自分の部隊に戻った私は、すぐに装備を点検し、出発の準備を始めました。
わかっています。これは明らかな軍令違反だと。
この状況では敵前逃亡とも見なされかねず、最悪、銃殺刑の可能性すらあるでしょう。
ですが私は、笑っていました。あまりに
――私は馬鹿ですね。
今の今まで、思い込んでいました。あのベルン・ヴァロウが負けるはずがない、死ぬはずがないと。
あの人は怪物でも悪魔でもありません。……私の血を分けた兄です。つまりは、人間なんです。
不死身の人間なんてこの世に居るはずがないのに、どうして「その可能性」を考えずにいられたのでしょうか。
これまで何度も、誰かを失ってきたように。
あの人を失う可能性だって、普通にあるのだということを。
今頃になって自覚して、今更こんなに――怖くなるだなんて。あまりに馬鹿すぎます。
装備を背負って、出発しようとした時。
「おい、何やってるんだ」
立ちはだかったのはガヴェル曹長でした。
彼は今まで見たことがないほど険しい顔をして、「おまえ、何する気だ」と私に聞いてきました。
「どいてください」
私は、彼に、小銃を向けました。
「……正気か」
「そんなわけがないでしょう」
ずっと私を助けてくれた、優しく頼もしい副長の彼に銃を向けるだなんて、明らかに狂っています。
「ですが今、私が行けば――まだベルン少佐を助けられるかもしれないのです」
あの人はオースティンに必要な人です。私のこの行動は軍令違反ですが、成功すれば確実に軍のためになります。
「どうか行かせてください。私を信じてください。必ず、あの人を連れ帰って見せますから――」
「自分は処罰されても?」
だから何ですか。私の処分なんて、オースティンの命運に比べたら軽いものでしょうに。
ガヴェル曹長は「はあ」とため息をついて無造作に歩み寄ってきました。
とっさに銃を構えた私でしたが、
「あのな。ここで俺を撃ち殺したって意味ねえだろ。近くにはメイヴもナウマンも居る。すぐに取り押さえられて終わりだ。それとも、あいつら全員と撃ち合って勝つ自信あんの?」
「うっ……」
「あと、おまえ。道とかわかってんのか。まだ嵐がおさまってねえみたいだけど、装備は? そんな貧弱な格好じゃ、ベルン少佐を見つける前に遭難して終わりだよ」
「ううっ……」
ガヴェル曹長は、ぽん、と私の肩に手を置いて、とりあえず落ち着くようにと言いました。
「おまえ、今。あの時と同じ顔してる」
「あの、時?」
「おまえの身内の、通信兵が敵に殺された時。急に別人になったみたいに笑い出して、敵を
「…………」
ぽん、ぽん。
ガヴェル曹長の手が、なだめるように2度、私の肩を叩きました。
「待ってろ。この辺の地理にくわしい奴、探して来てやるから」
私はあっけにとられました。
それはつまり、自分に協力してくれるという意味なのでは?
「今のおまえなら、何かやれるんじゃないか。多少の無茶もやり遂げて見せるんじゃないか、って気がするからな」
ただし、1人では無理だ。だから自分が協力するのだと彼は言いました。
「どうして……」
「いや、どうしてって」
ガヴェル曹長は、そこで物わかりの悪い子供を見るような目になって、
「おまえが俺の、たった1人の隊長殿だからに決まってるだろ」
*****
ガヴェル曹長の助けで、私は無事、オースティンの陣地を抜け出すことができました。
時刻は既に夜です。雨はだいぶ小降りになっていましたが、あいかわらず風が強く吹いています。
私たちを案内してくれたのは、ガヴェル曹長が連れてきた南軍の兵士でした。
陣地を出て、小さな沢沿いに山を下り、やがて細い丸木橋がかかっている場所まで来て、私たちは足を止めました。
「ここを渡って、しばらく沢に沿って進めば、友軍が奇襲を受けた場所になります」
「……ありがとうございました」
彼も、この件に関わったことがバレたら処罰を受けるでしょうに。ここまで協力してくれたことには感謝しかありません。
「いえ、ベルン少佐殿をお願い致します」
あの方はオースティンの希望です、とまっすぐで澄んだ目をして、その兵士は言いました。
南軍にはベルンの信奉者も多いのですよね。
あの男が参謀として働き始めて以来、南軍はほぼ負け知らずでしたから、無理もないと思います。……まあ、希望なんて美しい言葉は全く似合いませんけども。
「本当に、1人で行くんだな」
「ええ。その方が目立ちませんし」
こんな軍令違反に、部下を付き合わせることなどできません。
そもそも、私の目的は敵と戦うことではありません。
この森のどこかに潜んでいるかもしれない、あるいは傷ついて動けなくなっているかもしれないベルンを見つけ出し、治療して連れ帰ることです。
「本当にありがとうございます、ガヴェル曹長」
「礼はいい。それより、必ず生きて戻れよ」
ガヴェル曹長と案内の兵士に見送られ、私は夜の森に1人、踏み出しました。
敵に見つかる危険があるとはいえ、足場の悪い山中です。さすがに、明かりなしでは動けません。
ギリギリまでライトの光量を絞り、慎重に、しかし可能な限り速く、私は移動しました。
いつ敵と遭遇するかわからない、そんな緊張と、恐怖と、焦燥と。
凄まじいプレッシャーの中で、私が考えていたことはたったひとつでした。
――絶対に、あの人を死なせない。
まだちゃんと聞いていないことだってあるのです。
ベルンが私を置いて行った本当の理由はもちろん、私がほとんど覚えていない両親のことだって、あの人はきっと知っているのでしょう。
なのに、何も語らないまま逝くなんて。
「絶対に、許しませんからね……」
また私を置いて行こうだなんて、それだけは何があってもさせません。
沢を下りきると、ひらけた場所に出ました。
そこは山間の盆地で、おそらくオースティン軍が布陣していた場所なのでしょう。
テントの残骸や、壊れた銃、軍帽――そして無数の屍が辺りに散乱していました。
血の匂いというのはかなり鼻につくので、普通はここまで接近する前に気づくのですが。
嵐と風向きのせいで、私は心の準備をする暇もなく、地獄に踏み込んでしまいました。
「うっ……!」
遺体を見るのは慣れていますが、不意打ちだとさすがに動揺します。
その数は、どんなに少なく見積もっても千を超えているでしょう。
敵も、味方も、折り重なるように。
いったいどれほど凄惨な殺し合いがここで起きたのか。こみ上げる吐き気をこらえながら、私は地図を取り出し、状況を確認しました。
敵が奇襲をかけてきた方角と、自軍の位置関係。
ここから退却したとしたら――と実際に自分がその場に居たつもりになってシミュレートしつつ、移動を開始します。
途中の道にもやはり、遺体が転々としていました。
普通の兵士だけでなく、明らかに位階の高そうな
何度か敵らしき兵士とも遭遇し、そのたびに私は木陰に身をひそめました。
彼らはフラメール語で何か言い合っていました。
見掛けた部隊はどれも4、5人ほどで、ほとんどが民兵でしょう。中には粗末な槍や棒きれで武装しているだけの兵士も居ました。
小1時間ほどかけて山を登り、また地図と地形を確認し、どちらへ進むか、私は考えました。
この場所から、逃げ道として選択できそうなルートは複数あります。
その中で彼が向かいそうなのは――。
と、その時。
ほんの一瞬でしたが、雲の隙間から月明かりが差して。
視界の端にうつったものに、私はぎくりとしました。
それは死体でした。軍服から味方だとわかります。手足を投げ出し、地面にうつ伏せになって倒れています。
顔が見えないのに、明らかに事切れているとわかるのは、その兵士が頭を撃たれていたからで。
「あ」
飛び散った血と脳漿が、兵士の
「あ、あ、あ」
嘘ですよね。嘘でしょう。そんなわけがない。
その兵士の腕には階級章が。少佐の地位を示すそれがありました。
なぜか引きちぎられたドッグタグが、無造作に地面に転がっていて。
拾い上げてみると、そこにはあの男の名前が確かに刻まれていました。……が。
「違う……?」
よく見れば、それは別人でした。
体格も少し違いましたし、勇気を振り絞って確かめてみれば、顔も違います。ベルンより4、5歳は年上の兵士でした。
「…………」
この兵士は誰でしょう。
いえ、それよりも。なぜここにベルンのドッグタグがあって、彼と同じ赤髪の兵士が、少佐の階級章をつけて事切れているのでしょうか。
「…………」
私が敵の立場であったなら。
幸運な奇襲を成功させ、敵の司令部を叩くことができたなら。
敵将アンリはもちろん、「オースティンの悪魔」ことベルン・ヴァロウの生死は、なんとしてでも確認したいところだと思います。
とはいえ、敵兵のほとんどはあの男の顔など知らないでしょう。
この世界、写真は一応ありますけど、写りは
私がかつて生きていた世界とは、情報量が違います。
そうした前提を踏まえた上で。
もしもベルン・ヴァロウ「かもしれない」遺体があったなら、敵は当然確認しますよね。
多少の時間稼ぎにはなりますし、うまくすれば敵を騙せます。
つまり、この兵士は、たまたま身代わりに使えそうな遺体を見つけたベルンの小細工なのでは。
それは取りも直さず、あの男がこの場所を通ったことを意味します。それもそう遠くない時間に。
逃げる方向を予想し、あの男が「満身創痍だった」というアンリ大佐の話から、そう遠くへは行けないはずだと当たりをつけて――。
希望は、人に気力を与えてくれる一方、人を油断へと誘うこともあります。
出発してから数時間、雨風に体力を奪われ、疲労はかなり蓄積していました。
視野は狭まり、集中力も落ちていたのだと思います。
「止まれ」
その声を耳が拾ったのと同時、こめかみに銃が突きつけられました。
「答えろ。おまえは敵か、味方か?」
その銃は、私がたった今通り過ぎようとした茂みの中から突き出されていました。
「あ……」
つめていた息を全て吐き出すようにして、
「ベルン少佐殿、ですか……?」
私は聞き覚えのあるその声の主に向かって、言葉をかけたのです。