悪魔を愛した少女の日記【完結】   作:結寄

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39話

 そうして私は、いつのまにか眠ってしまったようでした。

 ゆらゆらと揺れる心地よさ。背中の温もりを感じて、目を覚ました時。

 

「おにいちゃん……?」

 

 私はまた、兄に背負われていました。

 まるで怖い出来事なんて何も起きなかったみたいに、全部夢だったかのように兄の背中で目覚めることができて、私はとてもホッとしたのですが――。

 

「起きたのか、イリス」

 

 聞こえた兄の声は、不自然にかすれていました。いつもより緩慢な動作で私を地面に下ろすと、

 

「なら、歩け。……ちょっとでいいから、自分の足で歩いてくれ」

 

 そう言って歩き出した兄は、足元がふらついていました。

 握ってくれた手には、すり傷でも切り傷でもない、すごく痛そうな痕があって、見れば顔も――唇が切れて、片頬が腫れていました。

 

「おにいちゃん、いたい?」

「……ああ」

「またおとうさんにいじめられたの?」

「あ? 違うよ。親父たちはもう――」

 

 と、そこで急に顔をしかめた兄は、「いいから、黙って歩け」と私に命じました。

 

 取りつく島もない怖い声だったので、私は言われた通りに黙って歩き続けるしかありませんでした。

 多分、2、3時間くらいでしょうか。

 それはまだ3つの私にとって、気が遠くなるくらい長い時間でした。

 

「あしがいたいよぉ……」

「うるさい、泣くな。泣いたって知らねえからな」

「ううっ……、ひっく……」

「あー、もう。しょうがねえな……」

 

 結局は根負けしたように兄が私の前に屈んで、私はぐずりながらもその背にしがみつきました。

 その頃にはもう、森の中に朝日が差し始めていて。

 明るい場所でよく見ると、兄の顔はお父さんに殴られた時より、もっともっと傷だらけになっていることがわかりました。

 

 右目の下には赤黒いアザがありましたし、あの「とても痛そうな痕」は首筋にもできていました。

 ……あれは多分、やけどの痕ですね。私が熱いスープをひっくり返してしまった時、かばってくれたお母さんの手にも同じものがありました。

 

 そして何より目を引いたのは、兄の全身が鮮やかな赤色に染まっていたことです。

 

 髪も、顔も、着ていた服も。

 

 当時の私には、それが人の血だということはわかりませんでした。

 なので、特に怖いとも感じませんでした。その鮮やかな赤色が珍しくて、しげしげと眺めてしまったくらいです。

 

 しばらく歩くと、辺りがさらに明るくなりました。

 森を抜けたのです。

 目の前には広い畑と、その間を縫うようにのびる細い小道がありました。

 

 そこは多分、私たちが住んでいた村の隣村で。

 ずっと歩き通しだった兄は、森を出たところで、体力が尽きたのでしょうか。ぱったり倒れ込んでしまいました。

 

「おにいちゃん、おにいちゃん?」

 

 私も、泣いたり騒いだりするほどの体力は残っていませんでした。

 倒れた兄のそばで途方に暮れておりますと、「おまえさんたち、どうしたね?」と誰かの声がしました。

 

 見れば、少し離れた所に農夫のおじいさんが居ました。

 おそらく早朝から農作業をしていたのでしょう。

 前述のように、私は知らない男の人が怖かったのですが、そのおじいさんは優しい人でした。

 

 私と兄の2人を抱え上げ、家まで連れて行ってくれた後で、あったかいスープを飲ませてくれました。

 お腹が満たされた私は、疲れ切っていたこともあって、すぐに眠ってしまいました。

 

 おじいさんはそれから、兄の傷の手当てをしてくれたようです。

 私はその光景を見ていませんが、気を失った兄の傷を診ながら、おじいさんが「ひどいな」とつぶやいたことだけは覚えています。

 

 次に起きた時は、もう夕方でした。私はぐっすりと半日以上も眠ってしまったのです。

 兄は先に起きていて、あのおじいさんと何か話していました。

 

「わかったね、北に行くんだ。マシュデール要塞だよ。わしが見当違いの場所にあいつらを案内して時間を稼ぐ。その間に、早く。裏から逃げなさい」

「……お世話になりました」

 

 兄がおじいさんに頭を下げて、それから早足でこっちに来ました。

 ケガはまだ痛そうでしたが、いつのまにか服が変わっていて、あの鮮やかな赤色はどこにも見当たりませんでした。

 

「行くぞ、イリス」

 

 どこに行くのと聞いても、兄は答えませんでした。

 問答無用、私を背負い上げ、おじいさんの家の裏口から外に出て、後は脇目も振らずに走りました。

 

 

 

*****

 

 その日は、森の中で夜を明かしました。

 途中で休憩して、あのおじいさんが持たせてくれた食べ物と水を口にして。

 大きな木の根元で、2人で寄り添い合うようにしながら少しだけ眠って。

 それからまた何時間も歩いて歩いて――。

 

 故郷を出て2日目。

 私たちはまた別の村にたどりつきました。

 ノエル村。この日から10年以上、私が過ごすことになる場所です。

 

 村に入ってすぐ、兄が小さく舌打ちしたかと思うと、

 

「……先回りされた」

 

 そう言って、村を囲むように広がる森の中に入っていきました。

 もしかすると、あの怖い人たちが近くに居たのかもしれません。兄は私を背負ったまま人気(ひとけ)のない場所を目指して――。

 

 5分ほど歩いたところで、急にへたり込んでしまいました。

 

「はあ……、いってえ」

 

 兄は疲れ切っていました。

 私も足が痛かったですけど、兄の両足はそれよりずっと痛そうで、

 

「おにいちゃん、だいじょうぶ? いたい?」

 

 まだ幼児の私には、その足をさすることくらいしかできませんでした。

 

「……はあ」

 

 無意識なのか、兄はため息をつきながらも私の頭をなでてくれて、私は一生懸命、兄の足をさすり続けて。

 

 そんな、特に意味のないことを2人で繰り返していた時。

 私たちは複数の子供が騒ぐ声を聞きました。

 

 どうやらケンカのようでした。少し先に小さな広場があって、そこで7、8人の子供が言い争っています。

 その言葉の意味はよくわかりませんでしたが、自分とそう年の変わらない子供が泣いたり叫んだりしている光景に不安を覚えた私は、とっさに兄の手にしがみつきました。

 

「…………」

 

 一方の兄は、じっと子供たちの様子を注視していました。

 ついさっきまで疲れてぼんやりしていた瞳に、ほんのわずかな意志の光を宿して――。

 

 それから兄はふらりと立ち上がり、私の手を引いて。

 古びてはいるけれど大きな建物の前に――ノエル孤児院の門前まで、私を連れて行き。

 そこで私たちは、長いお別れをしたのです。

 

「さよならだ、イリス」

「やだ! 行かないで」

 

 走り去ってしまった兄を、私は追いかけようとしたのですが。

 何しろ3つの子供が、2日続けて森で夜を明かした後のことです。

 体力の限界だったのでしょう。足がもつれて、転んでしまって、その場でわあわあ泣いていたら、誰か大人の人が気づいて助けてくれた気がします。

 

 ――私の「あの日」の記憶は、ここまでです。

 

 ベッドの中で、私はゆっくりと目を開けて、追憶の中から意識を浮上させました。

 

「あなたの言う通りですね、兄さん……」

 

 私は、何も見ていません。

 お父さんとお母さんがどうやって亡くなったのかも。

 自分の故郷が、どれほどメチャクチャにされたのかも。

 あの怖い人たちが、兄に何をしたのかも。

 どうして、兄の衣服が血まみれだったのかも。

 

「あれは、あなたの血ではありませんでしたよね」

 

 仮にそうなら、命に関わるほどの重傷です。あんな風に動けるわけがない。

 

 つまり、あれは他人の血で。

 

 あれほど大量に血を浴びたのは――。

 あの怖い人たちがしつこく追いかけてきたのは――。

 兄がノエル孤児院に留まることを選ばず、逃げるしかなかったのは――。

 

 ……考えられる可能性はあります。でも、それはただの推測です。

 私は「あの日」のことを見ていない。正確には、ほとんど何も見ていないのですから。

 兄があの日を境に変わってしまったのか、それすら確かなことは言えないのです。

 

 強烈な幼児体験やトラウマが、人格形成に深刻な悪影響を与えることはあると言います。

 

 けれど、今は戦乱の世です。私たち兄妹のような体験をした人は、きっと星の数ほど居るでしょう。

 その全てが「ベルン・ヴァロウ」のような怪物になるわけではありません。悪魔と呼ばれるほどの非道に手を染めるわけでもありません。

 私にはやはり、彼のことが理解できない。兄もそれをわかっていたから、あんな風に冷たく、私を突き放したのでしょうか。

 

 ……でも。

 あの日の出来事が、私たち兄妹の道を2つに分けたのだとしたら。

 私が「何も見ていない」から、私は私のまま、変わらずに済んだのだとしたら。

 それは、あなたが私を、全力で守ってくれたからではないのですか。

 

 惨い光景を見なくて済むように。怖い人たちに捕まったりしないように。

 

 あなたが守ってくれたから――かばってくれたから、私はノエル孤児院で、貧しくとも優しい人たちに囲まれて、幸福と呼んで差し支えない子供時代を送ることができたのではないですか。

 

 それなのに。

 私が、今のあなたをこのまま放っておくことができると、どうしてあなたは思うのでしょう?

 普段は無駄に頭が良いくせに、どうしてそんな所だけ馬鹿なんですか。

 

「馬鹿ですよ、本当に……」

 

 けして相手には届かない場所でつぶやいて、私はひとしきり泣きました。

 悪魔のように残酷で、悪知恵ばかりよく回って、意地悪でひねくれていて、ごく(まれ)にだけ優しい――私の、ただ1人の肉親のことを想って。

 

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