決戦の日。先に動いたのはフラメール・エイリス連合軍の方でした。
まずは砲撃を仕掛け、その後に突撃兵で攻めてくる、という塹壕戦としてはオーソドックスな戦法で、数の優位を活かして押し寄せてきたのです。
フラメールの侵攻以来、両国の国境線では数多くの戦いが繰り広げられてきました。
森は焼かれ、大地は砲弾でえぐれ、そこに雨水が貯まって沼地のようになっていました。
10年、塹壕戦が繰り返された西部戦線ほどではないにしろ、土地が荒れ、足場も悪くなっていたのです。
ただでさえ、重装備を身につけての進軍は楽ではありません。
連合軍の兵士たちは、時に沼に落ち、ぬかるみに足をとられたりしながら、それでも前進を続けました。
そうして、先発隊がオースティンの塹壕を視界にとらえた頃。
そこは奇妙な静けさに満ちていました。
準備砲撃で焼かれ、いまだもうもうと煙が立ちこめてはいましたが、敵の銃弾が飛んでくることはなく、それどころか人っ子1人見当たりません。
――罠か?
前線の部隊から無戦で報告を受けた指揮官は、まずそう考えたと言います。
ちなみにこの日、連合軍の指揮をとっていたのは、フラメールの総司令官フォヴィスでした。
装備や兵の練度で勝るオースティンに対し、前線の兵士の命を、まるで物のように消費し続けることで対抗した人物です。
そのため後世の評価はけして高くないのですが……、とはいえ彼は、けして無能な将というわけではありません。
報告を聞いたフォヴィスは、すぐに状況を理解しました。
オースティンはこちらの攻撃のタイミングを読み、前線の兵士を敢えて
それはつまり、味方の準備砲撃を無効化されたことを意味しますが、フォヴィスは慌てませんでした。「攻めさせて返り討ち」はベルン・ヴァロウの得意戦法でしたので、そういう手を使ってくることも予想の内だったからです。
砲撃で敵兵の数を減らすことはできなかったものの、代わりに得たものはあります。
両軍の塹壕陣地の距離はおよそ数百メートル。各塹壕間の距離は平均すると20メートルほど。
砲撃の有効射程距離を考えるなら、オースティンは2層目までの守りをほぼ捨てている計算になります。
労せずして敵の塹壕を奪える上、こちらには圧倒的な数の優位がある。
ならば2層目までの塹壕をきっちり確保した上で、後続の部隊とも連携して、一気に攻め立てようとフォヴィスは考えました。
しかしながら、放棄したと見せかけて、実は魔法罠等の仕掛けが多数ある、ということもありえます。
何しろ敵は「オースティンの悪魔」です。どんな
偵察を出し、慎重に時間をかけて調べさせた結果。
オースティンの塹壕には、1層目にも2層目にも、罠らしきものはほとんど見当たらないということがわかりました。
そこには食べかけのレーションや、割れたランタン等が転がっていて、まるで砲撃の直前に慌てて退避した、とでもいうようです。
敵の進軍を少しでも遅らせようとしたのか、大量の油が撒かれた箇所もあり。
あるいは「どうせ敵に渡すのなら」と、生活用水や汚物でわざと汚したような場所もありました。
それは全体的に見ると、どうにも稚拙で、苦しまぎれと呼ぶ他なく。
逆に「何か裏があるのでは?」と強く匂わせるものでしたが……。
結局、フォヴィスが選んだのは「前進」でした。
なぜなら、その「裏」の正体が何であるか、彼の頭脳では看破できなかったからです。
連合は大軍で、オースティンの陣地からはいまだ銃弾の一発も飛んできません。
「何だか嫌な予感がしたので撤退しました」では、いくら何でも格好がつかないからです。
たとえ、それがこの時の連合軍にとって唯一の正しい選択肢であったとしても。
誰にも、仮にあのシルフ・ノーヴァが指揮をとっていたとしても、そんな選択はできなかったでしょう。
事実、この時のシルフは後方司令部で前線からの報告に耳を傾けながら、じっと戦況を見ていたそうですが。
状況に違和感を持ちこそすれ、兵を退くべきだとまでは思っていなかったようです。
かくて前進を選び、オースティンの塹壕の三層目に向かって、突撃をかけた連合軍。
そこで初めて、彼らは激しい抵抗を受けました。
ズラリと並べられた機関銃から間断なく降りそそぐ銃弾が、味方の兵士を物言わぬ肉塊へと変えていく中、それでも連合軍の兵士たちは前に出て、騎士道精神を叫びながら、ひたすら前進を続けて。
そのまま数の暴力で押しきり、三層目だけでなく、四層目の塹壕までもその日のうちに奪取しました。
西日が差し始める頃、辺りには連合軍の兵士たちの勝ち
恐るべき死の罠に、自分たちが捕らわれてしまったことを知らぬまま。
つかの間の勝利に酔った兵士たちは、ほんの数時間後に地獄を見ることになるのです。
*****
一口に「毒ガス」と言っても、さまざまな種類があります。
今回ベルン・ヴァロウが使用を決めたのは、以前使われた黄緑色のガスではありませんでした。
あの鉱山戦線の後も、「より使用しやすく、性能の高いものを」と軍に依頼され、タクマ医師はひそかに開発を続けていたのです。
そうして完成した毒ガスは、以前のそれとは全くの別物でした。
その「薬品」は、常温では無味無臭の「液体」。不純物が混じると、洋辛子のような黄色になります。
効果は遅効性。何時間もかけてゆっくりと、呼吸器ではなく皮膚から浸透し、やけどのような
極めて強い浸透性を持ち、なまなかな装備では防ぐことができません。ましてこの時代、性能の高い防護服はまだ発明されていませんでした。
荒れた国境線の土地に。砲弾痕にできた沼地に。あるいは塹壕内に。
周到にカムフラージュを施して撒かれた油は、実はこの「薬品」の溶媒でした。
帰化すれば殺傷力が高い毒ガスとなるその薬品を、ベルンは敢えて液体のまま使用したのです。
風銃では防げない、そもそも毒ガスだと気づくことすらできない武器として。
結果、連合軍の兵士たちは、その毒性の高い薬品を体のあちこちに付着させたまま、半日以上も戦い続けることになりました。
途中で違和感に気づいた兵士も当然居たことでしょう。
しかし、それらは戦闘で負った傷の痛みや、戦場で異常分泌されたアドレナリンのもたらす高揚感にまぎれてしまいました。
彼らが異変に気づいたのは戦闘が終わり、勝利の余韻も冷めた夜のこと。
突如として視力に異常をきたす者、主に下半身に重篤な爛れを起こした者が続出し、塹壕内には彼らの悲鳴があふれ返りました。
その光景はまさに、地獄そのものだったでしょうね。
連合軍の指揮官フォヴィスは、たまらず撤退を決めました。
しかし陣地に逃げ帰ったところで地獄は続きます。
その「薬品」の正体を彼らは知らないのですから、当然、正しい治療法とて知りません。
たとえ【
呼吸苦にのたうち回り、口から血を吐き、体中を焼け爛れさせてもがき苦しむ患者たちを前に、為すすべもなく立ち尽くすばかりです。
そもそも【
その日、前線に出た連合軍の兵士は10万人超。症状が出ているのはそのうち3割ほどでしたが、それでも3万人以上です。全て救えるだけの衛生兵など、居たはずがありません。
被害者の症状から、何らかの毒物が使われたことを察した衛生兵は居たようです。
治療にあたった人間の中にも皮膚の爛れを訴えた者が居たことから、「被害者の体にふれるな」という命令が出たのも自然なことでした。
被害者が身につけていた衣服や装備も危険だ、さわるな、という流れになるのもわかります。
が、その「危険な衣服」をあろうことか燃やして処理しようとした部隊が居たために、毒の煙がベースキャンプの一角を覆ってしまう、という二次被害が起きたりもしました。
この「薬品」の被害を受けた3万人のうち、数日のうちに命を落とした兵士がおよそ千人。
それ以外の兵士も前線で治療できるレベルではなく、全員が負傷兵として本国に送り返されることになりました。
この大量の患者たちは、フラメール・エイリスの医療をあっという間にマヒさせてしまうことになります。
フラメールが誇る英雄アルノマも、旧サバトの天才シルフも、これには為すすべがなく。
阿鼻叫喚のベースキャンプで、ただ呆然と立ち尽くすばかりだったと言います。
「貴様があの日、あの時、奴らを見逃した結果がこれだ」
責めるでもなく、いっそ悲しげに、シルフはアルノマさんに告げたそうです。
「あれは人間じゃない。確実に祓わねばならない悪魔なんだ……」
「…………」
アルノマさんは言葉もなく、血が出るほど強く
そして、シルフもまた。
戦う意味を奪われ、暗く絶望に染まった瞳に復讐の炎だけを宿して、じっと目の前の惨状をにらみつけていたのでした。