「景色がきれいだよ」 作:人に戻った少女
穏やかに、和やかに、表面を繕って家族たちとの団欒を終わらせて、私は自室へ帰る。
悟られない程度にいつも通り。だけど少しでも早く解放されるため早足で。
眠ってないからと言い訳までして辿り着いた部屋の中、誰も耳を潜めていないことを確かめて────吐かぬように堪えていた吐瀉物を床へぶちまけた。
精神の摩耗は既に限界を超えていた。リリィの死は過去改変とは名ばかりのやり直しの中に消え去ったが、延々とリリィが死ぬ様を見続けた私の頭からは決して消えてはくれない。
耳をつんざくような悲鳴はなかった────そんなことが許されるような時間は一度たりとも許されなかったから。
損傷の激しい遺体を見ることはなかった────血霧となって肉片一つすら残らなかったから。
無惨な死を悼むことはなかった────それよりも次で終わらせるために必死だったから。
当然、リリィを殺し続けるアナベルに恨みが向かわないわけがない。
私はどうせやり直しの虚無に消えてしまうからと、アナベルを殺して八つ当たりすることもあった。
家族の情は、もはや怨敵へ向ける底なしの呪いへと変化していた。
一度、殺して。二度殺して。三度目は殺さなかった。
確かに一度目は少し気分が良いものだった。家族を殺す怪物を殺して復讐するのは、甘い蜜ではあった。
何度もリリィがそうなったように、まるで世界から消えたような有様になるほどの過剰な破壊をもたらして、泣き言一つ言わせなかったその完璧な裁きは私に惨めな達成感をもたらした。どのみち巻き戻すだけの失敗した過去だというのに、私は一瞬だけこの過去こそあるべき姿ではないかと血迷ったほどだ。
二度目は……ひどく、空虚だった。別に怪物を殺したところでリリィは帰ってこない。やる意味がないことをやったところで次に活かせるものは何もない。殺すだけなら自由に出来るのだ。リリィを、見捨てるならば。苦労することもなく行えることを行うことで、なぜ達成感を得られるだろうか。
そうして三度目で、目の前の怪物もまた私の家族であることを思い出した。殺す直前の、私に向けられる目が、どこまでも親愛に満ちたものであることを理解してしまっては、もう狂って無視することはできなかった。
つまるところ私は二度も本質を見失い、助けることより報復することを選んだということだ。狂ったフリでついに家族へ手をかけた。どうせ無かったことになるからと、私は。
リリィを助けるという状況がなければ私はその時点で自害していただろう。
家族のためだとしても薄汚い心の動きに任せて家族を殺した私が、家族を言い訳に今も生きていることを許せない。
だけど……家族の仇という恨みは消せずその怒りはアナベルへ明確に注がれていた。
度重なるリリィの死、その重みと意図的な軽視。さらにはアナベルへの愛と憎悪の板挟み。
まさしく、私はあの場から限界を迎えていたのだ。
それを、必死に抑え付けて、愛情だけを出力して、どうにか無事に終わらせた。
リリィは、信じていた、と言っていた。
だけど私はあまりに失敗しすぎた。
私の性根は既に腐り落ち、己の衝動に任せ暴れる化け物へ変わってしまったんだ。
あの時の私とリリィを手にかけたアナベルは同じ。己の腐った心から他者を害しひたすら己の悦を啜ったのだ。
いや、私のそれはアナベルのそれよりも見苦しく醜いものだった。
なにせ、アナベルは私を思うばかりにあの凶行に出た。それに対し私がアナベルを殺したのはただの八つ当たりだ。リリィをどう生かすかも考えず、ただ黒い衝動に任せて妹の命を絶った。
『やっぱり。あなたは世界のために家族を切り捨てるのね』
それは頭の中だけに響く、母の声。
ただの幻聴。妄想が生み出す忌むべき偽り。
何もかもが出鱈目の、欲望の声。
それでもそれは私の心に容易く入り込んで囁いてくる。
私の剥き出しの欲求。何より否定したい封じたはずの澱み。
『あなたが愛しているのは本当に家族なの? 本当は別の誰かじゃなくて?』
違う。私が愛しているのは家族だ。家族だけが大事で、決して自己愛の延長線なんかじゃないんだ。
私は、確かに家族を助けたんだから。だから、私は家族を愛しているんだ。
だけど、そんな主張を何もかも否定してその声は内から外へわたってくる。
それは、隠すことのできない私の本心だから。
ずっと押さえ込んで無視してきた愚かな願望。
悍ましい、負の感情。
『目を背けてるね。力があるから助けてるんでしょ? 赤の他人だって助けてるんだから』
声が響く。ただ、空虚なだけの声が響く。
今さっき吐いたばかりで胃の中には何もないはずなのに、胃がムカついてえずいてしまう。
頭も痛い。頭の血管が脈打つように痛む。
冷や汗が出てきて濡れた体が気持ち悪い。
呼吸が、息が、上手くできない。そのせいか目の前もぼんやりして意識まで霞んでいくような錯覚が生まれる。
それでも、声だけははっきりと、脳に刻まれていく。
『あなたが本当に愛しているものなんて何もない。……ああ。一つだけあったね』
その声は、私の柔らかな部分を無造作に突き刺して、醜い本心を晒していく。
そう。そうだ。私────俺には、それがあまりに重すぎて、他の全てを蔑ろにしてしまったんだ。
あの大穴から、ずっと。忘れられない。
無理やり封じていたそれが、あまりに素晴らしすぎて。
それをずっと求めていたんだ。それを手に入れられたら、どれほど幸福になるのか考えずにはいられなかった。
だけど、絶対に手に入れられないものだから、手に届かないブドウを酸っぱいんだと言い張るように、それを悪しきように言い張ったのだ。
『あなたは────楽園を本当に愛していたわね』
誰一人不幸にならない世界。大穴から投棄された全ての悪を透過して、そうして初めて見ることのできる大穴の向こう側は全ての幸福を有する楽園だった。
そこでは俺がいて、アナベルがいて、リリィがいて、アネモネがいて、父がいて、母がいて。
全員が和やかに、幸福に、豊かに、満ち足りて生きていた。
不和なんて一つもない。不幸なんて一つもない。不足なんて一つもない。不満なんて一つもない。
完全無欠な世界。誰もが夢見る桃源郷。
俺は、愛する全てよりその世界に焦がれたんだ。
あれが欲しい。
その欲求が、あれを作り出す、へ変化するに時間はあまり必要なかった。
不幸に満ちたこの世界を、幸福に満ちたあの世界のようにしてみせる。
しかしそれは倫理の壁によって阻まれた。
この世界であの世界を作るには、人の精神に差がありすぎる。
不幸に満ちた世界では幸福なんて他者から奪って手に入れるしかない。しかしそれが横行しては楽園を築いたところで壊れてしまう。楽園を維持するには、あの世界のような他者の幸福を喜べる精神へ、この世界の人間の精神を作り変える必要がある。
だが精神をいじくり回し無理やり適した精神を作り上げるのは、人の尊厳を無視した忌むべき行いだ。
あの世界は、尊厳を含めて完璧なのだ。尊厳を無視した楽園など偽りのそれで、妥協の産物。
妥協では満足できない。しかし妥協しなければ似通ったものすら作れない。
だから俺は、絶対に作れない楽園に、唾を吐いた。
楽園を作り出すために必死こいて駆け回って、それで助けた人々や村々の影響を疎んだのだ。
本当は、楽園を作り上げるために助けた。どこまでも幸福になってほしくて、どこまでも願いを叶え続けたのに。その果てで神様のように崇められて、本当に楽園が作れるんじゃないかと舞い上がったのに。
楽園を作れないと知ってしまえば、それは滑稽な見世物のように感じ始めた。
だから、幸福に狂ってしまった人たちは、永遠の夢の中に送って終わらせた。
俺を求める人たちは無視して。
『楽園が作れなくて、生きる意味が見つからないから────家族を理由にしたんでしょ?』
そうだ。俺は全てから目を背けるために、家族を愛していることにした。魔法で楽園の記憶を封じて、ただ、家族のために、良き心に従い動いたのだと、自分を洗脳してみせた。
どうせ、自分の尊厳なんて、楽園を作れないと知った時惨めに散らされたのだから。
都合が良かったんだ。
愛されているのは分かってた。ただ、愛し返せなかっただけ。
でも、記憶も認識も変えてしまえばお互いに愛し合っていたと思い込むのは簡単だった。
全て偽り。俺の思考その一切は薄っぺらい作り物。
平衡感覚が失われて床に倒れる。いまだ床を汚している吐瀉物に重なって俺の体も汚くなっていく。
けれど、もうどうでもいいと思う。
はじめっから、どうしようもなく汚い存在が俺だったんだから。
疲れた。もう疲れたんだ。
俺は、働き者じゃない。
ベッドまで歩くのも面倒だ。ここで眠ってしまおう。
それで、眠って、起きたら。
起きたら?
嫌だ。もう、起きたくない。
よくやったじゃないか。怠け者にしては、一生懸命だったさ。
だから────二度と醒めない楽園の夢を、見せてくれ。