拘束を解かれた私は、すぐには動けませんでした。
作戦がうまくいったと、勝ち誇る気にもなれません。ずっと虚勢を張っていましたが、仮にも実の兄を名乗る人からの仕打ちに、これでも結構、傷ついていたのです。
「どうして、このようなことをなさるのですか……」
横になったまま、震える声で、私はベルンに問いました。
「私は、ただ、あなたと、話がしたかった、だけなのに」
返事はありませんでした。
ベルンは不機嫌そうな顔でそっぽを向いているだけです。その姿を見ていたら、何だかひどく悲しくなってきて。
「……ひっく……」
私は泣き出しました。両手で顔を覆って、えぐえぐと泣きじゃくりました。
それよりも逃げるべきだと頭ではわかるのに、感情のコントロールが利きません。
まるで小さな子供に戻ったみたいに、泣いて、ぐずって。
「……おい、いいかげんにしろ」
やがて聞こえた声に、私は「おや?」と思いました。何だか困っているような、途方に暮れたような声だったからです。
両手の間からそっとのぞき見ると、ベルンもこっちを見ていました。気のせいでなければ、とてもバツの悪そうな顔をして。
そういえば、と私は思い出しました。
しばらく前、私が取り乱して大泣きした時にも、彼がこんな顔をしていたことを。
……もしかして。
妹に泣かれると弱いんでしょうか、この男。
自分が優位に立てるかもしれないひらめきを得た私は、涙をふきながら、ゆっくりと身を起こしました。
そして寝台の隅に腰掛けると、少し距離を置いてベルンの顔を見つめたのです。
「……何だよ、その目」
「少佐殿はもしや、シスコンでいらっしゃるのですか?」
「はあ?」
「えーと、つまり。一部界隈の言語で、妹が可愛くて可愛くて仕方ない人のことを指すのですが」
ベルンは「どこの界隈だよ」と眉をひそめた後で、
「俺が、おまえが可愛くて仕方ない? 馬鹿言ってんじゃねえよ」
と毒づきました。
「では、別に可愛くはないが、泣かれると弱い?」
「誰が」
「ですが先程、手を出そうとしてやめたのはそういうことですよね?」
「……!」
「なるほど。これは良いことを知りました」
自分と彼の立場は対等ではありません。切り札とまでは言えずとも、交渉のカードになりそうな話を聞けたのは、実に
「……おまえ、さっきから何をごちゃごちゃ言ってんだ?」
ここまでされて、なぜ逃げないのか。また襲われたらどうするつもりかと彼は聞いてきましたが、
「その時はまた『お兄ちゃん作戦』を実行するまでです」
そう答えると、ものすごく嫌そうな顔をされました。
「嫌なら、ちゃんと答えてください」
「…………」
「自分の要求に応えてください、ベルン少佐」
「…………」
強気を装いつつ、私は内心ヒヤヒヤしていました。
あまり怒らせるのは、どう考えても得策とは言えません。
再び危害を加えようとしてくるかもしれませんし、そもそも彼は上官ですから、適当な理由をつけて私を処分することだって不可能というわけではないのです。
実際、ベルンはかなりイラだっているように見えました。
天井の方をにらんで、またせわしなく思考を巡らせているようでしたが、それはつまり、彼が迷っていたということで――。
私にとって良くない結論を出すことも、十分ありえたのです。
それでも、このまま引き下がるのは嫌でした。たとえ身の危険があっても、この時の私は真実が知りたかった。
じっとその横顔をにらんでいると、やがて彼は感情を抑えた声で言いました。
「おまえが『トウリ』になった理由は俺も知らない」
一瞬考えて、それが先程、私が口にした質問の答えだと気づきました。
つまり私は、賭けに勝ったのだと――。
「さすがに、知ってたら再会した時に気づくっての。大方、おまえの育ての親の、院長辺りがつけたんじゃないか」
喜ぶのはまだ早いですね。その言葉に嘘がないか、ごまかしがないかを確かめながら、私は慎重に会話を試みました。
「なぜ、院長先生はそんなことを――」
「さあ?」
「何か、理由があってのことなのでしょうか……?」
「しらね」
「あなたは、ノエル孤児院の先生方に会ったことは?」
「ない」
露骨に非協力的な受け答え。今のところ嘘はないようですが、全然、まともに答える気がありませんね。
「わかりました。では、その件については一旦置いておきましょう」
「おお」
「先に、もうひとつの質問の答えを聞かせてください」
「何だっけ?」
「少佐殿が――まだほんの子供だったあなたが、孤児院に残らなかった理由の方です」
「……はあ」
わざとらしいため息をついて、ベルンは「うんざり」という表情を浮かべて見せました。
「さっき言った通りだよ。おまえが邪魔だった、足手まといだった」
私が反論しかけるのを遮って、
「おまえは嘘だって決めつけるけどな。俺がおまえを捨てたことに、やむにやまれぬ事情なんて都合のいいもんはない」
「……っ!」
「何だよ、その顔。言っとくが、俺は悪かったなんて思ってねえからな! こっちもガキだったんだ。おまえと俺が2人そろって生きのびるのに、あれが唯一の正しい方法だった――とまでは言わないが――」
急に、ベルンの語気が落ちました。彼は実際に過去を振り返るような表情になって、
「あの時、あの状況で、選びうる最適解には近かった。……多分、そうだと思う」
そんな風に話を結んで、しばらくの間、ぼんやりと宙を眺めていました。
回りくどくてわかりにくい彼の話を、自分なりに要約すると。
「……つまり、好きで私を置いていったわけじゃない。でも、あの時は他にどうしようもなかったと、そういう意味でしょうか」
ベルンはあきれ顔になりました。
「人の話、聞いてたか? おまえが足手まといだった、ってはっきり言ったろ?」
「ですが、『足手まといだから捨てた』わけではないのですよね。『互いが生きのびるために必要だったから捨てた』と、そう聞こえましたが」
「!」
「一般的には、それを『やむにやまれぬ事情』と呼ぶのではないでしょうか。少なくとも自分は、そのように解釈します」
「……勝手にしろ」
ベルンはまた不機嫌そうな顔でそっぽを向いてしまいました。
何と言いますか。この男は本当に、芯から歪んでいるのですね。何か事情があったなら、あったと言えばいいものを。
「わかりました。そういうことなら、この件はここまでに致しましょう」
「……もう、いいのか」
「はい。これ以上は聞いても無駄のようですし、また機会を見て追及することにします」
「あきらめたんじゃねえのかよ」
「はい。あまりお邪魔をしても悪いですし、話の続きは――」
そこで1度言葉を切って、私はひたとベルンの顔を見つめました。
「少佐殿が、戦地から無事、お戻りになった時にでも」
*****
人の記憶というのは、不思議なものだと思います。
彼と再会し、
父と母については、顔は思い出せないまでも、「そういう人たちが自分にも居た」という認識はあったのに。……考えてみれば、奇妙な話でした。
それは、幼い子供にとって、両親の存在が世界の中心だから。対して兄弟の存在はそこまで重要ではないから、という見方もできるでしょう。
けれど、重たい記憶のふたをいざ開けてみれば、幼い日の私の思い出の中には、いつも意地悪そうな赤毛の少年が――兄が、居るのです。
両親が畑仕事をしている間、私のことを見ていてくれたのも、家まで連れ帰ってくれたのも、寝かしつけてくれたのも兄でした。
お母さんのことは、おぼろげに優しかった記憶がありますけど。
お父さんのことは、「たまに大きな声を出す怖い人」というくらいの印象しかありません。
多分、あの頃、私の小さな世界の中心に居たのは、父でも母でもなく、兄だったのです。
だからこそ、置いて行かれた事実がショックで、受け入れ難かったのでしょう。
悲しくて、つらくて、どうしようもなかったから、幼い私は、彼の記憶だけを切り離して凍らせてしまった。
人の記憶というのは、時にそういうことがあると言います。
悲しい出来事に耐えるため、心が壊れてしまわないように、つらい記憶だけを分離する。
ですがその記憶は、凍らせただけで、消し去ってしまったわけではないので。
何かの弾みで、ふいに蘇ってくることもあるのです。前世の知識では、これをフラッシュバック現象と呼びます。
過去の夢を見るのもその一種です。寝ている間に起きるフラッシュバック現象が、過去の夢なのです。
そしてその記憶は、なまじ凍らせていたがために、他の記憶よりも強い鮮度を保っていることがあります。
要は、個別に冷凍保存されていたようなものなので。
遠い過去のことであるのに、日々の些細な記憶に埋もれてしまうことなく、鮮明に覚えているのです。
記憶の中の兄は、「ベルン・ヴァロウ」によく似た少年でした。
成長して、さすがに顔立ちは多少変わっていますけど、怒った時のふてくされたような表情とか、私をいじって遊ぶ時の面白そうな顔などはかなり印象がかぶります。
変わったのは、顔立ちよりもむしろ目付きです。
私の兄は、生まれつき目付きが悪かったですが、それでもちゃんと血が通った人間の目をしていました。
あんな真っ暗で、無機質で、端的に言って怖いまなざしはしていなかったはずです。
別れてから再会するまで、およそ12年。
記憶が戻るまでを含めれば、15年近い空白の時。
その間、彼は何を思いながら、どのように生きていたのでしょうか。
故郷が焼かれた時には10歳足らず。それから軍で働くようになるまで、どんなに少なく見積もっても4、5年は1人で生きていた計算になります。
それがたやすいことでないのは、私にだって想像がつきます。
本人が「苦労した」と表現したように、過酷な経験をしたのでしょうか。それこそ、人格が歪むくらいの何かがあったのでしょうか。
もう1度、2人で話すことができたなら、その辺りのことも聞いてみたい気がします。
翌日、出陣式の折。
ベルンの姿を遠目に見ながら、私はそんなことを考えておりました。
ずらりと整列したオースティンの兵士たちを前に、先程まではアンリ大佐が、今はレンヴェル中佐が話をしています。
国のために粉骨砕身戦うべしとか、オースティンの誇りを見せてやれとか、だいたいお決まりのセリフですが、レンヴェル中佐はいかにも歴戦の老将といった貫禄があるので、非常にサマになっていました。
さすが、司令官の1人ですね。兵士を鼓舞する力強い声に、ぴりりとした程よい緊張感が満ちていくのがわかります。
そんな中、ベルンは話を聞いているのかいないのか、少し退屈そうな顔であさっての方を見ていました。
彼が立っているのは、レンヴェルさんの斜め後方です。少し離れた所には、ヴェルディさんの姿もあります。
壇上に並んでいるのは、全員が軍の幹部で――。
と、その時。
誰かが私の肩を小突きました。
「見過ぎだ」
小声でささやいてきたのはガヴェル曹長でした。
「さすがに、周りの奴らに変に思われるぞ」
私は慌てて視線の向きを変え、レンヴェル中佐の話に集中している顔を作りました。
トウリ遊撃中隊は今回の遠征には参加しませんが、なぜか壇上に近い場所に整列することを許されていました。
ガヴェル曹長がレンヴェル中佐のお孫さんだからなのか、たまたまそうなっただけなのかはわかりません。
やがてレンヴェル中佐が「我らに勝利を!」と高らかに叫び、兵士たちも歓声を上げました。
それで出陣式は終わりかと思いきや、なぜかレンヴェル中佐は斜め後方を――ベルンが立っている方を振り向いて、
「参謀長官、何かあるか」
「俺ですか?」
「そうだ。我が軍の命運がかかった一戦だ。作戦立案者として、兵たちに一言あるべきだろう」
「そういうのは俺の仕事じゃな……。まあ、お望みとあらば、別にいいですけど」
……何でしょう、この会話の流れ。
まさか、アドリブじゃないですよね。ちゃんと事前の打ち合わせとかしてるんですよね?
仮に前者だとしたら、これだけの数の兵士たちの前でいきなり話せ、というのは結構な無茶ぶりですが……。
ああ、でも。ヴェルディさんの「信じられない」という顔。アンリ大佐の「これは面白いことになった」と言いたげな顔は。
やはり、ぶっつけ本番なんでしょうか。……さすがに、ちょっとひどい気がします、レンヴェルさん。
ベルンはレンヴェルさんと入れ替わる形で前に出ました。
兵士たちの方も、先程までとは少し空気が変わっています。
南軍の兵士たちは、ほとんどが英雄への崇敬がこもったまなざしを向けていますが……。
中央軍の兵士たちの反応はさまざまで、中には露骨に敵意を浮かべている者、お手並み拝見といった顔をしている者も居ました。
「んー……」
ベルンは軽く宙を見上げて、言葉を探しているように見えました。
なかなか口をひらこうとしないので、私は緊張で心臓が痛くなってきました。
どうして、私がこんな気持ちにならなくてはいけないのでしょうか。理不尽なプレッシャーに
「まあ、あれだ。ここに居る連中ならとっくに承知のことだろうが」
ようやくベルンが話し始めて、ホッとしたのもつかの間。
「オースティンは今、
ざわっと空気が揺れました。
「金はない、物資もない、生産力もない。人も、ここに居る兵士がほぼ全戦力だ。つまりは、負けたら後がない。勝つか、国として滅びるか。そういう崖っぷちだ」
壇上の幹部たちが目を剥いています。
それは確かに、オースティン軍部では誰もが知っている事実でしたが、あまりにも飾らない、事実そのままの言葉でした。
さらにベルンの話は、そこで終わらず。
「今のところは有利に戦ってるけどな。向こうに時間稼ぎでもされたら、途端にキツくなる。何せこっちには後詰めは居ないし、援軍が来るアテもないし、くどいようだが物資もないからな」
ざわ、ざわ、ざわ。
ざわめく兵士たちに、ベルンはにんまり笑いかけて。
「だが、心配するな。それでも勝てる策を俺が考えてやった。ないない尽くしのオースティンでも戦える、かつ『人道にも配慮した』必勝の策だ。何せ、かの軍神レンヴェル殿ですら、これしかないと認めたほどだからな!」
その言葉には、主に中央軍の兵士たちがどよめきました。
当のレンヴェルさんは、真っ赤な顔をしてベルンをにらんでいます。
否定しないということは、嘘ではないのでしょうね。
ヴェルディさんが心配そうに2人を見比べています。アンリ大佐はおそらく、笑いをこらえています。
「……まあ、そうは言ってもだ。実際にその策を実行するのは兵士たちだ。俺は勝てるお膳立てをしてやっただけ。この戦争の勝敗は、結局のところ諸君らの働きにかかっている」
ベルンはそこでわざとらしく兵たちを見回して、
「おまえら当然、フラメールが憎いだろう? 俺たちが10年、サバトと戦って、ようやく光明が見えたところに背後から攻め込んできやがった。おかげで死ななくてもいい奴が山ほど死んだ! その中にはおまえらの顔見知りだって居ただろう?」
いくつもの顔が、私の胸をよぎりました。
真っ先に浮かんだのは、ロドリーくんとリナリーの顔です。2人の故郷であるドクポリは、フラメールとの国境近くにあったために焼かれてしまったのです。
アリアさんの顔も思い浮かびました。
サバトとの決戦で犠牲になった彼女は、フラメールとエイリスの電撃参戦がなかったら、あんな無茶な特攻作戦を仕掛ける必要はなかったと思います。
ここに居る兵士たちも、誰もが「思い浮かぶ顔」を持っているのでしょう。
怒りが、憎しみがふくれ上がりました。それは所属する部隊や階級に関わらず。
「報いを受けさせてやれよ。遠慮はいらん、ケンカを売ってきたのは向こうの方だ。大義もない、誇りもない、恥知らずの火事場泥棒どもだ。騎士の国が聞いてあきれる――」
そうだそうだと声が上がりました。多くの兵士たちが復讐を叫んでいます。
「長かった戦いにケリをつけるには、ここが正念場だ。オースティンに平和と安寧を取り戻す、そのために――どうか、諸君らの力を貸してほしい」
最後にベルンはそう言って、居並ぶ兵士たちに頭を下げたのです。
ほんの一瞬、間があって、それから地鳴りのような歓声が沸き起こりました。
数万を超える兵士たちの雄叫びは、物理的な圧力さえも伴って大地を揺らしたのです。