「メイアイカミン、メイフライ」   作:常時腹痛マン

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■Mayfly

 

 

 

 婦人が痙攣しているのを、蜉蝣は眺めている。

 

 伸びた四肢を踏み抜かぬように、ぴょんと大きく跨いで移動する。潰れた虫を観察するように、顔を覗き込んだ。

 細々と息が続いているのを確認してから、手枷と足枷を回収する。

 

 

 

 

 

 

 

「わたしが言いたいのは、どうして、こんな目に遭わなきゃいけないのか、ってことよ」

 

 

 東都郊外の新興住宅地にある豪邸、その寝室に、蜉蝣は立っていた。

 

 いつもの如く突然家に押し入り、「メイアイカミン」と一応の挨拶をして、「メイフライ」と丁寧に名乗ってから侵入を果たした。

 

 そして「アンシャン・レジームの刑事裁判のことを知っているか」の口上に移り、〈貴族の遊び〉を思い出させ、現在に至る。

 

 

 今回の対象は、41歳の専業主婦、Cヶ崎だ。

 もともとは詐欺師の類で、それも男女間の関係にまつわるタイプだった。少なくない問題をいくつか起こしながらもほぼ無傷のまま、詐欺から手を引いた。すると今度は、資産家の跡継ぎと婚約し、悠々自適と暮らしている。

 

 Cヶ崎の顔は真っ赤になっており、憤りが全身から噴き出していた。

 

 

「随分と立派なお家だな」

 

「何なのよ、あんた」

 

 

 場違いな発言がなおのこと癪に障ったのか、彼女はガタガタと自分と繋がれた椅子ごと揺らした。興奮が呂律を回らなくしている。

 

 

「何なのよって。〈ノーブルマン〉を懲らしめるバトンを受け取った、アンカーだよ」

 

「こんなことをして、()()で済むと思ってるわけ?」

 

無料(タダ)は怖い」

 

 

 蜉蝣は肩をすくめる。顔にかかった、薄荷色の髪を手で耳にかけた。

 

 

「金は足がつく。俺もバトンを受け取ったからには、次に繋げないとなんだ。あんたもそれくらいは分かるだろ?」

 

「何言ってんのよ」

 

「だから、バーバリアンを懲らしめに来た。知ってるか? 同族を虐殺目的で殺せる生き物は、人間だけなんだと」

 

「ふざけないで。こんなことをして、バレないと思ってるの? 警察にすぐ捕まるわよ。あんたなんて、死刑よ、死刑」

 

「捕まるのは困る。まだ終わっていない」

 

 

 蜉蝣は指を折り、「もう少し、時間がかかるからな」と律儀に答えた。

 

 

「なっ、なによ。じゃ、じゃあ女にも手を出すわけ?」

 

 じゃあ、って何だよ。

 どんな経緯を経てその言葉に辿り着いたのかは知らないが、とにかくCヶ崎は唾を飛ばして叫んだ。どうだ、と鼻を上向きに鳴らす。

 

 

「子供たちには何て言った?」

 

「は?」

 

「『なんで、やめて』と言われて、あんたらは何て言ったんだったっけ」

 

 

 Cヶ崎が、あれは、だとか、今は関係ないでしょ、だとかヒステリックにきいきいと叫び始める。

 対して、蜉蝣は平坦な調子を貫く。

 

 

「やめて、やめなさいよ」

 

「やめない」

 

「どうして、お金なら」

 

「『()()()()()』」

 

「ああ、いやっ! ごめんなさい、やめて、お願いよ。誰か」

 

 彼女が外に向けて喚き声をあげた瞬間、蜉蝣は手を動かしていた。右手に持っていた武器を振り下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蜉蝣は持ってきたトートバッグを拾い上げ、着替えをした。シンプルで在り来りなジャケットとパンツだ。

 豪邸を後にして、ふとスマートフォンを見る。ニュースアプリの通知があった。さらに画面を読み進める。

 

 「水星、最大離角」なる見出しがあった。

 

 

「今年一番の観測チャンス!」

 

 

 蜉蝣は、へえ、とも、ふむ、ともつかない声を洩らす。隕石が降ってくるような恐怖なく、珍しく淡い期待を持って指をスライドさせた。

 

 

「その日の天気は、何だったかな」

 

 よせばいいのに、天気予報を調べてしまう。飛び込んでくるのは、「降水確率70%」「昼過ぎから大雨の予想」「お出かけに傘は必須」といった言葉だった。

 

 少しでも晴天を期待したからこうなったのではないか。蜉蝣は自分の思考回路が、もしや悪天候に作用したのではないかと薄ら寒さを感じる。

 そうならば、おしまいだ。

 

 

 肩を落として、関連ニュースの欄を開く。「東京スピリッツ対ノワール東京」の見出しが目に入る。

 

 「スピリッツ」の単語に、反射的に顔を顰めるのをなんとか堪える。しかし「ノワール」の文字を認識した瞬間、蜉蝣は堪らず、うげ、と口をへの字に曲げた。

 

 ノワール東京とビッグ大阪は、サポーター間での確執や遺恨とも言うべき問題が多く存在し、例に漏れず、蜉蝣もノワール東京を忌避していた。

 

 数秒悩んで詳細ページを開く。数日後、東都競技場で交流戦が行われるという。

 近頃忙しかったせいで、見落としていたのだろう。両者の単語を見るだけで胸の内から、喉が詰まるような不満の煙が立ち上る。

 

「……敵情視察だ」

 

 蜉蝣は呟いてみる。

 

 自分にとって東京スピリッツというチームは、もちろん敵に他ならない。

 しかし、ノワール東京か東京スピリッツかと訊かれれば、迷うことなく東京スピリッツと答えよう。

 

 そうだ。

 東京スピリッツのやつらが、ノワール東京に()()()()()()見てやろう。

 

 そこには、自分の両者に対するマイナスの期待がどう作用するのか、とふざけた疑問を解消する魂胆もあったかもしれない。

 

 ふらふらと歩き続けて駅に辿り着けば、ふと折り畳み傘をくれた男を思い出す。

 最初は、ギターケースの中身からしててっきり同業者かと考えていたのだが、突如正反対の鋭い気配を醸し出すものだから、蜉蝣は内心困惑していたのだ。

 

 

「あれは焦ったなあ」

 

 

 警察かと思った。

 

 

 声に出して、蜉蝣は一人頷く。

 蜉蝣の嫌いな日本語は、「おまわり」と「おしまい」だ。

 

 

 

 

 

■Bourbon

 

 

 

 

「〈ノーブルマン〉って呼称、知っている?」

 

 

 バーボンは助手席に乗るベルモットに、「〈ノーブルマン〉?」と訊ね返す。

 

 

「近頃、組織の人員が調査に割かれている、あの案件ですか」

 

「あら。さすが、耳が早いわね」

 

 

 そう言ってベルモットがこちらを向いたのを、一瞥する。

 

 

「〈ノーブルマン〉、今回死んだ組織の末端構成員のこと。彼ら自体は、吹けば飛ぶ程度の価値だったのだけれど。この一連の案件は、放置するには大事すぎる」

 

「でしょうね。泥を塗られたも同然ですから」

 

 

 完璧に調べきれたわけではなかったがバーボンも、大体の粗筋は頭に入っていた。「降谷」として調べていたから、というのもある。

 

 過去に、とある許し難い犯罪行為に手を染めたにもかかわらず、警察中枢と縁があったが故に罪に問われなかった加害者たちの呼称が、〈ノーブルマン〉だ。

 ハンドルを握る指先が力み、微かに白む。

 

 

「……たしか、幼い子供や犬猫を使って、拷問をしていたんでしたっけ」

 

「さあ。今はそこはいいの」

 

 

 そうは言いつつも、ベルモットの表情は僅かに不快さで歪んだように見えた。

 

 

「その〈ノーブルマン〉が、次々と殺されている。あなたもそれは知っているでしょう? その犯人は──」

 

「突然現れ、目的を達成すると途端に消える」

 

 

 バーボンは一度言葉を区切り、曖昧に言った。

 

 

「喩えるなら、()()()()のような人間だ、と聞いていますよ」

 

 ベルモットが胡乱げに息を吐く。

 辟易としているようにも見えたが、その美貌に拍車がかかるだけだった。

 

()()、ね」

 

「本当にそんなに人間がいるのなら、是非ともお会いしたいものです」

 

「あら。もしかすると、近付けば近付くほど、更にその先に遠退くかもしれないわよ」

 

「まるで逃げ水ですね」

 

 

 バーボンは薄らと笑みを浮かべながら、「知っていますか」と続けた。

 

「逃げ水と陽炎、それに蜃気楼は、正確に言えば少しずつ違うんです。光の屈折現象、という意味合いでは同じですけどね」

 

 はあ、とわざとらしい溜息が遮る。

 

「あなたは本当に探偵みたいね、バーボン」

 

「これでも探り屋ですから」

 

 

 ベルモットが次に口を開いたのは、駅に近付いてきた時だ。

 それが組織の話題とは何の関連性もないものだと察せられたので、バーボンは相手の気分を害させないように、ペースを合わせる。

 

 

「水星」と彼女は言った。「今年は見えなさそうね」

 

 

 ベルモットは幹部の中でも、バーボンと最も関わりが深かった。周囲の評価も概ねその通りであり、バーボン自身、その事実を利用することさえある。

 

 それを彼女は時々不本意そうに、「あなた、本当にいつかキャンティあたりに撃たれちゃえばいいのに」などと、悪態をつくこともある。

 

 彼女の話を引き出すように、バーボンは自分の質問を口にしていた。軽口に近い。

 

 

「たしか今年一番の観測チャンスらしいですが。見られないとは?」

 

「雨よ」

 

 

 ベルモットは助手席から外を眺めている。

 

 

「降水確率70%。黒い雲に覆われて、水星どころか月の光もここには届かないわ」

 

「意外ですね」これは本心から言っていた。「あなたのような人も水星を楽しみにされていたとは」

 

「あら、それはどういう意味?」

 

「他意はありませんよ」

 

「本当かしら」

 

「ええ、嘘を吐いているように見えますか」

 

「見えるから言っているんでしょう」

 

「それは困りました」

 

 微塵も困った様子を見せないものだから、ベルモットは再び大きく溜息を吐く。

 

 目的地に辿り着き、いつも通りバーボンが運転席から降りる。後方から回り込み、彼女側の扉を開ければ、当然と言わんばかりに待っていたベルモットが淑やかに地面に足を着けた。

 振り返り、扉が閉まるのを一瞥してから、彼女が言う。

 

「数日後、この辺でサッカーの試合があるらしいじゃない。あなた、確か近い内に任務があったでしょう。交通規制に引っかかるなんて、馬鹿な真似はよしてよね」

 

 ベルモットは揶揄うような口調だ。

 

 

「ええ、ご忠告をどうも。ですがご心配なく。スコッチと、……()()()もいますから」

 

「あら。噂通り、本当に仲が悪いのね」彼女が笑う。「子供みたい」

 

 

 ぴくり、と指が反応しそうになるも、表情に笑顔を描くことで仲裁する。

 

 

「……もう夜も遅いですし、早く帰られた方がいいかと」

 

「ふふ。そうね、そうさせてもらうわ」

 

 彼女の目の奥にゆらり、と加虐心の光が見えた。

 やられっぱなしは性にあわないからな、と内心で適当に理由付け、口角を上げる。

 

 

「──あなた程の方ならご存知でしょうが」

 

 バーボンは畏まるように、小さく肩を竦める。

 

「睡眠時間が7時間以下の女性は、7時間以上眠る女性より約38%太りやすいそうです」

 

 

 途端、絶対零度の視線が突き刺さった。

 

 

「殺されたいのかしら」

 

「殺しますか?」

 

「……はぁ。無駄口を叩く暇があるなら、さっさと調べてきてちょうだい。その陽炎とやらをね」

 

「ええ。かしこまりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■Bourbon

 

 

 こんなに早い内に、再会できるとは思わなかったな。

 

 彼を見つけた時にまず抱いた感想は、そのようなものだった。

 

 

 

 

 その日の任務は、簡単な取引の遂行と、組織の邪魔者を始末することだった。

 

 潜入捜査とはいえ、悪事に手を染めるのは何度繰り返しても決して慣れることはなく、外見をいくら取り繕えても内心の嫌悪感は薄れない。

 

 体の内側に、黒々としたタールのような液体が満ちて、いつか出口を突き破るのではないか。

 そんな焦燥感を消してくれるのは、同じ潜入捜査官の親友との会話か、愛する国で暮らす人々の日常だった。

 

 

 ライとは早々に別れ、スコッチと一時別行動を図っている最中、先日のベルモットとの会話を思い出したのがきっかけだった。

 

 

「サッカーの試合があるらしいじゃない」

 

 

 思い立ってからの、バーボンの行動は早かった。

 帰り道のルートを変更し、競技場の近辺を歩いてみる。競技場の熱が吹きこぼれるように、すり鉢状の会場から溢れ出て辺り一面に伝播している。そう思えるくらい、近隣の人々の顔は興奮に染っていた。

 

「ノワール東京VS東京スピリッツか……」

 

 

 ノワール。

 フランス語で「黒」。

 

 

 思考が一瞬陰るも、瞬きの間にスイッチを切替える。

 同列に並べてはサッカーチームに失礼だ。

 

 そこかしこに貼り付けられたポスターを眺め、記憶を遡ってみる。

 最近、ノワール東京には比護隆佑という強力なフォワードが加入したようで、それが起因してかサポーターは大盛り上がりらしかった。

 

 バーボンは、すり鉢状の会場を眺めていた。平和だ。

 

 わっ、と溢れ出る歓声に目元を和らげ、飛び出たカラフルな歓声を目で追うように、上から下へと視線を滑らせる。

 その時、視界に薄荷色が映った。

 

 

「あ」

 

 

 あの青年が、ベンチに腰かけ、スマートフォンの画面を真剣に見つめている。歓声が外に溢れる度に、時折疎ましそうに、もしかすると妬ましそうに顔を上げる。

 

 左内ポケットの感触を確かめる。持っている。

 絶好のチャンスだ。迷わず近付いていた。

 

 

 〈ノーブルマン〉の殺害が行われた現場。以前そこで出会った青年は、浮世離れした儚さと危うさを放っていた。会話を交えて暫くすると、本能的危険とも言える気配を感じさせた。

 

 

 ────八本だったよ、って。

 

 

 

 

「…………ッ」

 

 

 公安警察として捜査の情報を手にした時、まず間違いなくあの青年が犯人だろう、と感じたのは、ひとえにその気配が理由に他ならない。

 

 物的証拠はない。

 恐ろしい程に証拠を残さず、そして痕跡も残さずに立ち去る手腕は見事と言わざるを得ないな。

 

 ベンチの後ろ数メートルまで接近して、もう一度、左内ポケットの重みを確かめる。

 

 

「──お久しぶりです」

 

 青年の背中に声をかけた。薄荷色の彼は、顔を俯かせ、画面に目をやっている。

 悪戯を叱られたペットの犬のように、わかりやすく落ち込んでいた。

 

 

「……はじめまして、ではなく?」

 

 

 訝しみ首だけで振り返った青年は、バーボンの声に警戒心を持ったのか、見定めるように目を細める。

 

 その青年は、やはり今まで出会った人間の中でも、特別整った外見をしていた。さらりと風に吹かれる薄荷色の頭髪は、純粋さを感じさせる。

 しっとり素材のロング丈のシャツを着て、それが不釣り合いにも女性的にも感じられないのは、珍しかった。

 

 突然話しかけたバーボンに対しても、大きく取り乱す様子はない。

 

 

「おや。忘れられてしまいましたか……」

 

「あぁ、思い出した」青年は、なんとはなしに指をさし、答えた。「見たことがあった」

 

「はい?」咄嗟に聞き返す。

 

「なんでもない」

 

 

 青年はまた、画面と向き合った。ボールと、藤色のユニフォームをじっと睨む。

 

 

「ノワールは」と背中を見せたまま、口を開いた。「比護を手に入れたからって、調子に乗ってる」

 

「ノワール……ああ、比護選手ですね」

 

「全部比護に繋げばいい、なんて考えて」

 

 

 そこで青年は、言葉を必死に選び、不満のあまり私情が顔を出したのか、「面白くない」と口走ってから「みんな、これで優勝間違いなしだなんて思ってる」と愚痴を言う。

 

 

「僕にはなんとも……。あまり詳しくないんです」

 

「ノワールとスピリッツなら、スピリッツ。スピリッツとビッグなら、ビッグだ」

 

 

 バーボンが言うやいなや青年は、当然のように答えてくる。頭の中で序列がピラミッド型に組み上がった。

 

 画面の中で、藤色のユニフォームを着た比護がボールを持つ。見事な足技でディフェンスを一人抜く度、会場が沸き立つ。抑えていたボリュームのゲージを、徐々に上げていくかのようだ。

 

 

「何の用なんだ」

 

 

 青年は画面から目を逸らさず、変わらない口調で言う。

 

 バーボンはベンチの正面に回り込み、「隣、座っても?」と訊く。

 

 

「断る、あっち空いてるだろ」

 

「失礼します」

 

「終わった、おしまいだ」

 

「そこまで言いますか」

 

 画面に映る「東京スピリッツ」を見ている青年の横顔は真剣だった。

 

「スピリッツは嫌いと仰っていませんでしたか」

 

 バーボンはまた、邪魔するように質問を投げた。

 

「ビッグ大阪と、色々と確執のあるノワール東京を非難するのは分かりますよ。共倒れしたらいいな、あわよくば主要選手が潰れないかな、とかですか」

 

 青年は画面から目を離さず、暫く黙っていた。

 バーボンのこの、無神経であからさまな挑発に腹を立てている様子もなかった。

 

 

「敵の敵の、敵情視察」

 

 

 少しして、リズムよくそう答えた。

 それから、「あと、俺が期待して見ると、どうなるのか気になったんだ」と打ち明ける。

 

 前半に関しては、恐らくだが、語呂が良い言葉だったものだから口ずさみたくなっただけな気がした。

 

 

「……期待? 気になった?」

 

「今年は水星が見れない。それは知ってる?」

 

 ベルモットとの会話を思い出す。

 

「ええ、降水確率70%だとか」

 

 青年はふう、と調子を整えるような息を吐いた。

 

「──俺のせいかもしれない」

 

 本気なのかも判断できない声音で言うもので、バーボンは一瞬唖然と石化してしまう。

 

 

「…………は?」

 

「珍しく、自分にしても珍しく、期待したんだ。『見れるかも』って」

 

 

 青年はそこで恥ずかしくなったのか、声を小さくした。

 

 

「そうしたら、雨の予報だ」

 

「偶然でしょう」

 

「偶然じゃない可能性もあるよ」

 

 

 どこまで本気なんだ。

 正直、馬鹿馬鹿しい気持ちでいっぱいになっていたが、青年が本当に〈ノーブルマン〉を殺し歩いている犯人だとすれば、何か掴めるかもしれない、と一縷の望みをかけて話を続けた。

 

「それで?」

 

「ノワールとスピリッツ、どちらも()()()()()()()()からすれば、敵に間違いない。でも、どちらかと言えばスピリッツの方を応援してる」

 

 我らが、と言うあたり、本当にサポーターらしいぞ。とあまり必要性の感じられない情報を掴む。

 

 

「つまり、どちらにもあまり良い感情はないけれど、勝つならスピリッツに勝って欲しい、と」

 

「うん」

 

 青年は頷いて、「だから試してみたくなった」と続けた。

 

「水星みたいに、俺が期待すると裏切られるんなら、この試合はどうなるのか」

 

「それは……──」

 

 

 こいつ、馬鹿なのか?

 

 

 そこで青年が、バーボンをじっと見てくる。

 ガラス玉のように透明な虹彩に己が映った。表情に出すぎていたか、いやそんな筈はない。

 

 どうかしたのか、と思っていると、「こんな話をしに来たの?」と意外そうな顔をした。

 

「あんた、俺に用があるんでしょ」

 

 

 彼の視線が意味ありげに、ちらりとバーボンの左内ポケットへ向く。

 

 気付いているのだ。内側に潜ませた、拳銃に。

 

 

 青年は特に慌てる様子もなく、〝ノワール東京対東京スピリッツ〟の放送を一旦視界の端に追いやり、「聞くくらいするよ」と言う。

 

 抵抗するか逃走するだろう、とバーボンは予測していたが、案に相違し、青年はその場に留まる姿勢を見せた。

 ただイヤホンは片耳だけ装着しており、放送の視聴を止める様子はない。

 

 そして思いのほか、よく喋る。

 

「チケットが売り切れていた」「ここでなら歓声で雰囲気を味わえるから」と。

 

 そればかりか、「スピリッツがどこまで苦戦するか」だとか、「ノワールの負けるところを近くで見たい」だとか、そういったこともつらつらと並べてくるものだから、こっそり呆れた。少し口を止めろと何度も内心で願った。

 

 

「──最近、物騒なことが多いんですよ」

 

「隕石のこと?」

 

「違います」

 

 

 なぜ隕石。

 聞き流しながら続けた。

 

 

「連続殺人事件ですよ。部屋に突然押し入り、相手を拘束して……」

 

 最後は言葉を濁し、口の中でほろりと溶けるような含み笑いで表現する。

 

「……この町は事件が多くて困る」

 

 青年がそう言ってくる。

 

「物騒だ。恐いから本当に勘弁してほしい」

 

「ええ、全くです。しかもその連続殺人、ただ殺すことだけが目的ではないみたいなんです」

 

「強盗だ」

 

「違います。そうだ、ハンムラビ法典ってご存知ですか」

 

「『目には目を、歯には歯を』だったっけ。ケ・セラ・セラより好きだよ」

 

 そういえばそんなことを言っていたな、と今この瞬間に思い出す。

 青年の様子は変わらない。無表情を徹底しており、果たしてそれが演技なのか、もしくは何も感じていないのか、判然としない。

 ただ、秋を待つ夏の夕方に似た穏やかさはあった。

 

 

「一連の事件で死亡した人たちに共通して言えるのは、『骨が砕かれている』こと」

 

 着実に一つずつ、駒を進めるように、バーボンは続ける。

 

「……そうそう。実は似たような事件が、過去にもあったみたいなんです。この周辺で」

 

()()()()。ここで、ハンムラビ法典が関係するわけだ」

 

 穏やかに青年は言う。

 

「骨には骨を、だね」

 

 

 どの口が、と内心で罵る。

 それと同時に、引っかかった、とバーボンの顔は笑みを浮かべていた。首を傾け、相手の顔を覗き込む。

 

 

「おや、こうは考えられませんか? 例えば──今回の連続殺人は、昔の事件の模倣犯だと」

 

「……模倣犯か、それは恐ろしい」

 

「でも、あなたは今、こう考えたんじゃないですか」

 

 

 昔の事件の加害者が、今回の事件の被害者で、

 その加害者を殺した今回の事件の犯人は、昔の事件の被害者遺族である。

 

 

「──つまり、一連の殺人は復讐である、と。そう考えましたよね」

 

 青年は目をしばたたいている。

 

「『八本だった』と、あの発言」

 

 

 顔は青年の方向に向けたまま、服越しに銃口を突きつける。

 圧迫感があったのか、青年は脇腹の位置に当てられた重みを一瞥し、再び顔を上げる。

 

 

「あれは、あなたが砕いた、骨の数なんじゃないですか?」

 

 

 青年は表情を変えぬまま暫く黙った。

 予想通り、何らかの手段で抵抗をするか、もしくは、この状況からの逃亡を画策しているのかもしれない。

 

「返答によっては、乱暴な手段に出るしかないのですが……」

 

 バーボンは言葉を続けた。青年は焦った様子もなく、ただ言葉の意味を訊ねてくる。

 

 

「乱暴な手段?」

 

 実際に拳銃(これ)ですよ、と更に威嚇した方が、彼の焦燥感を煽れそうではあるし、都合が良かった。

 が、曖昧に、そうですねえ、と濁した。

 

 どうしても、この青年から、組織の人間のような悪辣さを感じられなかったのだ。

 

 例えば彼の、特徴的な鉄面皮も、見方によっては警戒対象のひとつではある。

 

 しかし彼の無表情は、非道な冷血さや軽蔑からなるものではない。

 どちらかと言えば、落ち着きや達観、諦念が綯い交ぜになっているせいに見える。

 

 青年の内情によっては、()()()で逮捕するのもありか。

 そんなことを考えていたところ、思いもよらぬ言葉が飛び出す。

 

 

「今思い出したんだけど、あんた、あの組織とやらか」

 

 青年は冗談を言っているようではなく、本当に気にしていなかった様子だった。

 バーボンは流石に噴き出した。

 

「〝あの組織とやら〟なんて、ひどい言い草ですね。こっちの世界からすれば、警察を殴って、警察(あなた)を殴ったらいけないんでしたっけ、って言うようなものですよ、それ」

 

「殴っちゃ駄目なの?」明らかにこれは冗談で言っていた。「生憎、俺が本当に警察だと思う人間は、世界に二人だけなんだ」

 

「おや、知り合いに警察関係者が? この世に犯罪者と癒着する警察がいるとは」

 

 青年はバーボンの言い草を初めて不快に感じたように、ぴくりと眉根を寄せる。

 何かが彼の琴線に触れたらしい、ということはわかった。

 

 

「どうかされました?」

 

「いや」

 

「まあ、それはおいおい訊くとして。どうですか、僕の推理は」

 

 

 当たっていますか?

 

 

 青年は数秒静止した。その数秒で何を考えているのか、バーボンにはその僅かな時間が嵐の前の静けさに思えた。

 

 銃口をさらに突きつける。

 

 

 

 突然、青年はふっと息を溢した。

 年齢不詳の顔が、さらにぼんやりと霞がかるように揺らいで見えた気がした。

 視界がぼやける。ワイパーで窓ガラスを拭くように、瞬きを連続させる。

 

 

「驚いた」

 

 青年が、言祝ぐように言ってきた。バーボンは眉根を寄せ、相手の感情を探る。

 

「……驚いた、と言うと」

 

「探偵っていうのはここまで執念深く、調べようとするものなんだ」

 

「ご想像におまかせしますよ。それで、どうです。当たり、ということで良いですか」

 

「少し違う」

 

 青年は表情を変えなかったけれど、どこか余裕がなさそうだった。

 

「バトンだよ」

 

「バトン?」

 

 一体何のことだと思っていると、青年は突如、ハッとした様子で()()()勢いよく視線を向けた。

 その拍子に、片耳だけのイヤホンが落ちる。というか、まだ聴いていたのか。

 

 同時に、わっと客席が沸いた。

 爆発的な歓声が競技場の中から吹き出したかのようだ。反射的に体がぴくり、と動く。

 

 そして彼は、びっくりするくらい場違いな、呑気なことを言った。

 

 

「よし、きた、1点だ」

 

 

 画面に視線を釘付けにして、喜びを噛み締め、はしゃぐような声を出した。

 

 え、とバーボンはその画面に目をやる。青と白のストライプのユニフォームが、駆け寄ってひと塊になり、喜びを分かちあっていた。

 

 

「やっとスピリッツが決めた、板澤だ!」

 

 青年が、バーボンに画面を見せてくる。仰け反りつつそこを眺めれば、リプレイ映像が流れている最中だった。

 

 

「確か……、ボランチの選手でしたか。──以前、ビッグ大阪に2点決めていましたね……」

 

「今それを持ち出さないでよ」

 

 

 青年は溜息混じりに言ったものの、しかしすぐに瞳をきらきらさせている。

 

「ノワールの負けが見れる」と嬉々としていた。

 

 本当に子供みたいだな、と呆れてしまう。

 

 

「そういう期待は良くない、と確かご自身で仰っていた筈ですが……」

 

「どうしてすぐに水を差すんだ」

 

「違いましたか?」

 

「はあ、あんたとは本当に意見が合わない。正反対だ」

 

「僕もあなたの悲観主義と心配性は理解し難いですよ」

 

 青年は顔をくしゃっとした。

 

「ああ言えばこう言う」

 

 と、不満そうに軽口を叩いている。

 あなたは「ああ言えばこう心配」じゃないか、と思う。

 

 

「おや、フリーキックみたいですよ」

 

 バーボンがふと、青年の手の中の画面に目をやり、言った。

 

「何だって?」

 

「ファールですね、スピリッツの」

 

「ああ、もうおしまいだ」

 

 彼がそう言うと同時に蹴られたシュートは、サイドバックの壁に阻まれる。

 

「よかったですね、入りませんでしたよ」

 

 青年はほっと胸を撫で下ろした。

 しかしすぐに、「喜んだ瞬間、これだ。やっぱり俺が期待しない方が、物事は好い方に進むのかもしれない」と背を丸める。

 

 その反応がやはり面白くない。

 全てを悲観的に考えすぎて、自分の思いはどう足掻いても報われない、なんて考えていそうで、むっとする。

 

 

「逆転劇は見たくない」

 

 青年が言った。

 

 その時、バーボンは驚くほどはっきりした声で、「どちらが勝つと思いますか」と訊ねていた。

 

 彼は口にするのも恐ろしい、という表情のままだ。どうしてそんなことを訊くのか、分かっていないらしい。

 その態度が冗談なのか本気なのか、相変わらず判別はつかなかった。

 

「どっちが勝つとか、そういう期待は、裏目に出るかもしれない」

 

「では、ノワール東京が勝つと思いますか?」

 

「だから────……あ」

 

 

 その瞬間。

 青年の顔に、閃きと希望の色が灯るのが、ありありと見て取れた。

 

 

「勝つ、かもしれない」

 

 口ごもり、渋々唇を震わせる。

 

「俺の期待が裏目に出るのなら、『ノワールは勝つ』。そう思って、内心で、こっそりスピリッツを応援してみるよ」

 

 バーボンはふっと息を溢す。

 

 

「では、『ノワールが勝ったら』、僕の勝ちで」

 

「何それ」

 

「簡単な賭け事ですよ。『スピリッツが勝ったら』、あなたの勝ちです」

 

 彼は、不確定で運任せなゲームに興味がある人種には見えず、むしろ、そういう類を一蹴する雰囲気を持っていたが、バーボンを追い払うことはしなかった。

 

 続けてくれ、と言われない代わりに、拒絶もされなかった。だから、バーボンは話を続けた。

 

 期待した出来事は裏目に出る。あなたはそう言いましたよね。ノワールが勝つ、とも。

 

 

「つまり、この賭けで、あなたが勝つことで得る利益は、『スピリッツの勝利』です」

 

 どうですか。

 

 

 と言いつつも、バーボンはこの賭けと言うには不格好なゲームに、正直期待していなかった。

 何故なら、このゲームをしたところで彼にはなんの利益も無い。

 

 すると、「ノった」と思いもよらぬ返答が来るので、思わず笑ってしまう。どこに固執してんだ。

 

 

「ふ、……じゃあ『ノワールの勝利』、つまり僕が勝ったら、僕のお願いを1つ、聞いていただけますか」

 

 青年はあからさまに顔を顰めた。

 

 

「『引き分け』でも俺の勝利なら、考えるけど」

 

「無茶苦茶ですね……まぁ、いいですけど」

 

 

 

 

 

 

 

■Scotch

 

 

 

「それで、どうだったんだ?」

 

 合流したスコッチは、歩きながらその問いを投げかける。

 

 

「──ええ、〝黒〟でしょうね」

 

「急に『(ホシ)を見つけた』なんて連絡が来るから、驚いたよ。でも、まあ、バーボンが言うなら、そうなんだろうな」

 

「おや、随分な評価ですね。理由を伺っても?」

 

「そんなの、決まってるだろ」

 

 深くは言わず、スコッチが笑みを浮かべて見せれば、バーボンは目尻に皺を作る。

 信頼。言葉にしなくても伝わる、それが答えだ。

 

「やつの動機は復讐か?」

 

 素朴な疑問をスコッチは口にした。

 

「どうやら、復讐ではないようなんです。それまでは一貫して肯定も否定もしませんでしたが、動機は明確に否定していました。それと」

 

「それと?」

 

「バトンだ」バーボンは呟いた。「そう言っていました」

 

「……バトン?」

 

 え、と当惑し、スコッチは足を止める。

 

 

 

 少し前のことだ。

 組織の雑用が積み重なり、本職の仕事にも追われ、疲れが溜まった状態での帰り道だった。

 電車を降り、人混みを避けるようにして、改札を抜けた。

 

 雨が降っていた。

 湿ったアスファルトの匂い。排気ガスの匂い。歩きタバコの匂いが、今も漂っているように思えた。

 

「隕石が落ちてくるんだって」

 

 雨宿りをしていた青年は、美しい薄緑色で、川から飛び立つ蜉蝣さながらの儚さで、その彼の静かな空気に、少しずつストレスは消化される。

 駅に取り付けられた電灯の頼りない明るさが、その姿をぼんやりと照らしていた。

 

「サッカーはチームプレーだ」「後ろから前へバトンを繋いでゴールする」「集団で、次に繋げる」

 

 そして、あの台詞を思い出す。

 鉄の匂いが、鼻腔を掠めた気がした。

 

 

 

「バトンを繋ぐのは得意なんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──……チ……スコッチ。どうしたんですか、急に固まって」

 

 バーボンにそう声をかけられて、我に返る。いつの間にか、肩を揺さぶられていた。

 辺りを見る。夕焼け。斜陽が差し込んでいた。雨は降っていない。

 

「何か……」

 

 スコッチは唇を急かした。まさか、まさか、と頭の中でぐるぐると渦が巻く。

 

「何か、言っていなかったか」

 

 

 そう続け、言葉を補うために視線を来た道の方へ向ける。

 街灯に、応援フラッグが掛かっている。藤色と、青と白のストライプだ。

 

 

「……なあ、今日の対戦は?」

 

「ノワール東京と、東京スピリッツですけど」

 

「黄金のツートップだ!」

 

 東京スピリッツに入るらしい、と彼は項垂れていた。

 

「詳しいですね、そんなにサッカー好きでしたっけ。黄金のツートップ……聞いたことはありますが、彼らはまだ高校生でしたよね。スピリッツに入るんですか?」

 

「まだ噂段階らしいけど」

 

 スコッチは表情を変化させているつもりはないが、バーボンはその言葉に、僅かながら熱がこもり始めていることに気付いたらしい。

 何故そんなことを知っている、と疑問を抱くより早く、彼は目を見開いた。

 

「…………あの、もしかして、彼に会ったことが?」

 

「さっきの奴って、〈蜉蝣〉みたいなやつだったか。あの薄荷色で、次にバトンを繋ぐ虫」

 

 スコッチは頬を引き攣らせた。

 言いながらも内心で、まさか本当にあの青年が、と信じたくない気持ちもあった。

 

「その人物、もしかして、ビッグ大阪のサポーターでしたか……?」

 

 バーボンが何を言っているのか一瞬理解できなかったが、すぐに、先日スコッチも聞いた、事件現場で居合わせた〝不思議な青年〟の話だとわかる。

 スコッチが恐る恐るという様子で頷けば、バーボンは数秒硬直し、それから大きく溜息を吐いた。

 

「……決まりですね。あなたの言う彼と、今回僕が話した〈ノーブルマン〉を対象とした殺し屋は、同一人物です」

 

 バーボンが前髪を掻き上げる。

 ぼんやりと眺めながらスコッチは、長い指だな、と現実から逃避気味に思う。

 

「オレ、実はあいつに、折り畳み傘をあげたんだ」

 

「ああ。降水確率20%とか何とか言ってたような」

 

 バーボンは何の気なしに言う。

 思わず、えっ、と目を丸くする。初めて会った日の出来事は、バーボンに伝えていない。

 

 僅か20%の降水確率を信じ、「天気予報は外れていない」と豪語しつつ、油断を嘆いていた青年が脳裏にチラつく。

 

「凄いな。そうだ、その日の降水確率は20%だった」

 

 そうスコッチが言えば、今度はバーボンが驚く番だった。

 

「え?」

 

「え?」

 

「ま、まあ、いいでしょう。それで、彼はなんて?」

 

「『この恩は忘れない』って」

 

「……大丈夫なんですか? それ」

 

「うーん、悪いようにはならない、と思う」

 

 スコッチの言葉をじっと睨みながら聞き、バーボンは歩き出した。

 

 

「そういえば、僕も彼と話をしたんです」

 

「どんな?」

 

「賭けをしました」

 

 あの過度の心配症ともいえる彼は、賭け事とは正反対にいるように思えた。

 が、そういえばこの幼馴染も彼とは正反対な性格だな、と思い直すと、説得させるのも無理ではない気がした。

 

「試合でスピリッツが勝つか、引き分けで、彼の勝ち」

 

「勝利の景品は?」

 

「『東京スピリッツの勝利』です」

 

「なんだそれ、どうやるんだ」

 

 スコッチは眉を動かし、「バーボンは、ノワールが勝ったら、勝ち?」と訊く。

 

「ええ」

 

 バーボンは思い出し笑いをするように、口角を上げた。

 

「勝利の景品は、僕の『お願いを一度聞いてもらう権利』です」

 

「全く割にあってないな」

 

「全く割にあってないですね」

 

 最早賭けですらない。どんな悪徳商法だ、と揶揄うように脇腹を突けば、バーボンは得意げに笑みを深めた。

 恐ろしい男だ、とスコッチも口角を上げる。

 

 

「ところで、今日の勝敗をご存知ですか?」

 

「いいや?」

 

 

 スコッチは宙を眺め、「途中、スピリッツがリードしてるって情報は、耳に入ったよ」と言う。

 

 逆転した、とも聞いていない。

 

 

「ってことは、スピリッツの勝ち?」

 

「それが ────」

 

 バーボンは、一度顔を伏せた。

 それから、もう堪え切れないと言うかのように、勢いよく顔を上げた。肩を小刻みに揺らし、くつくつと笑っている。

 

 そして、驚くべき結果を告げた。

 

 

「中断からの、()()()()

 

「…………は?」

 

「発煙筒が投げられたらしいんだ。ノワールの悪質なサポーターが、酔っ払って投げちゃったって」

 

 

 期待が裏目に出る、というのは本当かもしれない。

 

 

 バーボンはそう言って、口調が乱れていることも気にせず腹を抱えた。

 

 引き分けでもなければ、勝敗もついていない。

 

 スコッチは、説明や状況の情報が欠けているから、詳しくは理解できていないけれど、とにかく、あの青年が負けたことは分かった。

 

「これ、僕の勝ちですよね」

 

 バーボンは、言いながら目尻に浮かんだ涙を指で掬った。

 気付いたら、本気で逃げられていましたけど。とも付け加える。

 

 油断が悲劇を生むんだ、と頭を抱える青年の姿が思い浮かんだ。

 

 

 





発煙筒関連は原作の『迷宮のフーリガン』回から。
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