「景色がきれいだよ」 作:人に戻った少女
夢は切り替わる。あの冷たさしかない場所がかき消えて、いつか子供が作り上げたあの花園へ姿を変える。
俺と同じ名を持つあの優しい子供が、満開の花に囲まれながら俺を引き留めるように手を引いてきていた。
今まで見ていた悪夢とは何かが違う気配を感じながら、向けられる目に見つめられることに耐えきれず目を背けてしまう。
子供の、心配で揺れるその瞳が俺のために存在しているような錯覚とそれを作り出した自身への嫌悪が混ざり合い、子供への後ろめたさが強まっていく。
俺はこの子供を地獄へ導いた愚者にすぎない。だから、俺は子供に心配される価値などないのだ。
これは、全て夢の中。都合の良い妄想の具現。浅ましい欲の果て。
だから俺は、この小さな子供の手を解き次へ行かなければならない。
この夢から起きて楽園を作る。それだけが、俺が失った者たちへの贖罪に値する行いなのだから。
それなのに。
どうして俺は、その小さな子供の手を、振り解けないのだろうか。
今にも泣きそうな子供の顔が俺の目に映る。
俺が置いていってしまった、あの高潔な子供の顔だ。
地下牢で全ての生を繋がれたあの子によく似た、琥珀色の瞳がとても綺麗なあの顔。
それが哀しみに満ちているだけで俺は足に釘を打ち付けられたように動けなくなる。決してそれをそのままにしてはいけないと心が叫ぶように、向き合うことから逃げられない。
目を背けているはずなのに、俺は子供と対面し続けていた。
俺は……いや、俺たちはただ黙りこくっていた。
お互いに、このままではいけないと思いながら何をしたら良いのか分からない、という様に固まっていた。
俺たちを囲む花々だけが、風に吹かれるまま揺れ動いていた。
「あの、ね」
先に口を開いたのは、子供だった。
震えた声で、小さな声で、それでも懸命に子供は俺に言葉を届けるため、真っ直ぐ俺を見ながら話し出す。
「お兄、ちゃんは、その……えっと」
だけれど、子供が抱いた決意はいざ口に出そうとすると霧散してしまったようで、何も話せずにそのまま萎縮してしまう。
俺は子供を安心させようと空いている手で子供を撫でようとするが、その手は躊躇いのせいで止まりそのまま空中に停止した。
それぞれが、踏み出す勇気を持てなかった。
思えば、俺たちの関係はこういうものだった。
お互いに踏み入りすぎない。相手の核心には触れない。そうして微妙な距離感のまま奈落へと堕ちていく。
だとすれば、この夢もまた、悪夢なのかもしれない。
向き合うべきに向き合わなかった。それができるはずなのに、しなかった。だからこその苦しみ。
きっとこれは最後の機会だ。今この場で、目の前の子供と向き合わなければ、もう二度と向き合うべきに向き合えないという予感が、ハッキリと俺の中に生まれていた。
子供は過去に一度踏み込んでくれていた。ただあの子を蘇らせたいがために子供へ近付いた俺に、身体をあげるとまで言ってくれていた。
なら今度は俺から踏み入るべきだ。今度こそ、向き合うべき相手に向き合い言葉を交わす。そう、すべきなのだ。
「……少し、話をするか」
「……うん」
子供はあいもかわらず鎮痛な面持ちだった。それはこれから始まる話へのもののようでもあるし、ただ、俺へのものであるようにも見えた。
きっと、俺も似た表情をしているのだろう。子供が心配するくらいに見ていられない表情だ。それも仕方ない。気分が良い話ではないのだから。
地べたに座って話し始める。いつのまにか俺の体は大人の姿になって、男になっていた。
小さな子供はそんな俺の手を握ったまま、俺の隣に腰を下ろして俺の話に耳を傾けた。
「俺はお前に、妹を重ね合わせたんだ。そして、妹の代わりにしようとした。バカだろ? 死んだ人間が恋しいからって他人にその姿を見て、そうあることを期待したんだ」
ああ。本当に愚かだ。子供は子供でしかなく、あの子はあの子でしかないというのに。俺は子供を通してずっとあの子を見続けていた。
違う人間だって知っていた。それでも重ねずにはいられなかった。だって、子供とあの子はあまりに似ていたから。容姿ではなく、在り方が。
「俺は……お前が羨ましかった。あの子がお前なら、あの子もお前みたいに幸せに生きられたはずだって考えた。あの子が幸せであることを願って、あの子が幸せじゃなかったことを心底恨んだ。お前が、あの子になればいいと思ったんだ」
あの子があの子のまま、子供の立ち位置にいれば良いと願った。それで犠牲になる子供のことから目を逸らして、これこそが俺の望みだと思い込んだ。
そうだ。俺はずっと考えないようにしていた。あの子に似た誰かを犠牲にしたところで、結局は犠牲にした誰かを引き摺るだろうことから、ずっと目を逸らした。
悪にだって理由があって、幸福は誰もが求めるものだということから、ひたすらに逃げ続けた。
燃える憤怒の火に任せて、俺は楽な方へ逃げていた。
「分かっていたさ。あの子を失った哀しみは消えない。代役を用意したところであの子にはならない。だから、言い訳をして、仕方ないんだって、自分に言い聞かせた。仕方ないって思いながら、それを認められなくて足掻いてただけだったんだ」
なんて、なんて醜い。結局俺がもたらした悲劇の核心は、決して変えられない事実を受け入れられず、浅ましさに任せて場を引っ掻き回したことなのだ。
それがあるべき全てを捻じ曲げて、幸福に進んでいくはずの未来を悲劇に塗り替えたのだ。
俺が、愛されるべき一人の子供をあの大穴へ駆り立てた。俺一人で十分なはずの大穴に、子供を巻き込んだ。
俺が全てを背負って一人消えれば、それで十分だったはずなのに。
「俺が、全部悪かったんだ。俺だけはお前の家族を始めっから幸せにできたはずなのに、俺が気持ち悪い駄々を捏ねたせいでお前たちを不幸のドン底へ叩き込んだんだ! 俺が全ての原因なんだよ!俺が────!」
「それでも! 私は幸せだった!」
子供の声が花園に満ちる。震えながらも芯が通った声は俺の泣き言を切り裂いて場に響く。
涙を流し縋り付くように抱きつく子供は嗚咽混じりに感情を口に出す。
「私は、幸せ、だったよ! お兄ちゃんの、せいなんて、思ってないから! だから、自分で自分を、傷つけないでよぉ!」
子供の涙に釣られて泣きそうになってしまう。
こんな言葉を与えられる資格なんて俺にはない。
他者の幸福を望むことができる子供を犠牲にして、自分だけ幸福になってはいけない。
だから、これはただの夢だ。
だというのに俺はその言葉を無視することができない。
自分勝手に言わせた言葉で救われてしまう。
「一人で背負わないでよ! 私、私たち、一緒に頑張ったんだから! お兄ちゃんが、好きだから、頑張ったの!」
俺と子供は、一心同体だった。
そして俺たちはお互いの思考を、価値観を、幸せを理解した。
分かっていたとも。恨まれてないなんて。それどころか親しい感情を持たれていることなんて。
それでもだ。俺の心は自身を許せない。狂おしいほどの渇望は決して俺を燃やし続けて消えはしない。あの子と子供を失ったその記憶は、同じだったはずのものを分離するには十分すぎた。
ああ。お前の美しさは決して俺とお前を同じにはしてくれなかった。お前という倫理の壁は屹立でありそして俺という憎悪の穴は深淵であった。
触れることができない対極。それを、俺たちはお互いに求めながら諦めきっていた。
俺がお前になれないように、お前も俺にはなれなかった。
互いが互いを思い合うがゆえに、俺たちは相手が悲し苦しむことになると知っていながら、相手を残すためあの地獄へ身を投げようとしたのだ。
「私、お兄ちゃんに、幸せになってほしいよ! だから……もう、私のことは忘れてよ……」
それはきっと俺の言葉でもある。お前と同じ立場ならお前の言葉を俺も紡ぐだろう。だからこそ俺の感情は変わることはない。そしてその感情はたとえ俺の立場にお前がいても同じだろう。
「忘れられるわけがないだろうが! これだけ情に絆されて! 俺たちのために全てを投げ合った恩人を! 忘れられるわけないに決まってるだろ!」
俺たちはきっと、出会った時にこうなる定めだったのだ。まるで魂の片割れに出会ったように俺たちは惹きつけられ、そして片割れを守るために揺蕩っていたのだろう。
俺と同じプラムという名前を持つ子供。それでも俺たちはまるっきり違う存在で、だからこそ俺たちは引き合わされた。
俺と同じ、それなのに違うお前は、お互いの違う部分を好き合った。
刻み付けられたその存在を忘れることはできない。
忘れることはできないから、ずっとどう接するのかしか道は残されていない。
「ああ、そうか」
簡単なことだ。簡単なことだった。それから逃げ続けたと気付いた。
つまるところだ。
「いつかお前たちを忘れるかもと不安になっていたんだ」
いつか記憶は薄れていく。声も顔も笑い方も、いつか人は忘れていくものだ。
仮に俺一人が覚えていたとしても周りはそうではない。あの子を、そしてお前を世界は忘れていく。それが、とても悲しくて、どうにかして世界にお前たちを刻み付けたかったんだ。
お前たちを、永遠に残したかった。
絶対に消えないように、確かな形として、見える場所にいてほしかった。
近くにいてほしい。目の前にいてほしい。手を、握っていてほしい。
それでも、無くしたものは戻らないんだ。
目の前にいる子供を抱きしめる。思い切り、その存在を確かめるように、強く。
それでも彼女には体温がない。俺は彼女の体温を忘れてしまったから。
彼女の呼び方が分からない。既に子供の名は俺の名に溶け合って消えてしまったから。
それでも彼女を覚えている。まだ、覚えていることがある。
忘れるかもしれない。それでも、きっと忘れないものがある。
「俺は……お前を忘れない。暖かさを忘れても、名前を忘れても。いつか声も顔も笑う姿を忘れても、お前の存在を、忘れはしない」
決意を抱くとともに子供の姿が薄まっていく。
感触が消えていく中で、子供は安心したように笑顔を浮かべていた。
花開くという言葉が相応しいほどに、その笑みは煌びやかで美しく思える。
俺はこれから彼女を忘れる恐怖と向き合わなければならない。
俺が生きる中で愛しく思う何かに出会うたび、彼女が薄れていくのを自覚しながら生きるのだ。
幸福に包まれそれに満足すれば、彼女を失っていくだろう。
その度に俺は小さな痛みに襲われる。
それでも、そこから逃げてはいけない。
「さよならだ。……俺には、眩しすぎた人」
彼女が完全に消える頃、俺の姿はあの子供の姿になっていた。
彼女の忘形見の姿で、俺はこれからも生きていく。だけれど、俺は彼女とは違う人間だ。
今までのように彼女のフリをして生きることはやめよう。俺にあの生き方は難しすぎる。
俺は俺のままでしか生きられない。
『諦めるのか』
男の低い声。あの子を失った俺の声が後ろから投げられる。
俺を蝕む俺自身の声。あの子も子供も忘れようとする俺を恨む俺の心が、夢から立ち去ろうとする俺に話しかける。
俺は、それに向き合う。その声にだけは目を背けはしない。
『見捨てるのか』
「ああ」
伸びすぎた銀髪で琥珀色の目が覆われたその幽鬼は、握り拳から血を滴らせ負の想念を溢れさせる。
俺が抱く後悔が形になったその『俺』は俺の罪を糾弾するために、鮮やかな花園で声を上げる。
『俺の罪はそれで許されるようなものではない! この世の何より重く苦しい罰が与えられなければならない! そのためにあらゆる世界で最後まで苦しみ続けなければならないのだ! お前には分からないのか! ここで、この暖かみに満ち溢れた場所で俺たちが許されて良いはずがない! 全てのプラム・ガーデンは苦しみぬかなければならない!』
その声は花を散らし腐らせていく。華やかであった花園は瞬く間に荒れ果て重苦しい死の大地に変わる。
死霊が大地を呪うさまに、夢は軋み空が崩れていく。崩れた空からは、あの赤黒い大穴がのぞいていた。
大穴からはなんとも都合の悪い、大量の不幸がこぼれ落ちてくる。
それでも俺が怯むことはない。夢の中の出来事だと知っているなら、ただの悲劇なんてただのハリボテだ。
夢の中に満ちる怨嗟を無視して、幽鬼を嗤ってやった。
「苦しまないとあの子たちを忘れる奴のことなんざ、聞く必要もねぇな」
言葉を合図に、夢は幽鬼も大穴も消え去っていく。後に残るのは子供が残した花園の残骸だけだ。
ただ惜しむことはない。咲き誇る花々の美しさはまだ覚えている。目の前から無くなっても、それを過剰に悲しんで足を止めてはいけない。
失う苦しみに壊れた心も、ただそうあり続けるままではいられないんだ。生きる限り前に進まなければならないから、持てる分だけを持って持てない分は置いていくしかない。
恨みも呪いも憎しみも、今や俺の手には余るものだ。今世の幸福を持っていくために、空きはたくさん用意しようと思っているのだから。
絶望よ、怨嗟よ。お前にもさよならを。その宿痾を宿し続けるには、子供が見せた別れ際の笑顔は素晴らしすぎたんだ。
夢が終わる。永遠の夢なんて存在しない。子供のフリではなく俺のまま、幸福と向き合う時が来た。