「大真面目な顔して、何を言い出すのかと思ったら」
しばしの沈黙の後に、ベルンが浮かべたのは嘲笑でした。
「何? 俺が君に惚れたとでも思った? それで命がけで守っちゃったって?」
くっくっと喉を鳴らして笑い、
「
次の瞬間には、うさんくさい笑顔の仮面を投げ捨てて。
「おまえごときの命に、そこまでの価値があるか。痛い妄想語ってんじゃねえよ」
そう言って、彼は自分を見下ろしてきました。
それは背筋が凍るほど恐ろしい目付きでした。
つい数時間前、アダー少尉に向けていたのと同じか、それ以上に。
「そのような妄想はいっさいしておりません」
しかし激情と呼んでもいいような怒りに突き動かされていた自分は、怯まず言い返しました。
「少佐殿が自分に、人としての価値を見いだしていないことなどわかっております」
この男にとっての自分は、ちょっと面白そうな
「それゆえに、わからないのです。わからないからこそ、お尋ねしているのです」
「…………」
邪悪な本性を隠そうともせず、しばし自分を見下ろしていたベルンは――やがて、ふいっと視線をそらし。
「君の勘違いじゃない?」
何だか無理のある言い訳をかましてきました。
「助けてはやったけど、別にかばってはいないし」
「いえ、あの時は確かに――」
「あー、うるせえ、うるせえ。勘違い、妄想、イタ女の
「確かに、間違いなく――」
「だあ!!」
人の話を遮って、子供の
次の瞬間、笑みの形に口元をつり上げて、私に迫ってきました。
「わかった。認める。かばったよ。俺は君の命の恩人! 当然、お礼くらいしてくれるんだよね?」
「…………」
「あ、何? 自分から言い出しといて、礼もしないつもり? へー、意外! 君って実は不義理な子なんだなあ」
言葉の勢いに押されつつ、私は反論しました。
「いえ、無論のこと、受けた恩は返すべきと考えていますが、その前にまず、少佐殿の意図を――」
むぎゅっと口をふさがれてしまいました。
ベルンは私の顔を片手でわしづかみにすると、そのまま顔同士を近づけ、耳元でささやいてきました。
「じゃあ、結婚して?」
「!?」
頭が真っ白になりました。
今、この男は何と言いやがりましたか。……こいつと、自分が、結婚?
「君が言ってることが事実で、俺が命がけで君を守ったんだとしたら、そのくらいしてくれてもよくない?」
そのふざけたセリフと共に、ベルンの右手が、私の口から離れて――代わりに私のあごへと移動し、くいと持ち上げました。
キスされる、と。
そう悟ったのと、ロドリーくんの最期の顔が目の前をよぎったのは、ほとんど同時だったでしょうか。
上官への暴力は、大罪です。場合によっては、銃殺もありえます。
以前、レィターリュさんに忠告されたこともあります。女として上官に求められることがあったなら、拒んではいけないと。
でも、私は。
軍人である前に、トウリ・ロウという人間で。
この身は亡き夫であるロドリーくんのものです。相手が誰であろうと、黙って唇を明け渡すわけには参りません。
ゴッと鈍い音がしました。
それは私の
まさにギリギリのところで、私は亡き夫への誓いを守ることができたのです。
「いってぇ、拳かよ。普通、平手じゃね?」
ぶん殴られたベルンはといえば、いかにも不機嫌そうに殴られた顔をさすってはいましたが、すぐに人を呼んで私の拘束を命じる、とかはしませんでした。
「それで?」
そう言って、陰険な目つきで私を見下ろしてくるばかりです。
「それで、とは」
私が聞き返すと、ベルンは妙に投げやりな口調で叫びました。
「だから、返事だよ。プロポーズの返事!」
今の拳が返事のつもりだったのですが、通じなかったのでしょうか。
「死んでも、お断りします」
「あ、そ。だったら、話はこれで終わりだ」
ベルンはテントの出入口の方を指差すと、「失せろ。今後いっさい、顔を見せるな」と私に凄みました。
*****
結局、疑問の答えは得られぬままでした。
ベルンがわざと私に手を出させて、追い出すための口実にしたのでは、と。
そう気づいた時には、あれほど激しかった怒りも冷めてしまっていましたし。
だんだんと、自信もなくなってきました。冷静に考えてみれば、あのベルンが命がけで私をかばうなんてありえません。
本当に勘違いだったとしたら?
……確かに、痛い妄想だったかもしれませんね。何だか無性に恥ずかしくなってきました。
「遅かったですね、トウリちゃん」
テントを出ると、ヴェルディさんがずっと待ってくれていました。
「ベルン少佐とは何を話したのですか?」
「…………。どうか、ご容赦ください」
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ? もしも何か嫌なことをされたというなら、隠したりせず話してくださいね?」
ヴェルディさんには心配をかけてしまい、非常に申し訳なく思いましたが、いろんな意味で疲れていた私は、そのまま自分のテントに帰らせてもらうことにしました。
「……はあ」
なかなかどうして、ひどい1日でした。何とも言えない疲労感が全身に満ちています。
今日は早く休もう。今すぐ眠ってしまおう。そう思って寝具にくるまった私でしたが――。
「……っ!」
その夜は、遅くまで眠りにつくことができませんでした。
目を閉じると、日中の出来事が頭に浮かんでくるのです。
と言っても、私は修羅場に慣れています。拘束されたことも、監禁されたことも、銃口を突きつけられたことすら、トラウマになるほどではありません。
それよりも耐えがたかったのは、あの一瞬。
ベルンに抱き寄せられた時の記憶が、脳裏に蘇ってくることの方でした。
迫り来る死の予感の中で、否応なしに感じてしまった、あの男の体温。
それは、ごく普通の人間のものでした。
いえ、それ自体は当たり前のことです。いくらあの男が冷血漢でも、実際に氷のように冷たいわけじゃないですから。
ただ、状況が状況だっただけに、私は嫌悪に鳥肌が立つこともなく。
拒否感もわかず、あの男の手を振りほどこうともしませんでした。
その事実がどうしようもなく不快で、不愉快だったのです。
できることなら、あの時の記憶を丸ごと消し去りたいくらいに。
「…………」
暗闇の中で、私はむっくりと身を起こしました。
このままだと悪夢を見そうです。明日の任務にもきっと支障が出ます。
こういう時に、頼りになる人は1人。
「……ロドリーくん」
亡き夫の名前を呼びながら、私は大切なキツネの人形を荷物の中から取り出しました。
「ロドリーくん。どうか力を貸してください」
ぎゅっと抱きしめると、心が落ち着いていきます。彼がくれた優しさが、温かい思い出のひとつひとつが、胸の内に蘇ってくるようです。
私はわりと甘え癖がありまして。
子供の頃から、1人では眠れませんでした。
軍に入ってからも、近くで寝ている人や、ロドリーくんの荷物にしがみついて眠ってしまったことがあるほどで。
この狐人形は、そんな私にロドリーくんが贈ってくれたものです。
――心の安定剤だ、大事にしろ。
私が寂しがりで、孤独に弱いこと。ロドリーくんはちゃんと理解してくれていました。
彼がそばに居てくれるだけで、私は幸せだった。
今はもう、あの人は居ないけれど――。
ロドリーくんがくれた思い出だけで、私は生きていける。1人でも大丈夫。
自分に言い聞かせるようにしながら、キツネの人形をしっかりと抱きしめて眠ったその夜。
私は懐かしくて温かい、遠い昔の夢を見ました。
*****
残念ながら、それはロドリーくんの夢ではなかったのですが。
彼と同じように私に温もりをくれた、1人の少年の夢でした。
その少年の名は、バーニー・ノエル。
かつて私が暮らしていたノエル孤児院で、兄妹のように育った同い年の男の子で。
共に軍に志願し、共に西部戦線の土を踏み、その日のうちに帰らぬ人となってしまった、私の幼なじみです。
バーニーはとても心の優しい少年でした。
孤児院に拾われたばかりの頃、私は人見知りで、家族を恋しがって泣いてばかりいたらしいのですが、そんな私に手を差しのべ、温かく接してくれたのがバーニーでした。
彼はいつだって私の手を引いてくれて。
悲しい時には、そばで寄り添ってくれて。
いつもにこにこ、怒った顔なんてほとんど見せたことがない。
その夜、私が見たのは、そんなバーニーと珍しくケンカしてしまった時の夢でした。
ケンカの原因はごく他愛ないもので、私が大事にしていた人形をバーニーが壊してしまったことです。
端切れを縫い合わせただけの、粗末な人形でした。多分、孤児院の職員さんが作ってくれたものだと思います。
夢の中で、私は泣いていました。首がとれてしまった人形を抱いて、しゃくり上げていました。
――泣くなよ。
夢の中のバーニーが言いました。
――謝ったんだから、もういいじゃないか。
それはいつだって優しかった彼らしくない、ちょっとふてくされたような声で。
私が意固地になって膝を抱えていると、やがて彼の手がためらいがちに頭をなでてきました。
――悪かったよ、な? 今日は一緒に遊んでやるから、もう機嫌直せって。
その手はぶっきらぼうだけど優しくて、たったそれだけのことで、私は嬉しくなって。
今泣いたカラスがもう笑う、とばかりに彼に笑いかけたのです。
――ありがと、おに……ちゃ……。