やはり、そう簡単に忘れることなどできませんでした。
その夜はリナリーの夢を見ました。
元気だった頃の彼女に会えたら良かったのに、実際に夢に出てきたのは、彼女の最期の姿。
血の涙を流して事切れていた、あの
日中、意識がある時も、ふとした瞬間に彼女の幻を見ることがありました。
――私を見捨てるの?
そんな声が聞こえてくるような気もしました。
――私はスパイなんかじゃない。何も悪いことなんてしてないのに。
リナリーはもちろん間者ではありません。疑いをかけられているあの少女は、リナリーとは別人なのです。
――トウリ
別人だと、赤の他人だと、頭ではわかっていても。
やはり、このまま見過ごすことなどできない――そう思い知るのに、長い時間は必要ありませんでした。
そもそも私は、あの少女が間者である、という話に懐疑的でした。
ほんの一瞬、衛生部で見ただけですが。
私には、悲惨な体験をして傷ついている、ただの一般人にしか見えなかったのです。
あの少女を保護したのは南軍の部隊。取り調べもそちらで行われるとヴェルディさんは言っていました。
つまり、彼女を助けるためには南軍の兵士、それも位階の高い人間に頼むしかありません。
そんな心当たりは、1人しか居ませんでした。
かくて、初めて少女を見掛けた日から3日後。
その日の訓練を終えた私は、南軍で唯一、個人的な話ができそうな相手のもとを訪ねたのです。
「お会いになれないそうです」
しかし私のアポなし訪問は、眼鏡の副官に阻まれてしまいました。
「ベルン様はご多忙の身です。面会の際は、必ず事前の申請を、できれば数日の猶予をもって」
言われてみれば当然の話でした。
これまで何度も気安く呼び出されたせいで、感覚がマヒしていましたが……。
本来、あの男は私よりずっと
「申し訳ありません! 大変失礼しました!」
すぐに謝罪して立ち去ろうとすると、程なく、足音が追いかけてきました。
「お待ちください、トウリ・ロウ少尉」
追ってきたのは、あの眼鏡の副官でした。
「10分だけなら時間をとれるそうです」
「え」
「どうか、お戻りを」
口調は丁寧ですが、その目は冷たく私を見すえていました。「非常識で図々しい小娘」と思われているのがはっきり伝わってきます。
気分は針のむしろでしたが、今更「結構です」とも言えず、私は彼の後についてベルンのテントに戻りました。
ベルンは机に向かって書類仕事をしていました。
会うのは、何日か前に彼の仕事を手伝わされて以来ですが。
その時よりさらに目の下のクマが濃く、顔色も悪くなっているように見えました。
「何の用だ」
机に向かったまま、顔を上げることもせず、彼は聞いてきました。
「どうした。なぜ黙っている」
「……あの」
用件を切り出さなくては、と頭ではわかるのに、言葉が出てきません。
私はいったい何を考えていたのでしょうか。
ベルンはヴェルディさんとは違います。多忙な折に個人的な相談を持ちかけられるほど、それを許してもらえるほど親しい間柄ではないのに。
「その……」
「何だ。今日はやけにしおらしいじゃないか」
私が言葉をつまらせていると、ベルンは舌打ちしてペンを投げ捨て、テントの外に声をかけました。
「茶を淹れてくれ。休憩にする」
間もなく、2人分の蒲公英茶が運ばれてきました。
「座れ。いつまで突っ立ってる気だ」
口調は荒いですが、声はそこまでキツくもありません。むしろ、この話し方が彼の「素」なんでしょうね。
「……失礼します」
向かい合って席につき、蒲公英茶に口をつけながら、私はちらりとベルンの様子を
彼は黙って蒲公英茶を飲んでいます。
笑いもせず、ふざけもせず、いつもうるさいほどよくしゃべる口を閉じたまま。
生来の目付きの悪さ、もとい鋭さも、疲労のせいか今はあまり感じられず。
そうしていると、何やら別人のようにも見えてくるのが不思議です。
「おい。いつまで
ふいにベルンが口をひらきました。
「何の用だか知らんが、付き合えるのはこれを飲み終わるまでだぞ」
私は慌てて蒲公英茶の入ったカップをテーブルに置きました。
「
そうして私は、本題を切り出したのですが――。
「ああ、あのスパイか」
ベルンはあの少女のことを間者だと決めつけていました。何か根拠があるのかと聞いても、
「ハッ。んなもん、見ればわかる」
「…………」
「あれは恨みの目だった。憎しみの目だった。自分から全てを奪った奴らに、何が何でも復讐してやるって目をしてた」
「…………」
「訓練を積んだ兵士じゃない。それならもっとうまく本心を隠せる。あれは一般人。それもオースティンに深い恨みを持ってる奴だ」
……なるほど。
サバトやフラメールで民間人を虐殺したベルンは、そういう「恨みの目」を山ほど見てきたのでしょうね。
なぜかついさっきまで忘れていたこの男への嫌悪感が、再び強く胸にわきました。
「敵を引き入れる役目か、諜報員か……。まあ、それは本人に聞いてみればわかることだ」
それはあの少女に尋問を行う、という意味ですよね。
仮に敵国に通じているのだとしても、まだ年端もいかない民間人の少女から、この男は情報を引き出す気でいるのです。
そして私には、それを止めるすべがありません。
彼女が間者だなんて思えないと、この場でいくら主張したところで無意味です。
私にできることがあるとしたら。
あの少女のために、何かしたいのなら。
傍観者ではなく当事者として、この件に関わりを持つ必要がありました。
「ベルン・ヴァロウ少佐。お願いがあります」
「あ?」
「そのお役目を、私に任せてはいただけませんか?」
「はあ?」
「自分は、他人の嘘がなんとなくわかるので……」
「……ああ。そういや、前にそんなこと言ってやがったな」
ベルンは冷ややかに私を見返して、
「そのわりに、新兵ごときにあっさり騙されて捕まってなかったか」
と、耳に痛い指摘をしてきました。
あれは、その。
端的に言って油断していたと申しますか、相手が素朴な顔の新兵だったからこそ、害意を見抜けなかったと言いますか……。
「そんな見た目に惑わされまくりの嘘発見器が役に立つのか?」
「…………」
「何だ、同情か? あんな小娘が尋問されるのは可哀想だって?」
あいかわらず良い子ちゃんで居たいんだな、と馬鹿にしたように笑われて。
「……そう思ってはいけないのですか」
と私は言い返しました。
「あのような年端もいかぬ少女を尋問するのが、軍の仕事なのですか?」
非難を込めた私の物言いに、ベルンは怒るでもなく、
「そうだけど?」
と答えて、軽く首をひねりました。
「諜報部がどんな仕事してるか、おまえ知らねえの?」
「……不勉強で申し訳ありません」
「あー、そっか。おまえ女だし、見た目はガキみたいだし。……何だかんだで大事にされてきたんだな。汚れ仕事のたぐいなんて、見たこともないか」
ベルンが何を言おうとしているのか、この時の私には理解できませんでした。
「……何を仰りたいのですか」
そう尋ねますと、ベルンは一見関係ないことを口にしました。
「おまえって、酒保とかよく行く方?」
酒保。
それは外部の商人が兵士たち相手に、さまざまな品物を売りに来る施設です。
酒、煙草、菓子など。かつては珍しい嗜好品も手に入りました。
ただ、ここ数年のオースティンは極端な物不足に陥っていますので、酒保で取り扱われる商品もその数を大きく減らしています。
今現在、メインとなっているのは性風俗です。
本職の娼婦や、暮らしに窮した戦争未亡人が体を売る場所。
そんな酒保の話題を、一応は女性である私に振ってくるのは、何か良からぬ意図があるのではないかと、目を尖らせていると。
「南部戦線に居た頃、俺は事務方の手伝い――まあ、平たくいえば雑用係みたいな仕事をさせられてたんだが」
ベルンは、世間話のような軽い口調で。
「その時、諜報部の助っ人に駆り出されてな。酒保の娼婦をまとめてしょっ引いたことがある」
私の知らない、それまで想像したこともない、「軍の汚れ仕事」の話をしたのです。
「ああいう場所では、男は口が軽くなるもんだろ。軍の機密レベルの情報を、ぽろっともらしちまうような馬鹿も居る。間者にしてみれば狙い目なんだよ。体を売るのに、許可証やら身分証明書なんていらねえし」
その時、逮捕された娼婦たちの中にも、確かに敵国の――この場合はサバトの間者がまぎれていたそうです。
しかし全員がそうだったわけではありません。
その娼婦のフリをしていた間者と個人的に親しかったとか、あるいは単に外国籍だったとか、そんな理由で逮捕された人も居て。
軍の取り調べは、何の罪もない彼女たちに対しても容赦なく行われ――。
「少佐殿! もう結構です」
ベルンがどんな「手伝い」をしたのか。
娼婦たちにどのような「取り調べ」が為されたのか。
具体的な話が出てきたところで、私はそのあまりの非道さ、残酷さに白旗を上げました。
「それ以上はどうか、ご容赦ください……」
完全に血の気が引いていただろう私の顔を見ても、ベルンの顔色は変わらず。
「ま、要するに。軍隊ってのは、元々そういう場所だってことだ」
あくまで軽い調子で、話を結びました。
「相手が女だろうが、子供だろうが。そんな理由で手心を加えることはない」
「…………」
「逆にいえば、そういう理由で手加減しちまう奴に、その手の仕事は無理ってことだな」
「…………」
「で? 今の話を聞いてもまだ、おまえはあの小娘に関わる気でいるのか?」
ようやく、話がそこに戻ってきました。
「私は――」
諜報分野に関しては、確かに全くの素人です。
どんな理由であれ、女子供への暴力が正当化されるべきとも思いません。
ベルンが言うところの「手加減しちまう奴」、つまりはそうした仕事では役に立たない人間、ということになりますが。
「あの少女が間者である、とは思えません」
「根拠は?」
「それは……。現時点では、具体的な根拠はありません。ただ直感的にそう思った、としか」
「話にならねえな」
「……恐れながら、少佐殿の仰る『オースティンへの恨み』というのも、客観性のある根拠とは言い難いのでは」
「ここで俺に文句つける? 良い度胸してやがんな、おまえ」
ベルンが席を立ちました。
蒲公英茶のカップはとっくに空になっています。
約束の10分どころか30分は優に過ぎていますが、いまだ「出て行け」とは言い出しません。
ゆっくりと私に近づいてくると、乱暴に肩をつかんで、ずいと顔同士を近づけ、
「そこまで言うからには、覚悟はできてるんだろうな?」
「……覚悟、とは」
「おまえの望み通り、あの小娘から話を聞き出す役目を任せてやったとして」
もしも、それを果たせなかったら、何の役にも立てなかったらどうする気かと。
明らかに脅しのこもった口調で問われて、私は臆さず言い返しました。
「その時は、少佐殿のお好きなように」
「ほう」
「貞操と婚姻以外のことでしたら、何でも従います」
「言いやがったな」
ベルンは舌なめずりしそうな表情になりました。
多分、失敗したら有無を言わさず部下にされる流れですね、これ。
「ですが、逆に。私がこのお役目を無事に果たせた時には、何かご褒美をいただけますか?」
一方的に条件を飲むわけには参りません。不利を承知で、私は取引を持ちかけました。
考えていたのは、少女の助命です。
仮にスパイ疑惑が事実なら、どう転んでも命はありません。また、事実ではなかったとしても、軍の手にかかって尋問など受けたら、あの少女の心は壊されてしまうかもしれません。
助ける方法があるとしたら、ある程度、権力を持っている人間の裁量に
あの恋に狂ったアダー少尉が大した罰も受けずに除隊したように、地位と権力さえあれば、多少のルール違反はできてしまうのですから。
「ご褒美、ね。また随分と図々しい申し出だな」
管轄外の仕事に首を突っ込ませてくれ、と頼んでいるのはこちらの方ですからね。普通はそれ以上の要求なんてできません。
「……ま、いいか。おまえが俺の役に立つ情報を取ってきたら、その時は何か考えてやる」
「お願いします」
ただし、とベルンは続けました。
「期限は3日だ」
「3日……」
「ああ。俺は優しい上官だろう? 『3日も』時間をくれてやるんだからな」
「…………」
「手はずは整えてやる。……ちと面倒だが、レンヴェル派への口利きもしてやる。その代わり、必ず使える情報を聞き出せ。わかったな」
淡々と、簡単な事務仕事でも任せるように命じられて。
私は、今更ながらプレッシャーを感じていました。
我ながら、とんでもないことに首を突っ込んでしまったのではないかと――気づいた時には、後の祭りでした。