「景色がきれいだよ」   作:人に戻った少女

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悪夢

 俺が大穴から転がり出てまずしたことは、荒れ果てた筈の世界がなぜ穏やかになっているのか調べることだった。

 まさか別の世界に迷い込むなんて考えていなかったから、俺が発端になって起きた戦乱の跡が影も形もないことに違和感を持った。

 そうして、この世界が俺の生まれた世界とは違う世界だと知った。

 俺の父と同じ名を持つ男は剣より妻を愛しているし、俺の母と同じ名を持つ女は権力より夫を愛している。

 何より、その二人から生まれた子供は、まるで俺の妹のようだった。

 アナベルというあの子の名前ではなく、俺と同じ名前のプラムとして、その子は生きていた。

 親はお互いを愛しその結果として子を授かり、そして混じりっ気のない清らかな愛を注いでいる。その愛を受け子は善く育ち親へ愛を返す。

 この世界のガーデン家は、そういう善い場所だった。

 遠見の魔法でその有様を覗くたびに、俺は狂おしい感情に囚われた。

 もしあの子が真っ当な場所に生まれてくれたならば、あの子は俺が見ている女の子のように、幸せに生きていられたのだろうか。

 なぜあの子はあのように幸福な世界で生きることができなかったのか。

 あの子はあの笑みが溢れる場に存在することが許されないのに、どうして世界一つ違うだけでここまで幸せが満ち溢れているのか。

 羨望。疑問。嫉妬。

 それらは俺の中で駆け巡り、フラフラとその現場まで俺を動かした。

 暮れる日が放つオレンジ色の光が俺を透過し部外者のように俺を排斥している。大穴の中で肉体が朽ちて、魂だけの存在になった俺はそんな被害妄想を生み出したことを覚えている。

 夕暮れ時、妖しく大地を照らす陽光は決して俺の影を作ってはくれない。それが、俺と、そしてあの子を認めないように思えて、酷く腹がたっていた。

 心の余裕が無かった。ただ、この幸せそうな世界でも存在を認めてほしくて、俺は俺のではない、でも確かに俺の家である場所へ突き進んで行った。

 

 太陽はすぐに沈み、俺の心はさらに掻き乱されるようになった。

 夜の闇は大穴に吹き荒れる『不幸』を思い出させる。

 『不幸』は俺に様々なものを見せていった。

 その中でも印象的なものは、俺があの子を殺す可能性。

 俺ではなくあの子が魔法を作り出し、それによってあの子が復讐してくるのではないかという杞憂に心を蝕まれ、寝静まった夜にあの子のいる地下牢へ忍び込み、剣であの子を殺す。

 実際に俺がしたことではないとはいえ、それを見せられるのは苦しかった。その可能性はふとした瞬間に頭を支配し、存在しない俺への憎悪と死んでしまった妹への悲しみで心を満たしてくる。

 あの地下牢と光ない夜は、とても似ている。

 だから、足もないのに走ろうとする。走って頭を空っぽにして、楽になろうとする。だが足もない俺ではより速く動くこともなく、疲労で思考を掻き消すこともできない。

 まさしく生きる人を呪う怨霊の有様。もはや俺は死人でしかなかった。

 

 それでも、日が明ける頃にはガーデン家が有する館へ辿り着いていた。

 そこは俺が住んでいた屋敷よりも随分と小さく、神の血を引く高貴な存在が住むとは思えないほどの規模だった。

 それすら、俺は鼻について仕方なかった。

 まるで、高貴さは物ではなくただその存在だけによって証明されると、そう言われている気がして。

 世界の全てを望みその様を体現した華美で豪奢なあの屋敷とは違い、慎ましくしかし厳かな品格に満ちたこの屋敷は、真に貴い場所に思えた。

 それを前に、俺はただ醜さのまま侵入して、幸せな子供の前へと現れた。

 あの子と同じ色の髪。だがあの子と違いよく手入れされ跳ねることもない、艶やかに伸びた髪

 あの子と同じ色の瞳。しかしあの子とは違う希望と夢に満ち輝かしい未来を見つめる、諦観が存在しない目。

 あの子と同じ色の肌。けれどあの子とは違って明るい日の下に照らされながらその色を失わなかった、生命力に満ちた肌。

 あの子に似ているのに、こんなにあの子と違う。

 俺はこの子供が羨ましくて仕方なかった。

 

『お兄ちゃん、誰?』

『俺は────お兄ちゃんなんだ』

 

 だから、陥れようとしたんだ。

 そう、初めは陥れるためだったんだ。

 

『俺は、お前のお兄ちゃんなんだ。だけどちゃんと生まれてくることができなくてな。本当はずっといたんだぞー』

『そうなの!?』

『おう。可愛い妹を持てて幸せだなーって思ってたんだ』

『可愛い? へへ。そうでしょー。お母さんにいっぱいそう褒められるんだ!』

 

 バカなガキ一人騙してあの子を蘇らせた後、この子供とあの子をすり替えてこの幸せな場所を奪ってやろうと考えた。

 だって、こいつらだけずるいじゃないか。幸せに生まれて、そのまま幸せに生きるなんて。俺たちは、そんな幸福になんて恵まれなかったのに。

 そう考えて、あの子を取り戻すために何もかも犠牲にするつもりだった。

 

『今日も魔法が見たいのか?』

『見たい見たい!』

『何が見たいんだ? なんでも見せられるぜ』

『遠くを見るやつ! 色んなところ見てみたい!』

 

 あの子のように外を見て喜ぶその姿とか。

 

『聞いて聞いて! 今日お稽古で上手くお辞儀ができたから先生に褒められたんだ!』

『お、良かったな。ところで話は変わるが今の時間ってまだその稽古しなきゃいけない時間じゃなかったか?』

『……戻らなきゃ、ダメ?』

『俺としては、しっかりやってほしいなぁ』

 

 あの子ができなかったことを嫌々ながら懸命にやるその姿とか。

 

『今日ね! お母さんのね! 髪を結んであげたの! そしたらお母さんありがとうって! すごいでしょ!』

『うわうるさっ! 分かった、お前が親好きなのは分かったから落ち着けって!』

『へへ、へへへ。お兄ちゃんも褒められたら分かるよ!』

 

 俺とあの子には得られなかった親の愛を受けて喜ぶその姿とか。

 間近で見たそれはとても素晴らしくて、だから嫉妬した。

 きっと俺と同じ名を持つ目の前の子供が幸福に包まれるたび、俺はこいつを呪わずにはいられないのだろうと考えていた。

 それが純粋な祝福に変わったのは、ある一つの言葉からだった。

 

『お兄ちゃん。私の体、欲しくなったらいつでも言ってね』

『────なんの、話だ?』

 

 あの時ほど動揺したことはないだろう。

 俺の目論見は見抜かれていたとそう錯覚したからだ。

 しかし子供はひたすらに優しく無垢であるだけだった。

 

『お兄ちゃんは生まれてこれなかったんだよね? なら、体が欲しいのかなって』

『そんなわけ、あるもんか』

『……そっか。私はお兄ちゃんにも幸せになってほしいのにな』

 

 俺は、少女がどんな決意を持って己の体を差し出す提案をしたのか分からない。俺はそれを理解できるような善性を持っていないし、この至高の世界を放り出すほどの理由も考えつかなかった。

 しかし、全てに見捨てられたという俺の思い上がりは彼女の献身によって否定された。

 俺は、少しずつどうしようもないことをどうしようもないと受け入れることができるようになっていた、と思う。

 少なくとも、俺とあの子とは無関係な彼女を巻き込みたくないと考える程度には、分別ができるようになっていた。

 俺は、確実に絆されていった。

 善良で無垢であるが故に己を投げ捨てて他者を救う危うさを持つその子供が、決して幸福を投げ出さずに済むよう魔法を教えた。

 あの子のように奪われて昏い闇の中で息絶えることが無いことを祈った。

 俺は、一つの思いを貫き通すことができるような強さを、持ち合わせてはいなかった。

 

   ☆

 

 だから、これは悪夢だ。

 俺と同じ名前を持つ彼女の姿であの子の前に立つこの状況は、悪夢でしかない。

 夢の舞台は光の存在しない地下牢。温かみのない無機質な石の地面と無慈悲な冷たさを帯びる鉄の格子で形作られた、俺とあの子の場所。

 守るべきを守れなかった果ての姿で、俺が原因で死んでしまった者の前に、隔たりを介して対面している。

 

『どうして』

 

 あの子の声は地獄から響いてきたように重苦しく響いた。

 それは俺の後ろめたさを刺激するようで、吐き気を誘引するには十分すぎるものだった。

 俺はこの場からすぐに逃げ出したくなるが、夢の中であるこの場所は俺に一切の動きを許してはくれない。

 あの子の声を聞くしかできない。あの子の姿を見るしかできない。

 どこまでも中途半端な俺は、ただ真正面から向き合うこともできないまま、自分が置いてきたものを突きつけられるだけだった。

 

『どうして私を、諦めたの』

 

 違うと否定したかった。

 諦めてなどいない。ただ、手段を選んだだけだ。他者から奪うだけではいつか奪われる日が来る。そうならないために、みんなが幸せになれる道を探っただけなんだ。

 そう言いたいけれど、口を動かすことも許されずただ憎悪に満ちた声を受け止めることしかできない。

 不倶戴天の敵というように俺を見つめるあの子は、鉄格子を掴んで叫ぶ。

 

『嘘つき! 助けてくれるんでしょ! そう言ってたよね!? それなのに私をほっぽり出して! 全部嘘だったんだ!』

 

 違う。あの子にそんなことを言ったことは一度もない。

 だけど俺は彼女を助けたいと考えていたのは事実だ。

 俺は、あの子を助けたいという気持ちを風化させてしまった。

 それは、助けることを諦めることと何が違うのだろうか。

 穏やかで優しいあの子を切り捨てたあの両親と、何が違うのだろう。

 

『嫌いだ! 私を助けないプラムも! 私を殺したこの家も! ただ眺めるしかない外の世界も! みんなみんな大嫌い! うわぁああぁああ────!』

 

 泣き叫ぶあの子を慰めることもできない。

 俺はどうして、生まれてきたのだろう。

 

   ☆

 

 悪夢の舞台は切り替わる。

 あの赤黒い大穴の前。いや、大穴が閉じ切って凪いだ風が吹く儀式場こそが俺のいる場所だった。

 

『やだ! 痛い! 痛いよ! 助けてお兄ちゃん! どこにいるの! こんなの知らない! 助けて!』

 

 俺と同じ名前の子供が叫んでいる。しかしその姿はどこにも見えない。修復された空間を一枚隔てた向かうにいるのだから当然だろう。

 本当はこんな声なんて聞こえない。それこそ違う世界での喧騒が聞こえているような、そんなあり得ない出来事だ。

 それでも、はっきりと、苦痛と後悔に満ちた声が、俺には聞こえていた。

 

『ごめんなさい! ごめんなさい! こんなに苦しいって知らなかったの! 許して! 帰して!』

 

 その苦しみを俺は知っている。あらゆる『不幸』の可能性。あらゆる悪性に晒されるその辛さは人間をいともたやすく削り殺していく。

 俺はある程度生き世界への期待を捨て、あの子を殺した原因への恨みを持っていたから耐えられていた。

 だがあの少女はそうではない。ひたすら他者の幸福を願って動いた彼女は、自分の行動によって誰かが不幸になる可能性を受け入れられないだろう。ましてその過程が苦難に満ちた苦行である可能性なら、無垢の魂が壊れるまでにそう時間はかからない。

 大穴から流れる全ての悪は、決して善性では太刀打ちできるほどの軽いものではないのだ。

 

『お兄ちゃん! 助けてお兄ちゃん! あ、あ。髪返して! お母さんが褒めてくれた髪なの! ダメ! 私からもう奪わないで!』

 

 ただ絶望を聞くしかできない。既に大穴は閉じ切っていて、中には手出しができない。動くことが許されていない悪夢の中では、それが正しい法則だった。

 俺は彼女が最後まで幸福であることを願ったはずだ。

 だが彼女の助けになればと思い授けた魔法は、彼女を取り返しのつかない不幸へ向かわせるものでしかなかった。

 俺の力は不幸しか招かないというなら、全てを絶望へ導く大穴と一体何が違うというのだろうか。

 

『痛い! 苦しい!……寂しい寂しい寂しい! 誰かそばにいて! 私を、ひとりにしないでよ!』

 

 苦しむ子供を置いていくしかできない。

 俺は、どうして生きているのだろう。

 

   ☆

 

『ようやく気付いたの? あなたが助けられていた人に家族なんていないでしょう?』

 

 豪華で絢爛で煌びやかな女が、血塗れで目の前にいた。

 あの屋敷だ。あの下品な装飾で美しさを作れると思い上がった、俺の世界のガーデン家だ。

 そして血塗れの女は、唾棄すべき俺の母親だ。

 あの子を殺した、馬糞にも劣る怨敵。

 

『あなたはずーっと世界のために動いていたね。結果的にそうなっただけ? ふふ。本当にそう? もっと早く行動できたはずなのに、ずっと手をこまねいて自分から動かなかったくせに』

 

 それでも人の弱みを扱うのはどこまでも上手い存在だった。

 人が認めたくない醜い部分に手を突っ込んで、掻き回すことの天才。

 それで屈服させた相手を手駒にまた次の犠牲者を生み出す妖魔こそが、俺の母親だった。

 それは俺にも例外なく手を伸ばす存在だった。

 白い髪も赤い目もひたすら人間とは違う妖しさをかもしだすパーツ。そこには美しさや神秘さよりも悍ましさが溢れ出る。

 

『でも分かるわ。あなたは苦労していたものね。妹はあなたに重荷を預けてただ寛いでいただけ。あなたは代わりに背負っていた重荷を少し返しただけよ』

 

 今にも死にそうになりながら俺の心を道連れにしようとする女は、ただ俺の苦労に同情だけを示した。

 それが最も俺を腐らせるから。だから怨みの一つも浮かばせず、俺のことを案じるフリをしてきた。

 それがただの演技だと知りながら、俺は心を揺さぶられる。

 

『あなたは優しいわ。あの子の代わりに全てへ復讐を遂げて、小さな子供のために自分の全てに成り変わった復讐を捨てた。でも、哀れなプラム。そのせいであなたは独りぼっちになった。あなたが家族と思える人は消え去った』

 

 母親の言葉が全て事実だから、揺さぶられずにはいられない。

 意地になって否定するには心を打ちのめされすぎて、聞いてはいけない言葉を余さず聞き遂げてしまう。

 そして、俺の心がどろけて流れ出ていく。

 諦観と絶望だけが、俺を作り上げていく。

 

『家族を捨てて何もなくなったプラム。あの子たちに報いるための楽園を作りましょう。あの子たちの犠牲を無駄にしないための楽園を作りましょう。そうして全てを救って、ようやくあなたの贖罪は終わるのよ』

 

 母親の言葉は面白いほど頭の中に染み込んでいった。

 そうだ。楽園を作ろう。楽園をあの子たちの墓にしてしまおう。

 そうして、楽園を作って、あの子たちを弔うんだ。

 もうそれで終わらせよう。もう、耐える必要なんてないんだから。

 全ての虚構は剥がされ、俺にとって大切なものなんて既に消え去ったことが提示された。

 倫理の壁なんて俺には存在しない。何も、俺を阻むものはない。ならば、躊躇うことに何の意味があるだろうか。

 きっと俺はこのために生まれて、このために生きていくんだ。

 

   ☆

 

 それでも、小さな子供が引き留めるように、俺の手を握っていた。

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