月光が赤みを帯びていく。いや──違う。マスキュラーの体熱で大気が歪み、景色が陽炎のように揺らいでいるのだ。
「ひゃははッ!行くぜぇぇぇッ!!」
雄叫びと共に炸裂する筋肉増強。一瞬にして三倍近いサイズに膨れ上がった右腕が空気を切り裂く。音速を超えたパンチが大樹を薙ぎ倒し、粉塵を巻き上げる。
ゼータは微動だにしない。まるで彫像のように立つ姿勢さえ崩さぬまま──
「遅い」
風が逆巻いた。否、ゼータが瞬時に姿を消したのだ。マスキュラーの巨拳が空を切る。
「チッ……どこ行きやがった!?」
視界不良の中で焦燥する彼の耳元に、囁くような声が響く。
「後ろだよ」
僅かの言葉と共に、ゼータは軽く攻撃を行う。
それは、軽い爪程度の攻撃で、マスキュラーにはダメージが入らなかった。
「その程度かぁ!!」
「へへっ!蚊に刺されたほうがまだ痛いぜぇ!」
マスキュラーは肩を揺らしながら嘲笑った。確かに彼の厚い筋肉装甲にはかすり傷一つ付いていない。
(想定内)
ゼータの瞳が微かに細まる。爪先から伝わる抵抗値から即座に判断済みだった――直接ダメージを通すなら骨格レベルまで届かなければ意味がない。
「じゃあ次は俺の番だ!!」
咆哮と共に大地が爆ぜる。跳躍した巨躯が頭上から落下してきた。筋肉が極限まで凝縮されたハンマーのような一撃が直撃コースを描く。
しかし、ゼータは髪の毛一本分だけ重心を傾けた。紙一重で通過する破壊力。轟音と共に森の一角が消滅する。
「避けやがった!? この程度が……!」
「うるさいな」
言葉と同時。ゼータの足裏がマスキュラーの肩甲骨を捉えた。体重を感じさせない軽やかな踏み込みながらも――
ゴッ!
内部に衝撃波が駆け抜ける鈍い音。マスキュラーの巨体が錐揉み状に吹き飛ぶ。
「ぐふぅっ……!」
樹齢千年を超す巨木に激突。幹に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「なん……だと……お前……何を……」
混乱するマスキュラーの視界に、木々の間から射し込む月光が浮かぶ。そこに映った自分の姿に息を飲む。
「は……?」
――腕の筋繊維が数本剥がれ落ちていた。
マスキュラーは混乱の淵で吠える。
「なにぃぃぃッ!?俺の筋肉が……剥がれてるだと!?」
宙に舞う筋繊維の切れ端を呆然と見つめる男。つい先ほどの爪痕など些細な出来事が、今は恐るべき凶器に変わっていた。
「おかしいだろぉがぁ!なんで俺の筋肉が……こんなちっぽけな傷で……!」
「教えてあげようか?」
ゼータの指先が月明かりに煌く。
「確かにお前のは固い。けれど、絶対に切れない訳じゃない」
そうして、ゼータは呟く。
「結合の弱い部分を一本一本、素早く丁寧に斬り落とす。そうすれば、お前の筋肉は脆くなる」
言葉とともに、ゼータの瞳が赤く輝く。
「お前が筋肉を増やす度に、お前は自分で死地を増やすことになる」
「っ」
それと共に、マスキュラーは目を見開く。
「まぁ、緑谷君のおかげで、既にある程度は削れているからなぁ」
そして、ゼータは再び、微笑みを浮かべた。
月光が作り出す木々の影が蠢いた。マスキュラーが震えながら起き上がる――切断された筋繊維の断端から滲む血が、剥き出しになった岩石のような肉体を濡らしていく。
(まだ立ち上がるのか)
ゼータの爪先が微かに地面を掻いた。獲物の生命力は計算外だ。しかし恐怖はない。むしろ悦びすら感じる。真価が試される時だと本能が告げる。
「へ……へへ……面白れぇ……」
マスキュラーの口角が吊り上がる。損傷した左腕が突如膨張し始めた。
「だったらもっと引き千切ってみろよォ!!」
血煙を上げながら巨大化した筋肉塊がゼータへ襲いかかる。常識を超えた再生速度と増殖速度。まさに怪物の所業だ。
(なるほど)
ゼータの両掌が瞬時に閃く。
(だが……)
「――遅いと言ったはずだ」
空中へ跳躍したゼータの残像が二重三重と重なり合う。それはまるで高速回転する刃のようだ。舞うように旋回しながら目標を捕捉。
「ぐおおおおっ!!」
マスキュラーの悲鳴が木霊する。無数の小さな裂傷が彼の腕・脚・胴体を縦横無尽に刻み込む。全て弱化ポイントを貫く精密機械の如き正確さ。
「がっ……あ…ああああっ!!」
遂に膝を突いた巨漢。筋繊維束が互いに解れ合い、支えを失った塔のように崩れ落ちる。
月光が降り注ぐ中に佇むゼータ。手袋には血の一滴も付着していない。彼女の影が伸びていき、倒れた標的を静かに包み込む。
「残念だったね」
ゼータの耳に、遠くから緑谷達の気配が近づいてくる。二人の間に緊迫した空気が流れるが、ゼータは決して振り向かない。
「まだ遊び足りないようだけど」
マスキュラーの呼吸が荒々しく乱れる。彼の目は狂気に満ちている。しかしその焦点は定まっていない。肉体の崩壊が始まっているのだ。
そして、完全に戦いに終わりを迎える。
「君にはこれで十分だ」
ゼータの姿が夜の帳へ溶けていく。まるで幻のように。
森にはただ風のざわめきだけが残された。
3rd舞台となる世界は?
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