悪魔を愛した少女の日記【完結】   作:結寄

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 30話と31話はベルン視点の間話です。
 時系列的には、3章19話と20話の間くらいの話になります。



間章 彼が悪魔になった日
30話


「……っ!!」

 

 悪夢にうなされ、目を覚ます。

 視界にうつったのは、闇。少し目が慣れると、そこが自分専用のテントの中だとわかった。

 ハァ、とため息にも似た吐息をもらし、立ち上がる。

 枕元に常備してある水を一口飲んで、乱れた呼吸が治まるのを待ってから、彼はゆっくりとベッドに腰を下ろした。

 

 久しぶりに、あの日の夢を見た。

 彼の人生が一変した日。オースティンに侵入してきたサバトの工作兵に故郷を焼かれ、全てを奪われた日の夢を。

 

 ――およそ15年前。

 

 当時の彼は、ごく普通の村人だった。

 家族は4人。二親(ふたおや)と彼と3歳の妹。両親は小さな畑を耕し、生計を立てていた。

 

 父親は元は小金持ちだったらしいが、酒に溺れてろくに働きもしなかったせいで、生活は苦しかった。

 学もない農夫だ。生活の楽しみもなく、夢や未来への希望もなく――この先もずっと続いていくだろう代わり映えのない日々に辟易(へきえき)していたらしい。

 その「代わり映えのない日々」が、ある日突然、終わりを迎えるなどとは夢にも思わずに。

 

 あの日も、朝から一家で畑に出ていた。

 

 村はずれの小さな畑だ。近くには森があり、小さな川があった。その川に沿うように、細い道がのびていた。

 

 まだ働くことができない幼い妹は、森のそばの花畑でのん気に遊んでいた。

 妹がどこかに行ってしまわないよう、見張っておくのは彼の役目だった。

 

 そのため、彼は森に近い側で。両親は小道に近い側で、それぞれ働いていた。

 

 互いの距離は、おそらく20メートルも離れていなかったと思う。だが、結果的には、そのわずかな距離が生死を分けた。

 

 唐突に響き渡った、空が割れたかのような轟音。

 熱風に吹き飛ばされ、畑の中を転がり、そして――しばしの時がたってから身を起こす。

 

「……?」

 

 何が起きたのかわからなかった。

 ただ、パチパチと火の粉が爆ぜる音にまぎれて、背後から自分を呼ぶ声がして。

 それが母親の声だったので振り向いた。……振り向いて、しまった。

 

 母は美しい女だった。

 貧しい農家の末娘として生まれ、口減らしのように年の離れた男のもとに嫁がされた。

 子供の目で見てもあまり幸福ではなかった結婚生活のためか、いつも疲れたような顔をしていたが。

 

 その母が、目の前で火だるまになっていた。

 手入れさえすればさぞ美しく輝くだろう髪も、神秘的な瞳も、日に焼けてもなお白い肌も、燃えて、めくれて、溶け落ちて。

 グロテスクな人形のようになった母が、地面の上でのたうち回りながら、こちらに手をのばしていた。

 

 一緒に居たはずの父は、肉片と化して畑に散らばっていた。

 それが父だと、元は人間だったものだと判別できたのは、なぜか首から上だけが畑の隅に転がっていたからだ。まるで野菜か何かのようにごろんと。

 

「に、げて――」

 

 声に視線を戻せば、母がこちらに這ってこようとしていた。

 ぱくぱくと口を動かしているが、それ以上の言葉は聞き取れず。

 黒焦げになった手が、やがてぱたりと落ちる。その体が炎に巻かれて、消し炭になっていく。

 

 再び、頭上で響く爆音。

 村のどこかから悲鳴が聞こえる。炎が噴き上がり、黒い煙がたなびき、焦げ臭い匂いが鼻をつく。

 

 理解が追いつかないまま、それでもひとつだけ理解したのは、ここに居たら自分も「こうなる」ということ。

 すなわち、待っているのは両親と同じ運命。自分も、幼い妹も、燃えて肉片になって死ぬことになる。

 

 弾かれたように、彼は走り出した。

 いまだ何ひとつわかっていない顔をして、畑の隅に座り込んでいた妹――幸いにして、森の木々が守ってくれたらしく、無傷だった――を抱え上げ、ただ安全な方へ、安全だと思える方へと走った。

 

 

 

*****

 

「おにいちゃん、おなかすいた……」

「…………」

「あしがいたいよ……」

「…………」

「ねえ、おうちにかえろう?」

「…………」

「……ひっく……」

 

 妹の手を引きながらふらふらと森をさまよっていた彼は、足元から聞こえた泣き声にふと我に返った。

 

「泣くなよ、イリス」

 

 立ち止まり、頭をなでてやる。

 どうやら妹なりに我慢していたらしい。見る見るその目に涙がたまって、こぼれて、ひっく、ひっくと体を震わせ始めた。

 

「だって、もうヤダ……。ヤダよう……」

 

 まだ「疲れた」という言葉を使えない妹は、泣きながらヤダヤダと繰り返す。

 

「そうだな。俺も腹へった」

 

 妹を抱えての全力疾走。それから何時間、歩いただろう。

 彼も疲れていた。1度足を止めると、その場に根が生えたように動けなくなってしまうほどに。

 

 そもそも、ここはどこだ?

 夢中で逃げてきたせいで、現在地が判然としない。

 見たところは森である。木々の間から差し込む月明かりが、かろうじて周囲を照らしている。

 

「あ、あそこ。おじさんちがあるよ」

 

 おじさんち? とは何のことか。

 視線を向ければ、妹が指差した先。森の中に小さな小屋があった。人が居るらしく、明かりが灯っている。

 

 そこは自宅があったのとは反対側の村はずれだった。

 とうに村を離れたようなつもりで居たが、子供の足では大した距離を稼げていなかったらしい。

 

 その家には中年男が1人で住んでいる。

 人当たりの良い性格で、かつ子供好きらしく、村の子供たちによく食べ物をわけてくれる。妹も含めて、村の子供は大抵、男に懐いていた。

 

 彼自身は別に、男のことが好きでも嫌いでもなかったが。

 この状況では、頼ってもいいかもしれないと思った。

 あのお人よしそうな男なら、おそらく今の自分たちを助けてくれる。食べ物はもちろん、頼めば朝まで休ませてくれるだろう。

 

 小屋に近づくと、複数の話し声が中から聞こえてきた。

 男が1人暮らしだと知っていたのに、違和感を覚えなかったのは疲労のためか。あるいは、昼間の出来事で頭がマヒしていたのか。

 

 何にせよ大ポカだった。

 

 出入り口を叩くと、程なく足音と気配が近づいてきて。

 

「誰だい?」

 

 扉が開いて、男が顔を出す。その肩越しに見えたのは――。

 見知らぬ男たちが4、5人、床に座って酒盛りしている光景だった。全員が汚い身なりで、目付きは鋭く、ぱっと見、賊のようでもある。

 

「ベルンくんとイリスちゃん? 君たち、無事だったのか――」

 

 ようやく、違和感がわき上がった。

 

 昼間の出来事が、大人たちがたまに話していた「隣国との紛争」だということはなんとなくわかっていた。

 当時の彼は、政治のことなど何ひとつ知らない子供だったが、それでも。

 国境近くの村が襲われた、また別の場所で村が焼かれた、といった噂話を耳にすることがあったからだ。

 

 つまり彼の村もまた、敵国に襲われたばかりで。

 問題なのはその状況下で、男たちがのん気に酒盛りなどしていることだった。

 彼らが無事でいるのは、村のこちら側までは砲撃されなかったからだ、としても。

 

 逃げる途中、あちこちで焼死体を見た。燃える家々を見た。

 家財をまとめて、逃げ出そうとしている村人の姿を見た。

 

 だというのに、こいつらは何をしている?

 あの見知らぬ男たちは誰だ? 時折、会話に混じる耳慣れない言語は?

 そして何よりも、目の前の男の様子がいつもと違っていて――。

 

「生きていてくれて良かった。村の子供たちの中でも、君とイリスちゃんは特に高く売れそうだったから」

 

 (よこしま)な悪意を、隠していなかったことが。

 

「殺すのはもったいない、と思ってたんだよね」

 

 男が近づいてくる。酔っているのか、その動きは緩慢だ。

 とっさに、彼は走り出した。

 

「あ、おい!」

 

 男が怒鳴る。背後の男たちに向かって、手を貸してくれと叫んでいる。

 

 複数の足音が後から追ってきた。

 ひとまず森に逃げ込んだものの、こっちは幼い妹連れである。

 しかも丸1日逃げ回った後だ。体力なんて、ろくに残っちゃいない。

 

 ――ああ、くそ。最悪だ。

 

 助けを求める相手なら他にも居ただろうに、よりにもよって最悪の外れくじを引いた。

 しげみの中に身を隠し、脅えきった顔で震える妹を見ながら、考える。

 

 このまま2人で逃げ切るのは、無理だ。

 そして捕まったら、確実にろくでもないことになるだろう。

 

 あの中年男の粘りつくような目付き。……そういえば、母親があいつには何かもらってもついていくなと言っていなかったか。

 その言葉の真意を、もう少しはっきり伝えておいてほしかった。いや、自力で察するべきだったのかもしれない。

 悔やんでも意味はない。とにかく、あいつの手に妹を渡すのはダメだ。それだけは絶対に――許さない。

 

「イリス。よく聞けよ」

「……おにいちゃん」

「おまえはここを動くな。声も出すな。絶対に、何があっても、俺が呼ぶまで返事をするんじゃねえぞ」

「おにいちゃん……、こわいよ……」

「いいから、言う通りにしろ。後でちゃんと迎えに来てやるから」

「……ヤダ、まって……。行かないで……」

 

 すがりついてこようとする妹の体をしげみの中に押し戻し、

 

「イリス! 俺の言うことが聞けないのか」

「!」

 

 小声で叱り付けると、イリスはぎゅっと目を閉じ、その場にうずくまった。

 

 そう。こいつは賢い奴なんだ。

 こうしろと命じればその通りにできる。なぜなら、ぐうたらな父親と忙しい母親に代わり、妹の面倒を見ていたのは自分なのだから。

 

 1人でしげみを抜け出し、彼は走った。

 できるだけ妹から離れるように、その居場所を奴らに悟られないように。

 

 

 

*****

 

「……?」

 

 目を開けると、汚い天井が見えた。

 無意識に体を起こそうとして、突き抜けるような痛みに悲鳴を上げそうになる。

 

 ――いってぇ……。

 

 殴られた顔が。押さえつけられた手足が。頭が。腹が。もう全身が痛い。

 

 そこは人いきれと酒の匂いが充満した小屋の中だった。

 複数のいびきが聞こえる。夜明け前の、まだ薄暗い時間帯。見張りも立てずに酔いつぶれているのは、賊のような風貌の男たちだった。

 

「ような」というか、こいつらは実際に賊らしい。

 さっき痛めつけられている時に聞かされた。

 敵兵の攻撃に乗じて村に入り、家財を盗んだり、逃げ遅れた村人を捕らえて売り飛ばす。それがこいつらの「商売」なのだと。

 

 その言語は、一部は異国語だったが、基本オースティン語だった。

 おそらく彼らは、全員が異国人というわけではないのだろう。

 敵国に手を貸して、何らかの見返りを得ているクソッタレな奴らも国の中に居る、ということだ。

 

 ――ぶっ殺してやる。

 

 彼は暗闇の中でゆっくりと身を起こした。

 さんざん暴行を受けたせいで体がふらつく。しかし手足を縛られているわけでもなければ、閉じ込められているわけでもない。

 

 ――ガキだと思って舐めやがって。

 

 彼がもう少し成長していれば、男たちの対処も違っただろう。常識的に考えて、7歳の子供が脅威になるとは誰も思わない。

 が、彼は当時から度外れて頭のいい子供だった。村人の子、貧しい農家の子という立場では、披露する機会がなかっただけで。体は幼くとも、精神年齢は既に10代前半のそれだった。

 

 ――殺す殺す殺す、絶対殺す。

 

 全員、ぶっ殺してやる――と思ったが。

 現実的に考えて、それが不可能であることは理解していた。

 

 たとえば、油を撒いて火をつけたとしても、閉じ込める手段がなければ焼け死ぬ前に逃げられるだろう。

 殺せるのはせいぜい1人か2人。森で待っているはずのイリスを回収して逃げる時間を考えれば、確実に殺れるのは1人。

 

 だったら、選択肢はひとつだ。

 善良な村人のフリをして、敵を引き入れ、手を貸した。

 親切面の、裏切り者の、変態クソ野郎をぶっ殺す。

 

 武器はすぐに見つかった。

 酔いつぶれて寝こけている男たちの荷物から、刃渡りの長いナイフが1本。

 

 逃げるための時間稼ぎも必要だろう。

 台所にあった油を出入り口の近くに撒き、火だねは――確か、男の1人が煙草を吸っていた。しつこいくらい体に押しつけてくれたから忘れるわけもない。

 周囲を探せば、テーブルの上にマッチ箱が転がっていた。

 

 準備はできた。あとは実行するのみだ。

 

 あの中年男は、おあつらえ向きに、他の連中とは離れた場所で寝ていた。

 一応は家主だからか。寝室というほど立派なものではないが、敷居を立てた向こう側で眠っている。

 

 彼は足音を殺して男に近づいた。

 

 家畜が屠殺(とさつ)される所を見たことがあったので、「どうすれば生き物が死ぬか」は知識としてあった。

 子供の力で、かつ一撃で決めるなら、狙うべきは腹でも頭でもなく、首だ。

 

 迷いはなかった。ためらいも、恐怖すら浮かばなかった。

 

 煮えたぎる憎悪に突き動かされるまま、男の首筋に刃をあてて。

 ふと思いついて、シーツの端を丸めて男の口に押し込んだ。

 男が呻いて目を覚ましかけるが、遅い。再び首筋にナイフを押し当て、全身の力を込めて引き切った。

 

 吹き出す血しぶき。断末魔の叫びすら上げられずに男が絶命するのを確かめてから。

 あらかじめ撒いておいた油に火をつけて、彼は小屋から飛び出した。

 

 

 

*****

 

 イリスは言いつけを守っていた。

 あれから何時間たったのか知らないが、ちゃんと元の場所で動かずに待っていた。……さすがに、眠っていたが。

 

 妹を背中にかついで、痛む体を引きずりながら歩き出す。

 時間稼ぎがうまくいったらしく、少なくともその夜の間は、誰かに追われることはなかった。

 

 一晩中、ほとんど休むことなく歩き続けて。

 空が白む頃、森を抜けた。

 そこはどこかの畑で――正面から差してくる朝日を目にした瞬間、彼は体力の限界を迎えて、気を失った。

 

 そのまま半日近くも眠っていたらしい。

 目を覚ますと、見知らぬ小屋の中で、見知らぬ老人に介抱されていた。

 

 老人は隣村の農夫だった。

 家族はなく、この小屋で1人暮らしをしているという。

 近くで敵国の兵士が派手に暴れたことは既に噂になっているらしく、「逃げてきたのかい」といたわってくれた。

 食事も与えられ、「息子のお古だ」という着替えまで提供してくれた後で。

 

「おまえさん、何をやったんだね?」

 

 老人はひどく難しい顔をして聞いてきた。

 他でもない、彼の衣服が返り血に染まっていた理由を。

 

「今日の昼過ぎか。見慣れん連中がこの村に姿を現してな。『赤毛のガキを見なかったか』と聞き回っておったよ」

「…………」

「あれは、おまえさんのことで間違いないかね?」

「…………」

 

 彼が黙っていると、老人はしわだらけの顔でかすかに笑って見せた。

 

「別に突き出したりはせんから、安心しなさい。あの連中がカタギじゃないことは見ればわかる」

 

 老人はすぐに笑みを消して真顔になると、噛んで含めるように言い聞かせた。

 

 できるなら守ってやりたいが、自分は足の悪い年寄りだ。真っ当な場所に保護してもらった方がいい。

 幸い、ここから少し北に行った所にマシュデールという要塞がある。あそこなら、おかしな奴らは手を出せない。

 

 老人がそこまで語ったところで、小屋の扉が数度ノックされた。

 

「じいさん。奴ら、こっちに来るぞ」

「……わかった」

 

 老人は水と食糧を彼に手渡し、今すぐ逃げろと言った。

 

「わしが見当違いの場所に案内して時間を稼ぐ。その間に、早く。裏から逃げなさい」

「……お世話になりました」

 

 他に言うべき言葉も見つけられず、老人に頭を下げてから、彼は逃げ出した。

 ようやく目を覚ましたばかりのイリスを背中にかついで、早く、可能な限り早く。

 

 

 

*****

 

 それからまた夜通し歩いて、たどりついたのは別の村。

 ノエル村、という名称についてはその時は知らなかった。

 

 とにかく疲れていたので、どこかで休みたいところだったが――村に入ってすぐ、目付きの悪い男2人が聞き込みをしている場面に遭遇してしまった。

 

 とっさに林の中に駆け込み、身を隠す。

 

「はあ……、いてえ」

 

 両足からは血が滲み、ずっと妹をかついできた肩と腕は、もはや痛みを通り越して感覚がなくなっている。

 

「おにいちゃん、だいじょうぶ? いたい?」

 

 必死に自分の足をさすってくる妹の顔を眺めながら、彼は考えていた。

 このまま逃げ切るのは、難しいかもしれない。そして捕まれば今度こそ間違いなく殺される。

 

 死にたくない。死ぬのはごめんだ。あんな連中の手にかかってたまるか、という怒りも意地もある。

 まして2人そろって、というのは最悪だ。イリスがあいつらの玩具(おもちゃ)にされて、挙げ句、壊される所など死んでも見たくない。

 

 ……あの老人の所に戻って、妹を預かってくれないかと頼んでみるか。

 率直に言って貧乏そうだったが、引き受けてくれる可能性はゼロではない気がする。

 むしろ無事戻れるかどうかの方が問題で――。

 

 と、その時。

 耳に届いたのは、幼い子供が騒ぐ声。

 この村の住人らしい子供たちが、のん気に遊んでいる。いや、ケンカしているのか? いずれにせよのん気なことだ。こっちは命が危ないというのに。

 

 彼らの声を聞くとはなしに聞いていて、「孤児院」という単語を耳が拾った。

 どうやら人数が少ない方のグループが孤児院の子供で、それを親の居る子供たちが馬鹿にしていじめている、という構図らしい。

 

 それがどういう施設なのか、一応知識はあった。

 噂では、あまり良い環境ではないらしいが。現に、目の前では孤児たちがいじめられているが。

 それでも、あの連中の手に妹が落ちるよりは――。

 

「おにいちゃん?」

 

 無邪気な顔で見上げてくる妹と、目が合った時。

 

 かすかに、心が揺れた。

 

 思えば、父母の死を目の当たりにしてから、彼の心にはずっと、痛みも悲しみもなかった。

 あったのは怒りと憎悪だけだ。

 

 今は、少し。ほんの少しだけ。

 

「イリス」

 

 別離の痛みと寂しさ。そして何か悪いことでもしているような後ろめたさを感じている。

 

 ただ、彼は寂しい時に寂しいと言うような、悪いことをしたと思った時に謝るような、そういう素直さを生まれつき持ち合わせていなかったため。

 短く「さよならだ」とだけ、妹に告げた。

 

 そしてまた妹の手を引き、さっき孤児院の子供たちが逃げていった方角に足を向け。

 大勢の子供が、案外楽しそうに遊んでいる古びた建物の前に妹を置いて、立ち去った。

 

 無駄に勘のいい妹は、「行かないで」と泣きわめいたが、後を追いかけてくることはしなかった。

 あるいは、できなかったのかもしれない。

 

 なけなしの力を振り絞って走って、建物から十分離れた所で振り向けば、そこにはもう誰の姿もなく。

 そうして、彼は1人になった。1人で生きていくことになった。

 

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