悪魔を愛した少女の日記【完結】   作:結寄

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38話

 その夜は、アンリ大佐のお屋敷に泊めていただきました。

 あの後、私は軍部に戻ったのですが――そこに大佐からの招待状が届いていたのです。

 大佐は私を歓迎してくれて、戦時下にしては豪華な食事と、立派な客間を与えてくださいました。

 

 今夜はベルンも、このお屋敷のどこかに泊まっているそうです。

 食事は別々でしたし、その後も全く顔を出しませんでしたけれど。

 

 大佐は「照れているのかな」と仰っていました。意外とこういうことには鈍いのか、単にとぼけているだけなのかはわかりません。

 

 ただ、大佐はとてもお話が上手でした。

 私が知りたがっていると思ったのでしょう。「ベルン・ヴァロウ」がいかにして大佐に見出され、今の地位まで上りつめたのか、詳細に語ってくださいました。

 

 その多くは私が知らない話でした。

 シルフが西部戦線を突破したのと同じ戦術を、ベルンが1年も前に考えついていたのだということも初めて知りました。

 

 大佐は機嫌良く話していましたが、私は内心、複雑な気持ちになりました。

 上層部がその作戦の有用性に気づき、すぐに採用されていたなら、この戦争はとっくに終わっていたことに気づいてしまったからです。

 

 特に、西部戦線には、あのガーバック隊長が居ましたし。

 きっと獅子奮迅の活躍で、敵の拠点を壊滅させることができたでしょう。

 

 ――参謀部の無能が。

 

と、隊長殿が毒突くのを、私は1度ならず聞いたことがあります。

 

 いくらガーバック隊長がエースでも、アレンさんやマリューさん、グレー先輩たちが優秀な兵士でも、ひとつの小隊でやれることには限りがあります。

 

 ベルン・ヴァロウがもっと早く、活躍の期待を与えられていたなら――。

 

 彼の作戦が採用されなかったのは、それがあまりに当時の「常識」とかけ離れていたから、というのも理由のひとつでしょうが。

 もっと大きな理由はおそらく、当時の彼が無名だったから。

 名家の出身でもない、一兵卒だったから。

 

 たとえば、作戦を提唱したのがアリアさんやヴェルディさんのような立場の人であれば、話は全く違っていたと思います。

 事実、シルフの戦法がサバトで採用されたのは、彼女の父親が軍の司令官だったからなのですから。

 

 それは考えても仕方がないことなのかもしれません。

 シルフ攻勢の1年前に戦いが決着していたら、ガーバック隊長も、小隊のみんなも死なずにすんだのに、とか。

 私に到っては軍に入ることすらなく、今もノエルで平和に暮らしていたかもしれない、だとか。

 

 ……その場合は、ただ1人の兄と再会する機会もなくなってしまいますけど。

 

 それでも、もしかしたら。

 戦後、ふと気まぐれを起こした兄が、ノエル孤児院を訪ねてきて。

 私がイリスだと、気づいてくれたなら。

 家族に戻れたかもしれない、だなんて――そんなのは夢物語ですね。わかっています。

 きっとその時も、兄は私の無事を確かめるくらいで、すぐにどこかに行ってしまったでしょう。

 

 私とあの人の間には高い壁がある。越えられない溝がある。

 昔は当たり前にそばに居たのに、今はもう、「ただ一緒に居たい」というだけの望みすらかなわないのです。

 

 それはなぜなのか。

 与えられた客間で1人、清潔なベッドに横になってじっと天井を見上げながら、私は考えていました。

 

 ――自分は何も見てねえくせに、知った風な口をきくんじゃねえよ。

 

と、あの人は言いました。

 

 私が「あの日」のことを何も覚えていないから、

 

 ――だからおまえ、どっか他人事なんだよ。

 

とも言いました。

 

 それは裏を返せば、彼自身はあの日の記憶を持っているということです。「他人事」ではなく当事者としか言えないような、強烈な体験をしたということです。

 

 つまり、私が兄のことを正しく知るためには。

 あの日のことを、思い出す必要があるのかもしれない。

 

 そう悟った私は、まどろむように、たゆたうように。

 己の内側に深く沈んでいくような気持ちで、遠い過去の記憶を探っておりました。

 

 こういうことをするのは、実は初めてではありません。

 兄と再会してから取り戻した記憶の多くは、こうやって心の深い場所から自分で取り出したものです。

 

 私が3歳の時の記憶。

 兄との別れをきっかけに、心の奥底に閉じ込め、凍らせてしまった記憶。

 そのふたを開け、氷を溶かし、少しずつ少しずつ、形を与えて。

 今では随分たくさんのことを思い出していますが――「あの日」のことだけは別でした。

 

 ずっと無意識に避けていたのです。

 両親の死も、兄との別れも、思い出すのはつらいことでしたので。

 

 でも、今は。

 たとえつらい記憶に向き合うことになっても、あの人のことが知りたい。あの人のそばに居たい。

 

 だから私は、自分の心の奥底にもぐり、厳重にしまい込まれていたその記憶に手をのばして。

 ためらいながらも、ゆっくりとふたを開けてみました。

 

 

 

*****

 

 それはいつもの日常でした。

 両親と兄が畑仕事をしていて、まだ小さな私は畑のそばで1人、花を摘んだり、虫を追いかけたり、手遊びをしながら過ごしている。

 そんな何でもない日常を粉微塵(こなみじん)に破壊してしまった出来事。その始まりは、大きな音でした。

 

 それまで1度も聞いたことがないような、とても大きな音が辺りに響き渡って。

 私はびっくりし過ぎて泣くこともできず、ただぽかんと座り込んでいたように思います。

 

 そうしましたら、兄が駆け寄ってきて。

 物も言わずに私を抱き上げ、走り出したのです。

 

 私はとっさに両親の姿を探しましたが、見つけられませんでした。

 畑の方に、何やら赤い物が散らばっていたような気もしましたが、それがなんであるのかはわかりませんでした。

 

 兄は森の中をしばらく走って、やがて村の広場に出て。

 その間も、耳をふさぎたくなるくらい大きな音が立て続けに響いて――私はだんだん怖くなってきて、しっかりと兄の体にしがみつきました。

 

 あちこちで、家が燃えていました。森が燃えていました。

 たまに、焼け焦げた人形のようなものや、大きな炭のかたまりのようなものが転がっていることもありました。

 

「見るな」

 

 私がそれらに気をとられそうになると、兄の両腕が私の顔をぎゅっと抱えこみました。

 

「見るな、イリス」

 

 兄がしゃべったのは、ほとんどそれだけでした。

 

 どのくらいの時間、その音が続いたのか。

 どのくらいの時間、私たちは逃げ続けたのか。

 

 気がつけば、辺りはすっかり暗く、静かになっていて。

 私は兄に手を引かれて、森の中を歩いていました。

 

「おにいちゃん、おなかすいた……」

「…………」

「あしがいたいよ……」

「…………」

「ねえ、おうちにかえろう?」

「…………」

「……ひっく……」

 

 何を言っても兄が返事をしてくれないので、私は小さくしゃくり上げました。

 

 すると兄はようやく足を止めて、

「泣くなよ、イリス」

と私の頭をなでてくれました。

 

「だって、もうヤダ……。ヤダよう……」

 

 この時の私は、何も気づかずに、ただ泣くばかりでしたが。

 実際は、兄の方がよほど疲れていただろうと思います。

 3歳の私を抱えて、あるいは背負って、ずっと逃げてきたわけですからね。私も多少は自分の足で歩きましたけど、そんなのはわずかな距離です。

 

「あ、あそこ。おじさんちがあるよ」

 

 その時、私は気づきました。

 視界の中に、1軒の小屋があることに。

 

 それは顔見知りのおじさんの家でした。

 穏やかな性格の、子供好きな人でした。村の大人たちにも好かれていたと思いますが、なぜか村の外れで、1人で住んでいました。

 

 あのおじさんなら、助けてくれるかもしれない。そう思った私は、

「行ってみようよ」

と兄に言いました。

 

 兄も「そうだな」とうなずきました。

 

 いつもと比べて、口数が少なくて。

 少しぼんやりしているようにも見えた兄は、やはり疲れていたのだろうと思います。

 

 小屋に近づくにつれ、中から人の声がして。

 私は少しだけ怖くなりました。

 

 どうしてかと言いますと、それが男の人の声だったからです。

 この頃の私は、大きな声を出す大人の男の人が苦手でした。

 父がお酒を飲むと、たまに大声を出して暴れるからです。母や兄のことを叩いて(いじ)めるからです。

 

 兄はやられっぱなしになっていたわけではなくて、色々とやり返していましたけどね。

 酔った父に頭から水をかけたり、昼間、シラフでおとなしい父を穴に落としたり。

 

 猟師さんの罠をどこかからくすねてきて、畑に仕掛けたこともありましたっけ。

 獲物が踏むと、バネ仕掛けで食らいつく。そういう罠です。

 

 父はいつものように畑を耕そうとしてクワを振り下ろしたら、突然、目の前で罠が作動してそのクワに噛みついたので、心臓が止まりそうなほど驚いていました。

 その後、しばらくはおとなしくて、お酒もあまり飲まなかった気がします。

 

 まあ、そんな風に。

 私の兄は、今思い出しても子供らしくない、頭が良くて抜け目のない人だったんですけど。

 この時は目の前の危険に気づけなかった。それはどうしてなのか。

 

 ――おまえ、親父たちが死んだところ見てねえだろ。

 

 それはつまり、あなたは見たってことですよね。

 砲撃に巻き込まれて亡くなった両親の最期は、どれほど惨いものだったのでしょうか。

 疲れだけではない。おそらく、ひどいショックを受けていたのですよね?

 

 小屋の中にはたくさんの男の人が居ました。

 狭い小屋ですから、「たくさん」と言っても10人は居なかったと思いますが。

 4、5人くらいでしょうか。あのおじさんも居て、驚いたように私たちを見ていました。

 

 お酒の匂いもしました。

 私と兄にとっては、父の暴力を思い出す嫌な匂いです。

 男の人たちが何か言っていましたが、私には意味がわかりませんでした。

 

 ただ、怖かったです。とても怖かったです。ぎゅっと兄の背にしがみついていたら、その兄もやがて走って逃げ出して――。

 

 怖い男の人たちは、後から追ってきました。大きな声で、怖いことを叫びながら、どこまでも執拗(しつよう)に追いかけてくるのです。

 

「ああ、くそ! 最悪だ!」

 

 兄が吐き捨てました。

 2人で森のしげみの中に隠れて、息をひそめて――けれども追っ手の気配は徐々に迫ってきます。

 

 このまま逃げても、いずれ捕まってしまうと思ったのでしょうか。

 

「……イリス。よく聞けよ」

 

 そのうちに兄は、怖い顔をして私に命じました。

 

「おまえはここを動くな。声も出すな。絶対に、何があっても、俺が呼ぶまで返事をするんじゃねえぞ」

「おにいちゃん……、こわいよ……」

「いいから、言う通りにしろ。後でちゃんと迎えに来てやるから」

 

 兄がどこかに行ってしまいそうな素振りを見せたので、私は必死にすがりつきました。

 

「……ヤダ、まって……。行かないで……」

「イリス! 俺の言うことが聞けないのか」

 

 強く叱られて、私は硬直しました。

 当時の私にとって、兄の言葉は絶対だったのです。

 兄がこうしろと言ったら、その通りにしなくてはダメなのです。

 

 だって、私の世界の中心は兄でしたから。

 兄に嫌われたり、置いていかれたりしたら、私はどうすればいいのかわかりません。

 だからこの時も、私は泣くのをこらえて、ぎゅっと目を閉じて、その場にうずくまったのです。

 

「よし、良い子だ」

 

 兄はそんな私の頭をぽんと叩いて、それから走ってどこかに行ってしまいました。

 残された私は、1人でしげみの中に隠れていました。

 怖い人たちの声が、足音が、だんだん遠ざかっていくのを聞きながら――。

 

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