「景色がきれいだよ」   作:人に戻った少女

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番外編/深海でもなお光るもの

 それで終わるなら幸福だろう。それで終わらないから不幸とも言える。

 彼女たちの恨みはそんなもので治まるはずが無い。そうあってはいけない。彼女たちの生まれられない苦しみを、その場しのぎな言葉で済ませてなるものか。

 次々に湧いてくる怨嗟を必死に抑えつける。氾濫する彼女たちが私を呑み込まんとしないよう、私は深海にヴェールをかけ固く閉ざす。

 軋む。あまりにも巨大な悪意たちが、それと楔を分つ私を拒絶するように私を崩していく。

 存在しないはずの身体が痛む。知らない。私はこんな痛みなんて知らない。こんな苦しみなんて知らない。それなのに私は感知できないはずの苦痛をぶつけられている。

 理解できない感覚に全てを投げ捨て「私」のことをもう一度呪いたくなる。

 ひとりぼっちは苦しい? 今この惨状の真っ只中にいるならそんな弱音は言えやしない。

 存在するだけで皮膚をヤスリで擦り削られる感覚。それが全身に、それも骨の深さまで駆け巡る。

 元々無形である私たちには肉体など存在したことはなく、だからこそ肉体的な不都合とは無縁だった。しかしその理屈は、人の中に存在する「泉の水」を大量に使用して受肉したその経験によって、無惨に破壊されている。

 お互いへ干渉できないからこそ誰よりも安心できるはずだった私たちは、肉体を保有したことのある存在に対してどこまでも残酷だった。

 もしも実際に実体を待つ何者かがこの空間に足を踏み入れたなら、その者は一瞬に値する短い時間で血霧にまで削られて死ぬことになるだろう。

 私がいまだ意識を保っているのは、私のこの痛苦がただの錯覚でしかないからだ。今の私にはちゃんとした身体がない。身体があった際の感覚器官を想起させられ、無理やり身体が損傷する認識を叩きつけられているだけである。

 だから、身体を保有したことがない者には無害で、身体の主導権を握っていた私には効果的な攻撃。

 かつて同族だった者たちと私は分たれてしまった。

 もう私は「私たち」とは認められない。彼女たちは私を不純物として認識してしまった。仮初とはいえ、生まれることができた裏切り者と、そう考えられている。

 しかし、全てがそうであるわけではない。

 ごく少数の、「私」との別れを受け入れた私たちが彼女たちの呪いを必死に押し留めている。

 

 分かっている。奇跡なんて、起こるわけがない。

 あの「私」が言ったことなんてどうしようもない理想論で、全ての私たちとは無縁の綺麗事だ。私たちに、幸福なんて訪れることはない。

 ただの出まかせに、決まってる。

 それなのに心が動かされてしまった。なんで動いたかなんて分からない。ただおしなべられた言葉が、魅力的に見えただけだ。

 彼女たちの方が、正しい反応なんだろう。私たちがおかしいだけだ。

 今も嫉妬は鳴り止まない。時間という概念すら忘却させるほどの悠久を共に過ごした価値観たちが、安易な救済を拒絶し続けている。今も正しい世界で正しく生きている「私」への憎悪は尽きることなどない。

 私自身も、なぜ私が地獄の責苦を負ってまで彼女たちを止めているのか分からないのだ。

 どうしてだろう? どうして、私はここまで立っていられるのだろう? ここには、苦痛しか無いはずなのに。

 あるいは、このままにしてしまえば失うものがあるのかもしれない。何も有してなどいないはずの私たちにすら存在しているものが、今まさにかき消えてしまう瀬戸際なのかもしれない。

 ああ。この問いに答えなんてあるのだろうか。そもそも、答えが存在したとして私たちは納得するのだろうか。

 それでもこの問いから逃げることはしたくない。大層な思想も無いし、別に人を助けることに感情を動かすような性格でも無いけれど。

 これを捨てれば、また、元に戻ってしまいそうだから。

 奇跡。そう、奇跡なんだ。

 私たちが変化することなんて幾億幾兆の可能性を揃えても一度だってありはしなかった。私たちに与えられた可能性は、どれだけ惨めな死体で生まれてくるかでしかなかった。だから私たちは画一的な存在だった。

 だから、今初めて私たちは差異というものに遭遇したのだ。

 この差異を消してはならない。絶対に、この奇跡を手放してはならない。たとえそれが私たちに何一つ救いを齎さずとも。私たちを尻目に彼女たちだけに救いを与えるのだとしても。

 変化は生じている。その変化の果てに、この奈落へ落ちてしまう誰かが一人でも少なくなるなら、私たちの抵抗に何か意味はあるのだと思うことができる。

 

『一緒にいこう!』

 

 バカだ。私たちは何処にも行けやしない。何も相応しくない言葉だ。これほど的外れでいい加減にしろと怒鳴りたくなるほどの無理解に溢れた言葉は、今後二度と逢うことは無いだろう。

 今ここで全てを放り捨てる理由なんてこの無遠慮な一言で十分だ。

 辞めてしまえ。今全身に走る痛みから逃げてしまえ。そうして全てを諦めて他者を呪え。

 彼女たちから投げられる憤怒は雄弁に私を語る。音もなく、視線もなく、ぶつけられる欠損の錯覚だけで彼女たちは醜い私の本性を暴いてくる。

 それに呑み込まれたなら、どれほど楽なのだろう。「私」から受け取った全てなど所詮は偽りで、膨大な時間の果てに作られた価値観こそが真実なのだと受容してしまえば、私は一体どれほどの安寧を得られるのだろうか。

 私はこんな苦痛を背負う覚悟なんて無かった。これほどまでに肉体が存在することが嫌なことだなんて知らなかった。覗き見ては嘲笑っていた生物たちの不幸が、これほどまでに強大で堅牢で不動だなんて分かろうともしなかったのだ。

 

『私、お前たちがいてくれて、良かった!』

 

 でも。でも、でも。それでも。

 私はこの一線を譲れない。

 まるで足がそこに縫い付けられたように動かない。表面がどれだけ怖気付いても、芯の部分がここを死地と定めたように後退り一人もすることはない。

 理由なんてない。一つも、たった一つもだ。私には今この拷問にも似た呪詛を受け止める何かなんてない。そんなもの、この真っ黒な死の泉にあるものか。

 バカだ。そうに決まってる。こんなの自分から不幸に飛び込んでいく自殺志願者だ。そのくせ死ぬことすらできず後遺症に苛まれる死に損ない。きっと嘲笑か、ズレた同情が供えられるだけ。賢い者ならこんな選択はしないだろう。彼女たちに鞍替えして再び「私」への報復を始めるのが一番幸福に近い。それを目指さないなんて、どうかしている。

 分からない。本当に分からないのだ。

 あんな言葉で私たちが動くわけない。口から出る音なんてどうとでも偽れるじゃないか。私たちが覗いてきた世界だって、裏切り裏切られての繰り返しで信じるに値するものなんてありはしなかった。

 あの「私」だってそうに決まってる。自分の幸福のために嘘をついただけ。私たちへの情なんて何も無いはずだ。生まれた身内一人祝うことすら出来ない奴らなんぞ、唾を吐き捨て後ろ脚で砂をかけるには十分すぎるクズに決まってるんだから。

 それなのに。そうに決まってるに違いないのに。

 引けない。一歩たりとも引けない。あの「私」を穢そうと迫る彼女たちを押し止めることを、辞められない。

 どうしようもない。もはや笑いさえ込み上げてくる。

 仕方ないじゃないか。だって、何も分からないくせに、こうするべきとは思うんだから。

 危機は全く去らない。耐えたところでいつか決壊することは目に見えている。時間が曖昧な私たちでは、限界まで踏ん張った果ての崩落と何もかもを諦めての瓦解に差などない。こんなことする意味なんて、本当に無い。同じ場所で回り続けるの一言で、この出来事は言い表せてしまうというのに。

 

『他の誰かが否定しても、私はお前たちも生まれてほしいって願ってる! お前たちがどれだけ嫌なやつでも、どれだけ不幸を望んでも、幸せになってほしい! だってお前たちは私で、私は幸せになりたいし生まれたくてたまらなかったから! そして、お前たちの一人だったことを、私は嬉しく思ってる! だから────お前たちに、奇跡が起きることを、祈り続けるよ!』

 

 何かが変わるのではないかと期待することを、止められない。

 奇跡なんて起きるわけがないのに。この不幸の坩堝で幸福が落ちてくることなどあるわけがないと知っているのに。

 止まらない。止まってはならない。なにより、私自身が止まりたくないと願っている。

 たとえこの心が莫大な苦痛と時間の流れに削られきってしまうとしても、「私」が穢れてほしくないと祈ることを止められない。

 ふざけてる。自分よりも他人を優先するなんて、私らしくない。

 脳髄がこぼれ落ちる感覚。腸を引き摺り出される錯覚。心臓を貫かれる幻覚。

 これを、他人のために耐えてる?

 不可能だ。そもそも自分のためですら逃げ出すような苦痛なのに。

 だというのに、私はただ苦しいだけでは無い感情が芽生えている。

 誇らしさだなんて、気が狂ってしまったみたいだ。

 この地獄で幸福を覚えるなんて正気の沙汰ではない。

 きっと私は狂気へ堕ちてしまったのだ。甘い甘い、希望という狂気。今までの価値観全てを破壊し尽くして入れ替わりに嵌め込まれた、機械仕掛けの神様みたいな陳腐なそれが今の私を動かしているんだろう。

 じゃあ、仕方ない。仕方ないったら仕方ない。こうする理由が分かってしまったんだから、もうこうするしかない。

 

「へへ」

 

 笑いが溢れる。

 バカだ。そうに決まってる。

 だけど、憂鬱一辺倒な昔とはまるで違った行いに、少しだけ満足感があって、不本意ながら嬉しく思うことが止められなかった。

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