悪魔を愛した少女の日記【完結】   作:結寄

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終章 2人の故郷
55話


 黄色いタンポポの花が咲く田舎道(いなかみち)

 (うら)らかな春の陽差しを浴びて、私は歩いていました。

 

 風にそよぐ木々。どこかで鳴いている、可愛らしい鳥の声。

 

 銃声も砲弾の音も、ここでは聞こえません。

 暖かで、静かで、平和そのものでした。

 

「まるで夢みたいです」

 

 ゆっくりゆっくり、歩を進めながら、私はその平和を噛みしめていました。

 

「もう1度、あなたとこの場所に来られるなんて――」

 

 良かったな、と兄が答えました。

 

 彼はつかず離れずという感じで私の後ろを歩いています。

 まるで、私が急に転ぶんじゃないかと心配しているみたいに。もう小さな子供ではありませんのに、おかしいですね。

 

「この先が昔、私たちが住んでいた場所なのですよね?」

「ああ」

「今でも人は居るのでしょうか?」

「村の北側には、多少は居るみたいだけどな。昔、サバトの工作員に焼かれた辺りは、その後、住人が戻ることはなかったらしい。生き残った村人も、シルフ攻勢の時に逃げたり死んだりした」

「……では、今、この辺りに住んでいるのは」

「最近になって移り住んだ奴らだろうな。ここはマシュデールに近いから、他の場所よりは安全だと思われたんだろ」

 

 私たちが言葉を交わしていると、道の前方から複数の足音が近づいてきました。

 

「ベルン様」

 

 聞こえたのはクルーリィさんの声でした。

 

「ご実家の周囲一帯を確認して参りました。ほぼ間違いなく無人で、安全性については問題ありませんが……」

 

 そこで彼は気遣うように声を落とし、

 

「人の出入りがないせいでしょう。この先は少々道が悪く、イリス様が歩いて向かわれるのは……」

「そうか。ご苦労」

 

 短い沈黙が落ちて、なんとなく視線が自分に集まっているような気配を感じました。

 

「私は大丈夫ですよ? 杖もありますし、多少の悪路でも歩けるように訓練してきましたから……」

 

 別に強がりというわけでもなかったのですが、2人には聞いてもらえませんでした。

 

「どうなさいますか? ご実家のあった場所までは誰かが介助を――」

「いや、いい。俺が運んでく」

 

 ベルンはやおら私の体をかつぎ上げると、「おまえらはここで待ってろ」と言い置いて、さっさと歩き出しました。

 

「ちょ、兄さん!」

「うるさい、じっとしてろ」

「私は荷物ではありません! もう少し優しく運んでください!」

 

 抗議の声は無視されました。

 クルーリィさんたちの気配が後ろに遠ざかり、鳥の声と風の音以外、何も聞こえなくなって。

 

「よし」

 

 兄が私を地面に下ろしたので、「もう着いたのですか?」と聞いてみると。

 答えの代わりに、彼は私の体を横抱きにして持ち上げました。

 

「なっ! 何を」

「は? 優しく運べっておまえが言ったんじゃねえか」

「……っ!」

「何だ、不満か? さっきの持ち方がいいのか?」

「……いいえ! 不満などありません!」

 

 そうか、と軽くつぶやいて、兄はまた歩き出しました。

 

 不満はなくても、実はものすごく気恥ずかしかった私は、視界に兄の顔が入らないよう、目をつぶっていました。……もっとも、たとえ目を開けたところで、今は輪郭くらいしかわからないのですが。

 

 ゆらゆらと揺れながら、運ばれることしばし。

 

「多分ここだな。クルーリィの奴、律儀に目印までつけてやがる」

 

 聞こえた声に、私はそっと目を開け、視線を巡らせてみました。

 森の緑と、空の青。足元には、太陽の光を集めたような黄色が広がっています。

 

「ここが、私たちの家……?」

「ああ。そっちに柱の跡が残ってる」

「……下ろしてください」

「気をつけろよ。何が埋まってるかわからねえからな」

 

 地面に下ろされた私は、少しずつ前に進みました。

 足元から伝わってくるのは、雑草に覆われた地面の感触で。

 兄が私の手を取って「ほら」とさわらせてくれたのは、木製の何か――おそらくは壁の一部と思えるものでしたが。

 

「他に、家の名残のようなものは……」

「見える場所にはないな。掘り返せば何か出てくるかもしれんが」

「何も、なくなってしまったのですね」

「そうだな。……がっかりしたか?」

 

 いいえ、と私は答えました。

 

「ここに、あなたと来るのが夢でしたから。かなえてくださって本当にありがとうございました」

「このくらい、お安いご用だよ」

 

 白々しいセリフに、私は笑ってしまいました。

 

「前に同じことを頼んだ時には、それは冷たい対応をされましたけど?」

「……っ!」

「さすがのあなたも、こうなってしまった妹には多少の同情を覚えるのですね」

「……同情じゃねえよ」

 

 そう言って、彼はほとんど鼻先が触れあう距離まで、私に顔を近づけてきました。

 

「見えるか?」

「はい。今は怒っていますね」

 

 見なくても、声でわかりますけどね。この数ヵ月、生活を共にする中で、兄の声音に込められた感情の変化にはかなり敏感になりましたので。

 

「あのな。昔、おまえと別れた後で、俺はマシュデールで路上生活をしてた」

 

 私は息を飲みました。

 兄は自分の過去について語りたがりません。こちらから尋ねても、大抵いつもごまかしてばかりでした。

 

「その時に1番嫌いだったのが、その『同情』ってやつなんだよ。自分より惨めな奴だって決めつけて、見下(みくだ)してるのが見え見えだったからな」

「…………」

「たとえおまえが落ちぶれて体を売るようになったって、俺は同情だけは絶対してやらない」

「……申し訳ありませんでした」

 

 軽い気持ちで地雷を踏んでしまったことを察した私は、素直に謝ることにしました。

 

「ん。わかればいい」

 

 そして兄は、意地悪も嫌味も言わずに、あっさり許してくれました。

 そういうところが明らかに前より優しくなっていて、それが私には不満なんですけどね。

 

 兄から見れば私は、勝手に病んで、勝手に毒を飲んで、勝手に視力を失った迷惑な妹ですのに。

 同情でないなら、いったい何だというのでしょう。この人に限って、罪悪感というのはもっとないと思うのですが――。

 

 

 

*****

 

 その後、私は兄に頼んで、咲き乱れるタンポポの花をつんできてもらいました。

 優しい黄色。素朴な野の花。まだかすかに視力の残る右目にうんと近づけてみれば、花の形もわかります。

 

「……可愛い」

 

 私はこの花が好きです。昔からずっと好きでした。

 数少ない、兄との思い出の花でもありますし。

 私が今、こうして生きていられるのも、実はタンポポのおかげだったりするのです。

 

 正確には蒲公英茶です。

 あのお茶はタンポポの葉や根を乾燥させて作ります。ビタミン・ミネラルが豊富で、血行を良くしたり、体内の良くないものを輩出したりする効果もあります。

 

 私が飲んだ毒の種類はわからなかったので、「あくまで推測」と医師には言われましたが……。

 薬湯(やくとう)に近い性質を持つ蒲公英茶に混ぜて摂取したことで、毒の成分が多少でも弱められた可能性は否定できない、とのことでした。

 

 ただ、仮にそれが事実だとするなら、疑問が生じます。

 あのシルフが、憎んでやまない「オースティンの悪魔」を毒殺してやろうという時に、そんなお茶の効果くらいでどうにかなるようなものを選ぶでしょうか。

 

 ベルンの好物が蒲公英茶であることは結構有名な話ですし。

 些細な情報だからと、見逃された可能性はありますが……。それでもやはり、腑に落ちないのです。

 あの善性の少女は、仇敵を殺す時でさえ非情になりきれなかったのでしょうか?

 

「単に、長く苦しめてやりたかっただけじゃねえの?」

 

というのは、ベルンの意見です。

 

「死んでもいいが、生き残って後遺症に苦しむならもっといい。毒ガスの返礼にもちょうどいいしな」

 

 まあ、そういう風に説明した方が筋は通りますけど……。

 シルフはあなたほど合理的な思考はしないのですよ。

 あなたより人間くさい分、不合理で不可解な部分を持っている。だから、つい色々と考えてしまうのです。

 

「こんな目にあわされてまで、あの女を善人呼ばわりしてるおまえの方が俺には不可解だよ」

「……彼女とは友人のような関係だったこともあるので」

「向こうはそう思ってない。気づいてないようだからはっきり言うが、おまえに毒を渡した時点で、多分、こうなることも狙いのひとつだったと思うぞ?」

「まさか」

「おまえが言われた通りに毒を盛るはずだって、あの女が考えてたっていう方が『まさか』だろうが。動機が復讐なら尚更だ。本気で苦しめてやりたいなら、狙うのは本人より――」

 

 そこで唐突に、ベルンの声が途切れました。

 

「とにかく、そういうことだ。あの女をいい人扱いするのはやめろ。聞いててムカつくんだよ」

 

 何やら早口で話をまとめてしまいましたが……、まあ、言わんとすることは理解できます。

 実の妹に毒を盛って、後遺症で苦しむ体にして、一生その姿を見せつけてやろうとした、というわけですか。なるほど、高度な復讐ですね。

 

 ただ、シルフは私たちの血縁関係を知りません。

 私にとってベルンが「大切な人」でも、ベルンにとっての私はそうじゃない、とはっきり言っていました。

 だから、ありえないのです。シルフが私を狙っていたなんて。

 

 私がこうなったのは、ひとえに私のせいです。

 報告を怠り、1人で悩んで、心を病んでしまった結果です。

 

 本当に、つくづく馬鹿なことをしたと思います。

 冷静になってみれば、あんな行為には何の意味もなかったとわかるのに。

 どうしてあの時は、他に方法がないかのように思い込んでしまったのでしょうか。

 

 いくら考えても、悔やんでも、起きてしまったことは取り返しがつきません。

 

 あの毒は神経に作用するものでした。

 毒を飲んだ直後は、体がしびれ、呼吸さえ困難になり、衛生部の皆さんの治療で一命を取り留めた後も、数々の後遺症に苦しめられました。

 

 今でもたまに、体の節々が痛む時があります。天気の悪い日は特に。最近はだいぶ落ち着いた気がしますが、一時は夜も眠れないほどの激痛に(さいな)まれました。

 

 体もすっかり弱くなりました。

 半月前に風邪をひいた時には、なかなか熱が下がらずに困りました。今回の予定も、延期しなければならないだろうと言われていたほどです。

 

 何より、視力が極端に低下してしまいました。左目はかすかに光を感じる程度、右目はぼんやりと物の輪郭がわかる程度です。

 

 当然のことながら軍人であり続けられるわけもなく、現在は退役しています。

 

 ベルンの方は今でも軍部に身を置いていますが――連合軍との戦争は、あれから間もなく終わりました。

 

 私が生死の境をさまよっているうちに、あれほど苦労したのが嘘のように、あっけなく終わったのです。

 

 きっかけは、際限なく高騰する物価に怒った市民が、フラメールのあちこちで暴動を起こしたことでした。

 そこにシルフやアルノマさんら、反政府派の暗躍があったのかどうかはわかりません。

 ともかく国のあちこちで頻発する暴動に音を上げたフラメール政府が、現実的な条件で講和を求めてきたことで、ようやく停戦が実現したのです。

 

 正確には、結ばれたのは「休戦協定」です

 残念なことに両国の政府には、いまだ戦争の継続を望んでいる人たちが居るのです。

 実際にはどちらの国も戦争を続けられる状態ではないので、いずれ本格的な終戦協定を結ぶことになるとは思いますが。

 人間の愚かさには際限がないので、油断はできません。

 

 私が毒の後遺症からどうにか回復し、ウィンの病院を退院したのは、停戦からおよそ3ヵ月後のことでした。

 現在は兄がウィンに借りてくれた家で、つましく暮らしています。

 

 正しくは兄もその家に住んでいるのですが、何しろ彼は非常に多忙な身の上です。

 私の生活のお世話をしてくれたのは、サバト人の癒者、アニータさんでした。

 

 目の不自由な私を1人にしておけない。かといって信用できない他人を家には置けない。

 そんなわけで、兄がサバト経済特区から呼び寄せたのです。もちろん、セドルくんも一緒に。

 可愛いセドルくんと過ごせたこの数ヵ月は、夢のように幸せでした。

 

 アニータさんの協力のもと、日常生活の訓練も行いました。

 家事も自分でできるようになりました。掃除や洗濯はもちろん、料理にも挑戦して、兄に振る舞うこともできました。

 

 当の兄は「おまえが台所に立つのは心臓に悪い」と言って、何だか迷惑そうにしていましたが……。できあがった食事については、文句も言わずに完食してくれました。

 

 そんな些細なことでも、まるで家族に戻れたみたいで、私は嬉しかったのです。こんな暮らしが続けばいいのにと、願わずにはいられませんでした。

 

 けれども、わかっています。

 あんな馬鹿なことをしでかした私が、このまま兄のお荷物として生きていくなんて許されるはずがないと。

 

 私がこうなったのは自業自得なのですから。

 もう少し訓練を積んで、あと少し体力が回復したら、自力で生きていく道を模索すべきでしょう。

 

 その前に、1度だけ。たった1度でいいから、かつて家族で暮らしていた場所に帰りたいと頼んだのです。

 

 それは「妹」としての最後のワガママで、ひとつのケジメでもありました。

 

 この人への愛情――もしくは依存や執着を断ち切るための。

 寂しがりやの私が家族と別れて、1人で生きていけるようになるための。

 最後の思い出作りとして、私は兄と2人で、故郷の地を訪ねたのでした。

 

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