「メイアイカミン、メイフライ」   作:常時腹痛マン

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■Mayfly

 

 

 蜉蝣は、目の前の相手に自分が来た理由を説明する。

 

 

 B島の住む高級マンションだ。

 

 マンションの鍵は、全部が全部、ピッキング対策用に交換されていたが、それで万全だと安心するのが素人だ。管理会社はともかく、業者に交換してもらえば安全だと思い込んでいる。

 

 だから油断が悲劇を生む、と蜉蝣は一人頷く。

 

 いきなり扉を開け、不審そうに顔を出したところを、「どうも、お届けものの虫の知らせです」と挨拶をし、そこから部屋に押し入った。

 

 

メイアイカミン(入りますよ)メイフライ(蜻蛉です)

 

 

 存外、蜻蛉はこのリズムの良い挨拶を気に入っていた。

 

 壁際に追い詰めた彼を前に、「アンシャン・レジームの刑事裁判のことを知っているか」から話し始め、〈貴族の遊び〉の話をし、自分の罪を思い出させる。

 

 度し難いことに、これまで蜉蝣が出会った〈ノーブルマン〉の大半は、自分の罪を許されたものだと考えている。

 過去の汚点として罪の意識から逃れているのならまだしも、そうではない。お前も同じ目に遭わせてやろうか、と言いたげな相手すらいる。

 

 

 

「悪かった、許してくれ。後悔しているんだ」

 

 痕跡が残らない即効性の筋弛緩剤を塗った針を、蜉蝣が突き付けた時だった。普段はこれを使って相手に手枷と足枷を着けるのだが、蜉蝣は手を止める。

 

「へえ」

 

 

 B島は崩れ落ちるように膝を折り、顔を俯かせた。()()()()()()()()が隠れる。

 

 悪いことに手を染めていた仲間に唆され、断り切れず、自分も取り返しのつかないことに手を出してしまいました。

 そういった内容を震えた声で、つっかえながら話した。

 

 

「あの時はどうかしてたんだ。今も夢に出る、攫った子供が、全員」

 

「なるほどなぁ」と蜉蝣は思った。

 

 反省する人間は初めて会ったな。

 

「だからと言って、見逃すわけにはいかないけど」

 

 そんな、とB島は縮こまり、教会で懺悔するかのような格好になった。

 

 三十五歳で独身、大手メーカーで働いている。彼の情報を改めて、頭の中で整理する。

 

 結婚歴はなく、父親の伝手(つて)で現在の会社に就職した。複数の女性と交際しており、品行方正とは言い難い人間だったが、この弱々しい態度に思うところはある。

 

 

「……夢に出るって言ってたな。攫った子供が、()()

 

「は、はい」

 

「犬や猫も?」

 

「え……あ、は、はい!」

 

「そっか」

 

 

 この男は程々にして、立ち去るか。

 

 そう思いかけたところで、首筋がひやりとした。「本当に信じていいのか?」という心配が寒気として現れたのだ。

 

 

 油断が悲劇を生む。

 いつだってそうだっただろう?

 

 

 蜉蝣は、自分が部屋に押し入った時のことを思い出す。

 

 突然押し入ったのに、従来の対象に比べてやけに落ち着いた様子だった。動揺した男が、逃げ場を探すように廊下の扉に目をやったのに気付き、半ば突き飛ばすように奥に押し込んだ。

 

 

 そう言えば、B島は何故無防備に玄関に顔を出した?

 普通警戒するんじゃないか?

 

 玄関のところに、サイズ違いの()()()があったような気がしないか?

 

 

 誰かいたのか?

 

 いたのかもしれない。

 

 

 蜉蝣は近くのテレビ画面に視線を向ける。鏡代わりになるだろうか、と思ったところ、黒く沈黙したその液晶に、男の影が映った。

 足音もなく、すっと近付いてきていたのだ。

 

 蜉蝣は、ほらやっぱり悲劇だ、と辟易としながら体を反転させ、テレビ台にあったリモコンを相手の首に向けて、放った。

 

 男はそれを避けるために、体を傾ける。蜉蝣はすかさず相手の体を押した。手加減なく、勢い良く、突き飛ばす。

 体勢を崩したところに膝蹴りを食らわせ、体がくの字になった瞬間、袖口に潜ませていた針を、首に深く刺す。

 びくり、と大きく体を跳ねさせたのを見て、蜉蝣は手早く男の手足を拘束した。

 

 

「!? う、嘘だ……そんな」

 

「悪いけど」

 

 

 B島が喉をひくつかせている音のする方を、振り返って見下ろす。

 

 

「多分、こういうのはあんたらより得意なんだ」

 

「お、俺たちが誰かわかってやっているのか!」

 

「バーバリアンで、〈ノーブルマン〉だろ。それ以上でも、それ以下でもない。()()()()()に所属していようとな」

 

「じゃあ、いくらだ、いくらで雇われた」とB島が、先程よりも深刻さと恐怖が滲む顔で口を開く。「倍出すよ、倍額出す。だ、だから助けてくれ」

 

 

 蜉蝣は首を傾げる。

 いくらまで出すんだ? と訊くというよりは、何をおかしなことを、という呆れだった。

 

「あんたらがやたら楽しそうに痛めつけた子供と動物たちは、何も悪いことをしていない。なのに、あんな目に遭わされて、あんたらは裁かれなかった。ええとそれに、確か誰かが『助けて』って懇願していた筈なんだ。そしたらあんたらは」

 

 

 

 

 まだいけるな。あと何回だろうな。

 

 

 

 

「そう言ったんだろ。素晴らしい名言だ。その素晴らしい名言を座右の銘にでもしておけばいい」

 

「な、何をするんだ」

 

「同じ遊びだよ。俺は〈ノーブルマン〉じゃないから、許されないかな。前回は八回だった」

 

「そこの男は」

 

「バラされると困る。忘れてもらうよ」

 

「そんな」

 

「心配しなくても、数えておいてあげるってば。ああ、それと、最後に聞かせて欲しいんだけど」

 

 

 すると男は、はあ? と顔を顰めた。

 それから、まるで悪魔でも目にしたかのように目を丸くする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■Scotch

 

 

 

 

 駅のホームは混んでいた。

 

 久しぶりにこの駅を使ったスコッチからすれば、その混雑が通常なのかはわからない。

 

 

 組織に潜入して数年。幹部候補になって暫く。そして漸く手に入れた幹部の名として、諸伏に与えられたコードネームは〈スコッチ〉という酒だった。

 幹部になったとて、スコッチの仕事は多忙を極めた。

 

 駅の利用客の人波に流されながら、昨晩ネットニュースで流し観た、美しい虫(蜉蝣)の大移動を思い出す。

 白い花弁が視界一面を覆うような、圧巻の大移動だった。が、蜉蝣の決死の大移動はまだ理解できる。

 命のバトンを繋ぐリレーの、最後だもんな。

 

 

 スコッチは人の流れをやり過ごし、駅のコンビニや看板の脇を抜け、早足で改札を出た。

 

 ふと、屋根の向こうのコンクリートが黒く染っていることに気付く。

 空を見上げれば、隆々とした曇天からはぼたぼたと大粒の雨が零れていた。

 

 

「天気予報が外れたか」

 

 

 思わず独り言ちる。

 

 確か、今日の降水確率は20%だった筈だ。忙しいながらも、銃火器を扱うスコッチは天気予報を欠かさず確認していた。鞄から、折り畳み傘を出そうとする。

 

 

「いや」

 

 

 凛、とそのような声がした。

 最初は自分に話しかけているとは思わず、「澄んだ声だな」と考えていたところ、続けられた言葉で漸くスコッチに話しかけているのだと気付く。

 

 

「外れてはない」

 

 

 声の方を見れば、そこには青年の横顔が見えた。

 黒い襟付きのシャツを着て、だぼついたカーキのパンツを履く青年は、俗事から超越したような儚さがあった。

 

 本来であれば目立つ筈の薄荷色の頭髪は、何故か空気に溶け込んでいる。

 その希薄さがなければ、道すがら通り過ぎる人の目を集めるに違いない。

 身内にも系統の違う、万人を魅了するような外見の男がいるが、これもまた見事だな、とまるで芸術品に対する感想のようなものを抱く。その肌の白さと髪の薄荷色が本物の陶器にも思えて、叩けば割れるのではないかとすら考えてしまう。

 

 

「……外れているんじゃないか? 今日は雨予報じゃないぞ」

 

「降水確率は?」

 

 

 青年は空を眺めたままだ。こちらを一切見ていない。

 

 

「えっと」スコッチは僅かの間を要してから、「20%」とだけ答える。

 

「ほら、外れていない。『20%の確率で降りますよ』って言ってる」

 

 

 屁理屈じみた意見を述べた青年はほんの少し喜色を滲ませるが、すぐに表情をすとんと落とす。雨に濡れたアスファルトの匂いが、現実に引き戻したのだろう。

 

 

「冷えるね」

 

「雨だし」スコッチは答えた。

 

「暗いな」

 

「夕方だし」

 

「油断した」

 

 

 青年は本気で嘆いているように見えなくもない。

 

 

「……降水確率が20%だったら、降らないと思う人の方が多いんじゃないか。今日は運がなかったんだ」

 

 スコッチは無意識に、肩を持つ発言をする。

 

「……前の時は、20%でも降らなかったんだ。だから油断した」と言ってから、「悲劇だ、おしまいだ」と続けた。

 

 

 そこまで言うか、とスコッチは不思議な青年に対し内心で苦笑しながら、空を見上げる。分厚い雲は、絶対に退かないぞ、と言いたげなしつこさを感じさせて、暫く雨は止まなそうである。

 

 すん、と鼻を鳴らす。

 雨に濡れたアスファルトの匂い。道路を往く乗用車の排気ガスの匂い。誰かの歩き煙草の匂い。

 なるほど、これは気分が滅入るだろうな。

 

 

「最近は恐いことが多い」

 

「そうなのか?」

 

 

 スコッチは、この不思議な会話に付き合うことにした。多忙により積もったストレスが、青年の穏やかな悲観とも言える儚さに紛れて、消えていくような気がしたのだ。

 

 

「隕石が落ちてくるんだって」

 

「……い、隕石?」

 

 

 青年の話は、何光年も先の惑星の方から地球に向かって、隕石が飛んできているというニュース記事を読んだというものだった。

 何度も聞いた類のニュースで、そのどれもにオカルト的な信じ難さを感じたスコッチとしては、同意し切れないでいる。

 

 

「外来種のヒアリのニュースもあった。恐ろしくて、草むらに近寄れない」

 

「し、心配しすぎなんじゃないか?」

 

 

 多感な時期なのだろうか、と外見から年齢を予測するも、その人並み以上の外見からは詳しく判別できない。

 

 

「あんたは心配じゃないの?」

 

 青年は風見鶏のようにくるりとスコッチを見上げた。

 ここで、初めて顔を正面から見ることになる。

 頭髪と同じ色の薄荷色の目に、髭面の男が映る。

 

「同じ人間とは思えない」

 

「そこまで言うか」

 

「でも一番は、東京スピリッツのニュースだね」

 

「サッカーか。時々試合は見るよ」

 

「スピリッツに今度、黄金のツートップが入るなんて噂を聞いた」

 

「へぇ、強いんだ」

 

「高校の全国制覇も夢じゃない、なんて言われている。けど」

 

 

 青年は大きく溜息を吐き、「またスピリッツブームだ」と苦々しく、無表情で言う。「優勝候補だって囃される」

 

 スコッチは青年の様子を微笑ましく思いつつ、「君はどこを応援しているんだい?」と訊ねる。

 

 

「ビッグ大阪」

 

「そうなんだ」

 

 

 すかさず答えが返ってくるもので、スコッチはまた笑う。

 

 

「少しプレーは乱暴だけど、パスがいい」

 

「点を決める攻撃力、とかじゃなくて?」

 

「じゃなくて」

 

 青年はここで初めて明確に微笑んだ。

 

「エースのワンマンプレーも面白いけどさ、サッカーはチームプレーでしょ。ビッグ大阪はパス主体で、後ろから前へボール(バトン)を繋いでゴールするんだよ。リレーと言っても過言じゃない。集団で、次に繋げる」

 

 最高だよ、と機嫌よく語る青年はどう見てもただの若者で、その外見の特異さを感じさせない。

 

「そっか」

 

 

 いつしか張り詰めていたスコッチの緊張の糸は綻び、自然体となっていく。スイッチが切り替わり、悪者から正義の味方へと意識が移ろう。

 

 もうじき夜になる。いつまでも改札の前に滞在するわけにはいかないし、何より、この青年を放置するのは憚られた。

 

 

「雨、止まないな」

 

 

 スコッチがそう言うと、青年は先程の上機嫌とは打って変わり、わかりやすいほど肩を落とす。ぱたぱたと地面を鳴らす雨音が大きく聞こえた。

 

 

「20%の悲劇だ」

 

「傘を買いに行くか?」

 

「財布持ってないんだよね」

 

「マジか」

 

「使う予定がなかったから」

 

 

 そうか、とスコッチはカバンを漁る。

 ギターケースにはギターと、仕事で使うライフルが入っているから濡らしたくはない。

 横から視線を感じるのは、青年がスコッチの挙動を観察しているからだろう。

 

 

 一拍の間を置いて、「あんた、ミュージシャンなの」と訊いてくる。

 

「駆け出しのな」言い慣れた嘘を吐く。

 

「音楽か」

 

 青年がうんうん、と頷いて、「動物と同じくらい好きだよ」と話す。

 

 スコッチが鞄から折り畳み傘を一つ出すと、帰ると思われたのか、青年は話を切り上げようと視線を空に移している。恨めしそうに曇天を見つめ、眉を寄せた。

 

 

「はいよ」

 

「──……なに?」

 

 

 だからこそ、そこでスコッチは、その一本の折り畳み傘を差し出した。黒い無地の傘で、大きさは約30cmほどだ。

 少し大きめだが、スコッチが普段使いするのには重宝していた。

 

 

「いい傘だろって自慢したいの?」

 

「何でそうなる」

 

 苦笑し、「あげるよ、濡れたくないんだろ」と押し付ける。「話に付き合ってくれたお礼だよ」

 

「話し続けていたのはこっちだ」

 

「でも、オレは楽しかったよ」

 

「あんたが濡れる」

 

 青年は視線をギターケースに向けて、「()()を濡らすのはまずいんじゃないの」と声音を落とす。

 

 

 一瞬、中身のことがバレたのか、と筋肉が僅かに硬直する。が、青年は音楽が好きだと発言していたし、ギターを案じているのだろうと思い直す。

 

 スコッチは悪戯をする子供の頃に戻ったような心地で、「実はな」と声を潜めた。

 

 何だ、と薄荷色の目がスコッチを促すのを見計らい、ばっと鞄の中身を掴み上げた。

 

 

「そんなまさか、嘘でしょ」

 

 青年は、面白いくらい目を大きく開いて見せる。

 取り出したのは、灰色の折り畳み傘だった。最近の忙しい環境の中で、いつの間にか混入していた予備の傘を、鞄を漁った拍子に見つけたのだ。

 

「オレはもう1本あるから、それはあげるよ」

 

「2本も、持ち歩いていたのか?」

 

 

 青年は何故か仰け反り、目を輝かせる。

 スコッチの予想していた反応とは、大きく違っていた。

 何世紀も前から絶滅したとされていた生き物を発見した学者が居たとすれば、彼と同じ反応に違いない。

 無表情のまま握手を交わそうとまでしてくる。

 

 

「いや、そんな反応しなくても」

 

「いや、重要な問題だ。尊敬するよ、あんたは間違いなく大成する。俺が保証する、数年後には有名なギタリストだ」

 

「そうかな」

 

「そうに違いない」

 

「そっか」

 

 

 悪い気はしないが、笑わずにはいられない。堪えきれない可笑しさが胸いっぱいに広がり、吹き出すように笑ってしまう。

 

 

「いいの? 本当に、借りても」

 

「いいよ」

 

 

 スコッチは小刻みに肩を揺らしながら、「なんならあげるよ」と言う。「また会えるか、わからないだろ?」

 

「……あんた、周りからお人好しって言われない?」

 

 

 青年は逡巡するような素振りを見せたが、やがて「有難く頂くよ、ありがとう」と嬉しそうに言った。

 

 

「家まで送るか?」

 

「そこまではいい、流石に悪い。あんたも忙しいでしょ」

 

「そうか。じゃあ、気をつけて帰れよ」

 

 

 うん、じゃあね、と返事をして青年は黒い傘を開く。カチャン、と骨を先端まで伸ばし、傘地を広げる。広めの弧を描いた黒い天井を満足気にくるりと一回転させ、屋根の下から外へ出た。

 

 

 その時、ふわりと鼻腔をくすぐる匂いがあった。

 雨に濡れたアスファルトの匂い。

 駅に集まる人の匂い。

 

 ここまではよかった。

 

 が、遅れて漂ってきたものは、スコッチの解けた緊張感を結び直すのには十分すぎた。

 

 

 ────ほんの少し漂う鉄気じみた匂い。電車由来だろうか。と考えた。

 

 

 次の瞬間、頭が急速に冷えていく。

 ヘモグロビンの文字が頭に浮かぶ。鉄臭い、赤黒い血の匂い。まさか。

 

 

「──っ、なあ!」

 

 スコッチは傘もささずに飛び出し、歩き出した青年を呼び止めた。全身の肌から冷気が噴き出すように感じ、頭を冷やしていく。

 

 青年がゆっくりと、振り向く。

 

 

 

 

 

「────なんだ?」

 

 薄荷色の髪がさらり、と揺れた。

 

 辺りから音が消え、薄氷を踏むような思いにぞわりと肌が粟立つ。

 ぞくぞくと背骨に沿って、細かい震えが起きた。思わず固唾を呑んで目の前の異物を凝視する。

 

 

「……いや、まずは傘をさした方がいい。雨は汚いんだ、大気中のゴミを含んでいるから。何より、それも濡れるし」

 

 気を呑まれるほどの緊迫感は一瞬で霧散した。電車が線路を駆け抜ける一定のリズムが、鼓膜を震わせ、逆立った焦燥感を撫で付ける。

 

 指をギターケースに向けてくるので、スコッチはハッとして灰色の傘をさした。

 青年はそれでいい、と言いたげに頷くと、「それで?」と訊ねてくる。

 

 

「……なあ、君、怪我してないか」

 

 随分と白々しい言い方になる。

 

「? なにを突然。怪我?」

 

 青年は真面目に、くるくると自分の体を爪先から肩まで眺め、首を傾げた。

 

「いや、してない。どうして?」

 

「血の匂いがした気がしたんだ。気のせいかな」

 

 即席で善人の仮面を身につける。

 

「君が、通り過ぎた後だったから」

 

 青年は、「随分、鼻がいいんだね」と感心してはいた。お利口な犬を褒めるような物言いでもあった。「実は今日、喧嘩したんだ。突然襲われて」

 

「え」

 

 まさか応じるとは思わず、スコッチは僅かに目を丸くする。

 襲われた? その外見なら有り得るか。

 

「大丈夫だったのか? 病院は?」

 

「違う。怪我したのは俺じゃない」

 

 青年は、スコッチの心配を肌で感じとったのか、どこか居心地が悪そうにしていた。

 すると誤魔化すように片方の拳を握り、肘を曲げて、突き出した。ファイティングポーズだ。

 

「喧嘩は勝った。こんなナリでも、多少は強いんだ」

 

「じゃあ、返り血?」

 

「そんなに被ってないけど」

 

 肩をひょいと竦めた。

 

「緊急避難ってやつだから。誰にも言わないでね」

 

 煙に巻かれている気もするが、確かめる術はない。

 スコッチは大人しく引き下がるか、と意識を固めつつも、「面倒事に巻き込まれるかもしれないから、あまり大事にするなよ」と、気のいい男を演じる。

 

 

「あぁ。それはもう巻き込まれた」

 

 

 短く息を吐いて、青年は、「その襲ってきた人間、何か面倒な後ろ盾があったみたいで」と涼しい顔で言う。「組織的な、もしかすると暴力団絡みかもしれない」

 

 

「……警察には?」

 

「生憎、信用してないんだよね」

 

「どうして」

 

「色々あったから」

 

 

 青年の目がすっと細められる。

 

 

「あんたなら信用してもいいよ。尊敬しているから」

 

 

 まるでスコッチの本職を言い当てられたような気分になり、内心ひやりとするが、「その後ろ盾については心配しないんだな」と揶揄ってみせる。

 

 

「心配?」と洩らしてから、「面倒ではあるよ」と答えが返ってくる。

 

「へえ」

 

「もういい?」

 

「ああ、呼び止めて悪かった」

 

 

 スコッチは、青年とは逆方向に歩き始める。思考が頭の中で渦を巻き始めた頃、再度声がかかる。凛、とした涼し気な音だ。

 

 

「あんたが誰であれ、この恩は忘れないでおくよ。バトンを繋ぐのは得意だから」

 

 

 ばっ、と振り返ればそこにはもう青年の姿はない。忽然と姿を消しており、まるで最初から存在しなかった幻にも思える。

 鞄に外側から触れる。1本減った折り畳み傘の隙間だけが彼の存在証明だった。

 

 

「…………陽炎だ」

 

 

 思わず呟いている。

 ゆらり、と現れ、ゆらり、と消えた青年は正しく陽炎だった。

 もう一度駅の方を見遣る。相変わらず人通りは多く、改札の先は塞がれている。

 

 ニュースの見出しを思い出した。

 薄緑色の羽。チームプレー。バトン。そのどれもが彼を思い起こさせた。

 

 

「────どちらかと言うと、蜉蝣、かな」

 

 

 その日、スコッチはそのまま何事もなく帰路に着く。道中、何度も「この恩は忘れない」の言葉が脳裏に響いた。

 

 

 

 

 数日後、その駅の近隣マンションから二人の男性が意識不明の重体で見つかった。

 

 例の如く、目覚めた直後に「虫」「殺してくれ」「骨が」と喚くと、バトンを繋いだことに安堵し、例の通り運び込まれた病院で死亡したらしい。

 

 その他。驚くべきことに、なんと2人はスコッチが潜入している組織の末端構成員。

 

 襲撃するも返り討ちにあったような痕跡があったそうだ。面子を潰された組織は一部人員を割き、その事件の調査に出向いた、とバーボンから伝えられた。

 その時のスコッチの心情は、語るまでもないだろう。

 

 

 

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