悪魔を愛した少女の日記【完結】   作:結寄

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36話

 そこはアンリ大佐のお屋敷があったのと同じような、立派なお屋敷ばかりが建ち並ぶ区画でした。

 ベルンが足を止めたのは、花壇に囲まれた白い瀟洒(しょうしゃ)な建物の前で。

 

「キレイですね」

 

 私が咲き誇る花々に見とれていると、「花を見に来たわけじゃねえよ」と入り口の方に連れて行かれました。

 

 ここは個人が趣味でやっている画廊なんだそうです。

 その個人というのは、先祖代々ウィンで暮らしてきたお金持ちで、戦火が迫っても退避することなく、美しい街と文化を守ろうとしているのだとか。

 

 門扉は閉ざされているように見えましたが、すぐに管理人らしき老人が顔を出し、ベルンが身分証を提示すると、問題なく入ることができました。

 

 中は「こじんまりした美術館」という感じでした。

 貴族のお屋敷のような建物のそこかしこに、額縁に収められた絵が飾られています。

 

「……キレイですね」

 

 私の反応に、ベルンは「他に言うことはないのかよ」とあきれ顔をしました。

 そんなことを言われても、私は口下手なのです。とっさに気の利いたセリフなんて出てきません。

 

 私が「絵が好きだ」と言ったから、彼がこの場所に連れてきてくれたのだろうということはわかります。

 本音はお礼を言ってもいいくらいだったのですが、それが上手にできないのが口下手というものなのです。

 

「ええと、見てもいいのですよね?」

「そういう場所だからな」

 

 では早速、と私は展示された絵を見て回りました。

 

 ドレスの貴婦人の絵。勇ましい騎士の絵。無邪気な子供たちの絵。

 可愛らしい猫がひなたでまどろんでいる絵や、天使や妖精など、想像上の生き物を描いた絵もありました。

 

 1番多いのは風景画でしょうか。

 森や湖、黄金色の麦畑など。中には中国の水墨画や、日本の浮世絵らしき絵もあって――。

 

 無心に眺めていると、「楽しいか?」とベルンが声をかけてきました。

 

「はい、とても」

「本当か? おまえ、顔に出ないからわかりにくいんだよな……」

 

 ベルンは疑っているようでしたが、この時、私は本当に楽しんでいたのです。

 

 ずっと殺伐とした戦場に居ました。こんな風に、美しいものをただ眺める機会なんてありませんでした。

 久しぶりに心が潤うような、癒されるような、人間らしい時間を過ごせて。

 夢中になって画廊を回っていた私は、ふと1枚の絵画に釘付けになりました。

 

 小さな額縁に入った、素朴な人物画でした。

 黄色い花畑の中に、10歳くらいの少女が陽差しを受けて立っている、ただそれだけの絵です。

 

「どうした?」

 

 私がいつまでも動かないので、変に思ったのでしょう。

 ベルンが声をかけてきて――そして少女の絵を見て、一言つぶやきました。

 

「おまえに似てるな」と。

 

 それは何の気なしのセリフだったのだと思います。

 けれども、彼がそう言ってくれたことが、私は嬉しかった。

 だって、その絵の風景は、私の――私たちの故郷に、よく似ていたのです。

 

 彼もまた、私と同じように感じたのかもしれないと。

 そう思えたことが、本当に、涙が出そうなくらい嬉しくて。

 だからつい、期待してしまった。

 

「兄さん」

「ん?」

「今すぐは無理なことだとわかっておりますが……。というか、ずっと先になっても構わないのですが……」

「何だよ。もったいつけんな」

 

 緊張で、苦しいくらい心臓が鳴っています。

 まるで愛の告白をするような気分で、私は。

 

「いつか、2人で、その。ノエルの辺りを、訪ねてみませんか」

 

 勇気を振り絞って、そう告げたのです。

 ベルンは少し怪訝(けげん)な顔をして、

 

「ノエル? ノエル孤児院をか?」

「ではなくて、私たちが昔住んでいた辺りを……」

 

 私の声は、尻すぼみになって消えました。

 それは、目の前の彼のまなざしに、ひやりとするような冷たい何かがよぎったからです。

 

「なんで?」

 

 声も、冷たくて。あまりにそっけなくて。

 私が何も言えずにいると、彼は私の顔からも、少女の絵画からも視線をそらし、

 

「おまえさ、何を期待してんの?」

 

 冷たいだけではなく、迷惑そうにも聞こえる声でそう言ったのです。

 

「期待、とは」

 

 私の問いに、ベルンは不機嫌そうな顔でしばし沈黙して、

 

「……だから、また昔みたいに暮らせるかもしれないとか、家族に戻れるかもとか。そういうくだらないこと期待してるんじゃないだろうな、って聞いてんだよ」

「それは――」

 

 私は、彼のその言葉を聞いて。

 

「それは、くだらないこと、なのですか?」

 

 ショックで声が震えるのを、抑えられなかったのですが。

 

「あー、あれか? 生活の心配とかしてんの?」

 

 なのに彼は、そんな私の動揺などどこ吹く風という態度で、ひどく的外れなことを言うのです。

 

「ノエルの辺りは焼けちまったし、頼る相手も、帰る家もないもんな。別にいいぜ。生活の面倒くらい見てやっても」

 

 ただし、昔みたいに一緒に暮らすなんてことは、仮に2人そろってこの戦争を生きのびたとしてもありえない、と彼は言い捨てました。

 

「前にも言ったろ。俺がほしいのは妹じゃねえって」

「…………」

「今更、家族なんて使えないもんはいらない」

「…………」

 

 この時、私は、あまりのことに頭が真っ白になって。

 

 だから忘れていました。この人が嘘つきだということ。

 

 私の記憶が戻る前、やたらちょっかいをかけてきたのはベルンの方です。

 家族なんていらないという言葉は、その時の行動と明らかに矛盾するものでした。

 

 自分だって、私に執着を見せていたくせに。

 どうしてそんな、ひどい言葉を口にしたのか。

 何か理由があってのことなのか、深い意味などないのか。いずれにせよ。

 

「おい、トウリ!?」

 

 私が走って逃げ出したのは、彼にとって予想外の出来事だったようで。

 途中までは、追いかけてくる気配がしていました。……本当に、途中までですけど。

 

 画廊を飛び出し、通りに出て、その後は何も考えずにひた走って。

 

「いたっ……」

 

 足の痛みに、私は走るのをやめました。

 そういえば、可愛らしいワンピースにあわせて、慣れない靴を履いていたのでしたっけ。どうやら、右のかかとに靴擦れができてしまったようです。

 

「ふふっ……」

 

 ああ、滑稽(こっけい)ですね。自分でも笑ってしまいます。

 こんな似合いもしない格好をして。身の程知らずに浮かれて。挙げ句、馬鹿げた妄想を口にしてしまうだなんて。

 

 私はずるずると路地裏に座り込みました。

 みじめでどうしようもなくて、こらえようとしても涙があふれてきます。そのまま膝を抱えて泣いていると、

 

「イリス!」

 

 叱り付けるような声が、遠くから私を呼びました。

 

「どこ行きやがった! てめえ……、今すぐ返事しなかったら承知しねえからな!」

「…………」

 

 私はぎゅっと自分の膝を抱えて、物陰に隠れるようにうずくまりました。

 そうしてじっと気配を殺していると、やがて足を引きずるような音が近づいてきて、

 

「……何やってんだ」

 

 声に見上げれば、あきれたような怒ったような顔をした兄がそこに立っていました。

 

「……遅かったですね」

「てめえ、俺の足が治ってねえの忘れてるだろ。無駄に全力疾走させやがって」

 

 急にがくんと兄が膝をつきました。

 

「あー、いってぇ。完治が遠のいたな」

「大丈夫ですか!?」

 

 思わず立ち上がって路地から飛び出すと、「嘘だよ、ばぁか」と腕をつかまれました。

 

「……っ! 放して!」

 

 ジタバタ暴れる私を、彼は冷たく見下ろして、

「なんで泣いてんだよ」

と、私の顔をのぞき込んできました。

 

「逃げなきゃならんようなこと言ったか? そんなガキみたいに泣くほどショックだったのか?」

 

 私がキッとその顔をにらむと、彼は自問するように問いを重ねました。

 

「なんで、おまえはそこまで、俺に執着する?」

「…………」

「おまえを捨てて、10年以上も放っておいた、ただ血縁があるってだけの相手がそこまで大事か?」

「…………」

 

 じっと無言を貫きながら、私は胸の中だけで返答しました。

 

 ええ、そうですよ。あなたには想像もつかないのでしょうけれど。

 

 私がどれほど「家族」に焦がれていたか。

 子供の頃、私を「みなしご」と呼んで馬鹿にした村の子供が、優しそうな両親に可愛がられているのを見て、どれほど傷ついたか。

 

 自分だけの特別な「誰か」がほしい。

 

 孤児院の子供たちはみんな仲が良かったし、院長先生もシスターも優しかったのに、そんな気持ちになってしまった自分が嫌で、認めたくなかったけど。

 

 今なら、なんとなくわかります。

 きっと最初から1人ぼっちなら、そんな風には思わなかったと。

 

 人が寂しさを感じるのは、かつて幸福だった時を思い出すからだと言います。

 

 つまり、昔の私は1人じゃなかったから。自分にも家族が居たことを、無意識で覚えていたから。

 楽しい時が、幸福な時が確かにあったから。

 それを失ってしまったことが、どうしようもなく悲しくてつらかったのでしょう。

 

 私の心には、ぽっかりと穴が空いていて、それを埋めてくれる存在を必死に探していた。

 

 なのに、他でもないあなたが。

 私を捨てたあなたが。

 私の心に穴を開けてくれた張本人が、言うのですか。

 家族なんて必要ないと、私にとって1番残酷な言葉を、顔色ひとつ変えずに。

 

「それだけじゃ、ないですよ……」

 

 この時、私は、目の前の男に対して、ほとんど憎しみと大差ない感情をいだいていました。

 

 許せなかった。子供の頃、彼が私を置いていったことも――何か事情があったのだとしても、やっぱり恨めしかった。

 

 でも、私の言葉では、この人を傷つけ返すことなんてできるわけがないから。

 せめて、何か困らせることを言ってやりたかった。

 

 その時、天啓のように心に浮かんだのは、以前ガヴェル曹長に投げかけられた言葉でした。

 

 

 ――おまえ、あの人のこと――

 

 

「……好きだから、ですよ」

「は?」

 

 何でもいい。ほんの少しでもいい。この人を動揺させることができるなら、どれほど人の道に外れた嘘だって構わない。

 

「好きだからですよ! あなたのことが! 血のつながった兄で! 人として終わってて! 救いようのない人殺しのあなたが! どうしようもないくらい好きだからです!」

 

 沈黙が、その場に落ちて。

 言ってしまってから、自分が今、何をしたのかを理解した私は。

 ベルンの顔を見ることもできず、ただ自分の足元をにらみつけて、じっと動けずにいました。

 

「……何だって?」

 

 だいぶ時間がたってから聞こえた声は、彼らしくない、ひどく間の抜けた声で。

 

「……好きだからですよ」

 

 私が(かたく)なに繰り返すと、彼は「待て待て、ちょっと待て」と慌てたように言いました。

 

「おまえ、自分が何言ってるかわかってんのか? マジで? いつから? おまえが俺を……って」

 

 その時、足音と気配が私たちのそばを通り過ぎていきました。

 それはただの通行人だったようですが、薄汚れた路地の入り口で話し込んでいる上、一方は泣いているという私たちの状況は、傍目(はため)にはさぞ奇妙に見えたことでしょう。

 

 ベルンも「……場所を変えるか」と言い出しました。

 

「どこへ、行くのですか」

「どこでもいい。とにかく人目につかない、話を聞かれない場所に行くぞ」

 

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