 

「あいつがまた決めたんだよ。スピリッツの」

 

 会社が倒産した、と知った時も人は同じように嘆くのだろう。順調だったじゃないか。

 事態を飲み込むべく、降谷は彼のスマートフォンの画面を覗く。

 

 生放送を見ていた。放送されているのは午後一時からのプロサッカーデイゲーム。ビッグ大阪と東京スピリッツとの公式戦で、青白のストライプのユニフォームの選手がボールを蹴っている。

 

 

「……板澤選手?」

 

 降谷は呟いた。

 青年が溜息を吐く。肯定の意らしい。

 

 東京スピリッツの背番号8番、板澤豪(いたざわつよし)だ。攻撃の要となるMF的ポジションで、10番ほどの派手さはないが陰の立役者である。

 

 

「二点もだよ。センタリングのアシストとコーナーキック。で、逆転」

 

「ビッグ大阪のファンなんですか」

 

「うん。あーあ、これで連敗だ」

 

 

 青年は既に敗戦が決まったかのように肩を竦めるが、降谷は何故かそれが面白くなく、「まだわかりませんよ」と肩を叩いてみせる。

 

 興味なさげに画面の先の板澤選手を見ながら、青年は拗ねるように言った。

 

 

「こいつ、板澤さ、ボランチのくせに前に出すぎなんだよ。もうこいつのインタビューは飽きた」

 

「今日は勝てるかもしれませんよ。ほら、ボールを奪った」

 

 

 降谷はまたしても、希望を持たせる発言をする。

 すると青年は何とも表現しにくい表情を向けてきた。大袈裟に溜息を吐き、下からじっと降谷を見上げる。

 

「そうやって、よし、行けそのままシュートだ、と思った瞬間に大体取られるんだ。俺が何回肩を落としたと思う。油断から悲劇が起きるんだから、あんたもそういう油断はよくないよ」

 

「……ず、随分と心配性なんですね」

 

 初対面の青年にここまで踏み込んだ降谷自身にも言える義理はないが、それにしても、ここまで反論してくるとは思うまい。

 降谷は柄にもなく内心たじろぎ、苦笑した。

 

「ケ・セラ・セラ、って言葉知ってる?この世で一番つまらない冗談」

 

 青年はのんびりと言ってくる。

 

「スペインの?」

 

「あぁ。なるようになる、明日は明日の風が吹く、ってやつ。嘘だ、なるわけがない」

 

「一説では、自分次第で人生は変えられる、とも訳されるそうですよ」

 

「尚更つまんないな。自分の一存で変わるわけがない。嘘だ」

 

「悲観的すぎませんか」

 

 急に静かになり、じっとこちらを見る青年と目が合う。

 

 

 降谷はそこですっと頭が冷静になるのを感じる。益のない会話をしすぎた。

 

 次に、「そういえば、この青年は何故こんな場所でサッカー観戦を?」という疑問を抱いた。

 

 事件現場の前で応援なんて、勝てるものも勝てないだろう。

 

 

「ところで質問なんだが」

 

 思考の渦に呑まれたとまではいかないものの、それなりに推理を進めていたところで声を掛けられた。

 

「はい?」

 

「あんたはあそこで何が起きたか、知ってる?」

 

「────()()。恐ろしい事件があったとしか」

 

「恐ろしい事件か」

 

「ええ」

 

 すっと目を細め、「あなたはご存知なんですか?」と訊けば、青年は否定も肯定もせず、視線を画面から黄色いテープの方へ向けた。

 

「知り合いだったんだ」

 

「おや、この住居の方とですか」

 

「まあな。伝え忘れがあったから、訪ねてきたんだけど」

 

 青年は再度画面に視線を落とし、「留守だったし、無駄足だったな。残念」と少しも残念そうにする素振りを見せずに、言う。

 

 

「そうですか」

 

「そうなんだ」

 

「因みに、その伝え忘れって?」

 

 

「八本だったよって」

 

 

 そう言って、微笑した。

 

 そうすると一気に、年齢が分からなくなる。少年から青年、中年の男まで、いずれの年代の男性にも見える。

 

 降谷は背筋から脳にかけて、本能的とも言うべき警戒の信号が走るのを感じた。

 先程までサッカーの試合展開に一喜一憂どころか、()()()()していた青年から、恐ろしいまでの「何か」を察知したのだ。

 

 

「それじゃあ、またね」と言ってくるので、降谷は迷わず引き止めた。

 

「よかったら、この住居の方をお探ししましょうか」と。

 

 

 もう死んでいるが、当事者でもなければ、彼がそれを知る由はないはずだ。

 青年は訝るように目を細めた。

 

 

「あんた、探偵か何かなんだ?」

 

「ええ、実はそうなんです。ここで会ったのも何かの縁ですし、如何です」

 

 

 降谷の返答に、まさか本当に探偵だと名乗ってくるとは思わなかったのか、青年は表情を崩した。少なからず驚いている。

 

 

「驚きました?」

 

「いや」青年が困った顔を見せた。「信用できないなって」

 

「それはそれは。では初回無料でもいいですよ」

 

「そうなんだ。でも無料(タダ)って言葉は何よりも怖いからさ。遠慮するよ」

 

 

 彼は肩を竦め、降谷に、というより「無料」という単語に本気で警戒するように反応する。

 

 

「無料、なんて片方しか得しないだろ。詐欺かもしれない」

 

「善意ですよ?」

 

「あんたが、本当は探偵じゃない可能性だってある。警察かもしれないし、()()()かもしれない。この十分程度で、俺とあんたは性格が正反対だとも分かった」

 

 

 どちらも正解ですよ、とは伝えられないから、ホォー、と反応しそうになる。

 

 やがて青年は、「今日はもう帰るよ。あんた、天気予報を見た?」と告げて、風に吹かれるように歩き始めた。

 手にはいつの間にか、折り畳み傘が握られていた。

 

 結局、お互いの名前は言わずじまいだった。

 彼は、降谷の探りに不信感を持った様子はなかったが、常に気を張り巡らせている気配はあった。

 

 気付けば、青年は視界から姿を消している。刹那の出来事だった。

 

 

 「陽炎」という単語が降谷の頭に立ち上る。

 ゆらりと現れ、ゆらりと消える。「虫」という単語がその後を追う。羽ばたいて、小さな閃きを感じた。

 

「陽炎、虫」

 

 声に出してみる。

 脳裏に思い出されるのは、親友との会話、公安からの情報、そして数分前に会話した青年。

 

 

 ────八本だったよ、って。

 

 

 

 一陣の風が頬を撫で、降谷の金色の髪を梳く。

 

 爽やかな気持ちを植え付け、導き出した解答を賞賛するように、風は空へ突き抜けていく。

 

 

 遺体の状態は、肌が迷彩柄に染まるほど酷い状態だった。

 損傷も激しく、体はゆっくりと衰弱死に向かっていた中発見され、治療の甲斐も虚しい結果となって終わっただろう。

 

 突然押し入った不審者に、被害者(青木)は抵抗した筈だ。

 

 しかし敢えなく手足を拘束される。そのまま、精神を病むほどの拷問とも言える、想像を絶する暴行を受けた。終わりの見えない地獄に、被害者は何を思ったのか。

 

 甚振られ、特に、無惨に砕かれていた()()()は────。

 

 

 

 

 

 

蜻蛉(かげろう)、か」

 

 連絡を取るべく、スマートフォンを取り出す。思考回路に冷たい信号が点く。慣れた指の動きで数桁の番号を打ち込みながら、そういえば、と思い出した。

 

 天気予報を検索する。現在地の情報を入れていないから、検索ワードに直接入力した。

 一番上の、自分が正解だと言わんばかりに強調された文字を読む。

 

 

 

『本日の天気:晴れのち曇り。降水確率20%。洗濯物もよく乾くでしょう!』

 

 

 

 油断から悲劇が起きる、と語った青年の顔が思い浮かぶ。折り畳み傘が何とかなどと言っていた。

 

 

「心配性すぎないか……?」

 

 

 

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