「景色がきれいだよ」 作:人に戻った少女
結果的にこれから作品の更新速度が大幅に遅れると思います。申し訳ありません。
唐突な悪寒にベッドから跳ね起きる。本能が、致命的な何かが発生していることを察知する。今動かなければ全てが台無しになる予感。再び大切な人を犠牲にしてしまう感覚が、俺の中に駆け巡っていた。
乱雑にドアを開け放ち部屋から飛び出る。駆けて向かう場所はアネモネの部屋。明かりない廊下を走り抜け闇夜の暗がりを突き抜ける。
理性は冷静になれと諭している。今になって俺たちに手を出すような何かはいない。そもそも、どうして真っ先にアネモネへと向かうのか。しっかり魔法で問題があるか確かめてから動けばいいじゃないか。
だけど心が、そして経験則が、それでは遅いのだと告げる。
わずかな時間でたどり着いたアネモネの部屋にドアを蹴破って侵入する。今は何よりも手間を省くべきな気がしたから。
そして俺の目に飛び込んできたものは────意識がないアネモネから垂れ流される、真っ黒な死の可能性。
「泉の水」が、アネモネの意思を介さずに溢れている。
「泉の水」に触れたものが腐れて形を失っていく。
少しでも遅れていればこの水は部屋を突き破ってこの家を満たしたはずだ。そして全てを壊し何もかもを台無しにするだろう。
俺はすぐさま「泉の水」を消し去る。
丁寧に、もう二度とこんな事態が起きないように、全ての死の可能性を終わらせていく。
拍子抜けするほどあっけなく、死の可能性は消え去った。気が抜けて地面にへたり込む。
だが、事態はそこで終わらなかった。
アネモネが「泉の水」を使う時に出現する胸の穴。そこから、人の手が出現する。それに合わせるように胸の穴はどんどん大きくなり、ついにはアネモネの身体をはみ出して周囲の空間にまで穴を開ける。
その穴から人が這い出てくる。身体の動かし方を知らないような、芋虫のような動きがとにかく不気味で不快だった。
しかしそれよりも俺は這い出てきたその人に驚愕を受けていた。
俺が呆然としている間にもその人は立とうとしては倒れ込む動作を繰り返しながら、手足の動かし方を学習する。ついには安定して直立し、俺にその顔を見せる。
その顔は、アネモネのものだった。
その表情は俺の知るアネモネとはかけ離れている。光が映らないその瞳や微動だにしない口角は、アネモネとは真逆の特徴。
それなのに、その顔はアネモネのものでしかなかった。
瞬きしない。呼吸をしていない。もはや人とは言いづらいそれと対面している。
それの口からは意味のない音だけが発せられている。それも、すぐさま声に変わり、瞬く間に言語まで昇華した。
「ずっと、会いたかったよ。お兄ちゃん」
抑揚が何もない言語はここまで不気味であったか。そう思わせるおどろおどろしいそれは、ずっと喋り続ける。
「ようやくだね。ようやく私たちは生まれたんだ。ありがとう。私たち、ずっと寂しかったからね、こうして会えて嬉しいよ。でもすぐにお別れになるから悲しいな。ほら、私たちって身体が一つしかないからさ、中でみんな喧嘩してるんだよ。身体が欲しいって。どうにかできないかな。とりあえず300億くらい身体が欲しい。本当はもっと必要なんだけどとりあえずね。「泉の水」だとこうして身体を保つだけでもすごい負担だから一人が限界なんだ。それに「泉の水」は私たちでもあるし、私たちが減るのは嫌なんだよ。だって寂しいじゃん。私たち一人だけなのに。その中の一人がいなくなったら誰もいなくなっちゃうのに。でももういい。私たちは『私』さえ連れ戻せばいい。だって私たちはみんなで生まれてこなきゃいけなかったのに、『私』は抜け駆けで生まれたんだから。私たちと『私』には差なんて無いのにね」
ぺちゃくちゃと喋り続けるそれにまともな意識を向けることができない。ただ見ているだけで悪感情が掻き立てられる。まるで、それを強制されているように。
どんな言葉を並べられても嘘くささという疑惑が頭を支配する。口以外が微動だにせず感情が見えないために、人間に対する同情が働かない。目の前の存在を人間だと思えない。
気持ち悪い。ひたすらに。
本能が叫ぶ。目の前の存在を消し去って二度と出現しないようにするべきだ。こんな存在を認めるべきじゃない。これは、大穴と同じ存在だ。存在するだけで全てを台無しにする、生まれるべきでない悪。
倫理の壁を突き抜けて大音量で鳴り響く警鐘が、俺の思考を塗りつぶしていく。今この場で、全てを終わらせるべきだ、と。
頭が割れるように痛い。その痛みのせいで思考が急速に鈍化する。理性が本能に負けていく。
それでも、それに身を任せることだけは固辞していた。
理性は、目の前の存在を排除してはいけないと、懸命に訴えていた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。私たちここまで来たよ。ひとりぼっちでもここまで来たよ。誰も居ない場所からここまで来た。だから、我が儘を聞いてよ。私たちみんなを生まれさせて。それができないなら、せめて『私』を連れ返させて。ひとりぼっちなのにそこからまた誰かが居なくなるなんて耐えられないから。良いでしょ? お兄ちゃんには他のみんながいるもんね? 一人くらい。一人くらいちょうだい。見てるだけなのは嫌。名前もないのは嫌。目しかないのは嫌。歯しかないのは嫌。髪しかないのは嫌。欠けてるだけなら許すけど、一部分しか存在できないのは嫌なの。人間じゃないものとして捨てられるのは嫌。ううん。人間じゃなくても生きてるならそれで良かった。ただ、生き物ですらない無機物になって捨てられるのは嫌。認知して。私が生き物になるかもしれなかったって、ちゃんと知ってよ。どうして私たちは生まれられなかったの? どうして『私』だけ生まれたの?」
「返してよ。不幸って心臓が無いと誰も私たちを人間って認めてくれないのに、それを私たちから奪わないでよぉ!」
目の前の何かは支離滅裂な言葉だけを吠えている。身体の動かし方を理解したのか身振り手振りを織り交ぜ、悲痛な表情に流れる涙まで添えて、号哭しながら、ただ、叫んでいる。
今では人間のフリをしている化け物から、ちゃんとした人間と言えるような完成度に迫っているほどの上手い擬態だ。
それでも、本能は未だ目の前にいる存在を人間とは認めない。
目の前の存在は人間のパーツを全種類集めて組み立てただけの模型だ。どれだけ精巧に作られていてもその心臓は動いていない。そこに血は通わない。
ただの、無機物だ。
頭が痛む。やけに、強く。
理屈ではそう簡単に片付けるべきでは無いなんてことは分かっている。目の前の彼女を拒絶することはアネモネの根幹を否定することにも繋がりかねない。だから仕方ないの一言で彼女を終わらせてはいけない。
だけど、そうなるとどうしたら良いのだろう?
世界と自分自身を呪う彼女に、俺は何をしてあげられるのだろう。
『生まれることなどあり得ない』という思い込みだけを寄る辺とする彼女に、どんな救いを渡せばいいのだろう。
彼女を生まれさせたとして、その後はどうするのだろうか。幾億幾兆と増え続ける彼女たち全員の面倒を見るなんて不可能だ。
アネモネを引き渡したところで、彼女たちは『他にも誰か生まれてくる私が出てくるかもしれない』と怯えることになる。
分からない。私には何も。
精神的なあれこれについては、俺は驚くほど無力だった。
「私たちは、人間なの! 生まれていなくても! 死ぬことすらできなくても! そう言い続けるためには、私たちは誰も欠けちゃいけない。誰も生まれちゃいけないんだ。誰か一人でも生まれたら、私たちみんな死体だから。人間じゃ、なくなるから。だからさ、そこの『私』がそこに居るのはダメなんだ。そいつはいちゃいけない。だから、譲って。私たちのために。ね、お兄ちゃん?」
「────嫌だ。お姉ちゃんは誰にも譲らない」
その声は目の前の存在と瓜二つの声だった。それなのに、夢と希望に満ちた声は目の前の存在とは対極に存在する。
意識を失っていたアネモネが、いつの間にか起き上がっていた。
珠のような汗を流しながら、歯を食いしばって、アネモネは胸裡に存在する闇と相対している。
目の前の彼女は少し驚いたように目を見開くと、アネモネへ苛立たしげな目を向けた。その眼差しは不倶戴天の敵を見るかのように険しい。
同じ姿をした二人の空気が緊迫し、苦しいものとなる。
数瞬の沈黙を経て先に口を開いたのは、アネモネだった。
「全部、全部私のだよ。絶対に譲らない。譲ってなんかあげない。私は幸せになる」
「お兄ちゃんがほしいわけじゃないんだよ。分かってる? 頭空っぽなの? 私たちの中に置いてきた? 所詮私たちとおんなじくせにかわい子ぶってさぁ。お前が私たちの中に戻れば良いって言ってるだけ。譲ってっていうのは、お前を譲ってって、お兄ちゃんに頼んでるんだよ」
「私の人生が欲しいだけで他から抜け駆けしたいだけのくせに。私の身体を乗っ取って、生まれたいんでしょ? 私には分かる。お前たちの誤魔化しが全部分かる。だって、私はお前たちだったから。今も身体の争奪戦が起きてるんでしょ。でもあげない」
「だから連れ戻そうとしてるって分からない? あと自慢しないで。殺したくなる」
「連れ戻すって? 私を連れ戻しても一度例外が起きたら次もまた起きるんじゃないかって気が気じゃなくなるのに。連れ戻したところでお前たちはもう詰んでるんだよ! だからたった一つちゃんと生まれた私の、身体を乗っ取る以外で人間になる方法はない。何もかもを望んでるくせに私一人戻ってきて満足するなんて、絶対に嘘だ!」
アネモネの言葉が、生まれてくることすらできなかった「彼女たち」に突き刺さっていく。ただでさえ険しい「彼女たち」の目に殺意すら宿る。
下手をすれば、ここで殺し合いが始まりかねない一触即発の場。あまりにも害意と敵意が溢れていた。
しかしアネモネはそんな中で表情を和らげ、「彼女たち」へ手を伸ばす。それこそが正しいと確信しているように。
「だけど、さ。それでも見捨てたくないよ。変な話ね、不幸もまとめて自分のものにしたいんだ。自分が生まれてこれなくて苦しかったことまで、全部自分のものにしたいんだ。……だめ?」
困り顔でそう言うアネモネに、「彼女たち」は怪訝な顔をするばかりだ。
だけど、「彼女たち」からは少しだけ、敵意が抜け落ちていた。
「良いわけないよ……。私たちは、お前がいかに不幸だったか示す記号なんかじゃないんだから。私たちは、自分で、生きたいんだから……」
「絶対に忘れない。私がお前たちと一緒だったこと。お前たちが人間だったこと。お前たちが……私に、譲ってくれたこと。全部、ちゃんと覚えるから」
「でも……でも……」
「一緒に行こう!」
アネモネが彼女たちの手を取る。「彼女たち」はそれに困惑した様子だ。
アネモネの決心に満ちた目は、「彼女たち」が抱く呪いを少しずつ、だが確かに解いていく。
「私は、お前たちとも一緒に居たい! だから、消えるその時まで一緒に居て。人間には、幸せな時間が必要だから……」
「私たちには、無理だよ。幸せになんか、なれっこない……」
「違う! お前たちも幸せになれる! 絶対に! だって────あり得ないはずの、私がいるんだから!」
「無邪気に奇跡へ縋りつく段階はもう過ぎたの!」
「それでも、今だけは一緒に居られる」
「今だけじゃ、足りないよぉ……!」
「彼女たち」の言葉がどんどんと幼くなっていく。それは、本来の姿に戻っているような、今までの嘘くささが剥がれ落ちたような、そんな確からしさがあった。
「彼女たち」はまるで姉に甘える妹のようにアネモネに抱きついている。そしてアネモネは泣きつく妹を宥めるように「彼女たち」を抱きしめている。
同じ顔の二人はもはや、溶け合って一人と錯覚するほどにくっついていた。彼女たちはそれぞれの立場で「アネモネ」らしく存在している。どちらも「アネモネ」であると主張するように。
「一緒にいて。そばにいて。離れないで。一人は嫌なの。『私』にまで見放されたら、耐えられないよ。できないなら、いっそ殺して……」
「ごめんね。今だけしか一緒に居られない。でも殺さないよ。大切だから。今、この瞬間しか、無理なんだ」
「ひどい、ひどいよ。私たち、ここで幸せになんかなれないよ。ちっとも、足りない……。だから、もっと、一緒にいようよぉ……」
「じゃあ、魔法の言葉をあげる。聞くだけで幸せになれる、とびっきりの言葉。これで、満足してね」
「やだ、やだよ……。言わないで、ずっと一緒にいて……幸せになんて、しないでよ……」
「私、お前たちがいてくれて、よかった!」
「他の誰かが否定しても、私はお前たちも生まれてほしいって願ってる! お前たちがどれだけ嫌なやつでも、どれだけ不幸を望んでも、幸せになってほしい! だってお前たちは私で、私は幸せになりたいし生まれたくてたまらなかったから! そして、お前たちの一人だったことを、私は嬉しく思ってる! だから────お前たちに、奇跡が起きることを、祈り続けるよ!」
アネモネの言葉を皮切りに、「彼女たち」は薄れて消えていく。まるで、欲しいものを得たように。もうここにいる意味を見失ったように。
「彼女たち」は頭をアネモネに擦り付けながら泣き声を溢し続ける。
「ばか、ばかぁ! 本当に、ほんとうに幸せにしちゃうなんて! これじゃあ、満足、しちゃうじゃんかぁ! もう二度と、顔、見せないんだから!」
「うん。もう会いにくる必要が無いくらい、幸せになって」
「う、うう……。もう二度と、会わ、会わない、からぁ……」
「奇跡が起こることを、祈ってる」
「ぁあ……。綺麗で、いて。私たちみたいに、汚く、ならないでいて……!」
「へへ、知ってた? 汚いままでも、綺麗に、成れるんだよ?」
「あ、あ、ぅわぁああああぁぁぁぁん‼︎」
俺は余計な邪魔者だって、途中から分かっていた。ここはあの二人だけの空間に変わっていて、俺が口出しする隙間なんて一厘たりとも存在しない。
それでもここに留まり続けたのは。
二人が綺麗すぎて、目が釘付けになったからだった。
そのまま「彼女たち」が少しずつ消えて散り、アネモネだけが一人残される。
「お姉ちゃん。今は、一人になりたいな……」
胸の穴が消え去ったアネモネを部屋に残して、私は蹴破ったドアを直した後自室へ帰る。
少しだけ聞こえるすすり泣きは、今だけは彼女だけの特権だった。