自傷行為およびそれに関連する心理描写があります。
出血描写はありませんが、苦手な方は読まないでください。
大江戸歌舞伎町にあるスーパー。
晴れた昼下がり、混み合う時間帯のちょうど谷間だった。
取引先からの贈答品を整理していた店員が、送り主を見て慌てて店長を呼んだ。
以前、職場の人間が揃って子どもになった原因の菓子も、同じ相手から贈られたものだった。
外箱に記された製造元を見た店長は、今回は開けずに置いておくよう言い置くと、事務所の隅へ菓子を避けた。
だが、その話を聞いていなかった店員がいた。
休憩時間、事務所の隅に避けられていた菓子を見つけた若い店員は、誰かが置き場所を間違えたのだろうと思った。
取引先から届いた菓子は、いつも皆で分けて食べている。今回も同じだろうと、彼女は箱を抱えて休憩室へ向かった。
「キリちゃん、これ、取ってって」
「ありがとうございます」
問題の菓子は個包装されておらず、箱の中で仕切りに区切られ、一つずつ収められていた。
店員は休憩室の机の上にペーパーナプキンを人数分置き、それぞれの上へ菓子を取り分けていた。
以前の菓子とは見た目も異なっていた。濃い紫色をした小さな立方体で、羊羹のような弾力があり、表面には砂糖がまぶされている。
異なる包装に、異なる見た目。同じ製造元の商品だとは知らず、キリはそのまま口へ入れた。
「その箱開けたの!?」
ちょうど、休憩室に入ってきた年配の店員が声を上げた。
「ちょっと、それ開けたの!?」
「え?」
「それ、店長が開けるなって言ってたやつ! 前にもあったでしょ、あの菓子!」
菓子を取り分けた若い店員の顔から血の気が引いた。
その場にいた全員の視線がキリへ集まる。
菓子は、すでに喉を通ったあとだった。
「……先に言っておいてくださいよ」
「聞いてなかったの? ああ、どうしよう。箱貸して」
慌てて外箱を調べると、今回も小さな注意書きが記されていた。
『地球人が摂取した場合、肉体および精神が子どもの状態へ一時的に回帰することがあります。効果時間は摂取後、およそ一日です』
「あー、これは、また子どもの状態へ戻るということでしょうか?」
キリは面倒なことになったなと思いながら、説明書きを読んでいた店員に聞く。
「ごめんなさい!!」
「いえ、知らなかったのなら仕方ないですよ。すみません、今日はもう上がらせてもらっていいでしょうか? 明日もお休みをいただきたいんですが」
「分かったわ。ほら、店長に説明しに行くから、貴方もついてきなさい」
「キリちゃん、本当ごめんね!!」
帰宅途中に子どもへ戻れば、どんな事故に遭うか分からない。
心配するほかの店員たちには、迎えが来るから大丈夫だとキリは告げた。休憩時間が終わり、人のはけた休憩室で、キリは電話をかけた。
「もしもし。あ、銀さん? ごめんね、ちょっと困ったことになっちゃって。実はさ……」
事情を説明すると、銀時はすぐに迎えに行くと答えた。
電話を切ってから、三十分ほど経った頃だった。急に、強い眠気が襲ってきた。
キリは休憩室の長椅子へ横になる。そこから先の記憶はなかった。
目を覚ますと、キリは見知らぬ場所にいた。
身体が重い。まだ咳は出ていないが、いつ症状が出始めるか分からない。
キリは長椅子から身を起こし、周囲を見回した。
壁際には棚と小さな冷蔵庫があり、テーブルの上には誰かが飲みかけた茶が置かれている。病院ではない。かといって、自宅でもなかった。
自分が着ている服にも見覚えがない。
なぜ着物なんて着ているのだろうか。帯が緩み、襟元も少し着崩れていた。袖口から覗く手は、見慣れた自分のものだった。
扉の向こうから、人の話し声が聞こえる。
息を潜め、そっと様子を窺っていると、カチャリと扉が開いた。
「キリちゃん、起きた?」
見知らぬ女性が、恐る恐る顔を覗かせる。
「……ここは、どこですか」
「よかった。話せるみたい。ここは貴方の職場よ」
「私の?」
「覚えてない? ごめんね、動かないで。少し失礼するわね」
そう言うと女性は、キリの帯を締め直し、着物を整える。
「さっき食べたお菓子の影響で、子どもの頃に戻ってるみたいなの。眠る前に貴方が自分で呼んだ人が迎えに来てるわ」
「迎え? その人とどこかに行けってことですか? 待ってください」
「大丈夫よ。今のキリちゃんは知らないでしょうけど、私たちは何度も会ってるから。よくキリちゃんを迎えに来る人よ」
「そもそもどういうことです? ここはどこなんですか?」
「詳しい事情もその人から聞いてもらえるかな。今、長く持ち場を離れられなくて。本当にごめんなさい」
納得はできなかったが、ちょうど店内放送で呼び出されたらしい。急ぐ女性の姿を見て、キリはそれ以上の質問をやめた。
女性に促され、従業員用の出入口へ向かった。
「よお。てっきりこの前と同じくらいになるかと思ったんだが、少し成長してんな。十二、三ぐれぇか」
手を上げ、気安く声をかけてきた男は、白い天然パーマで、死んだ魚のような目をしていた。
黒い上着の上から、白い着物を片側だけ羽織り、腰には木刀を差している。
「すみませんが、お願いします。この子に事情も……」
「ああ、わかった」
今まで付き添ってくれていた女性はキリにも何度も頭を下げ、再び店内へ戻っていった。
「坂田銀時?」
「そうだよ、銀さんだよ」
「不審者? それとも、コスプレしてるうちに自分を坂田銀時だと思い込んだ痛い人?」
「……なんか思ったより可愛げがねぇな。それよか、体調は大丈夫か? 薬、必要なんだろ?」
なぜそれを知っているのだろう。
そもそも、菓子を食べて子どもに戻ったという話からして荒唐無稽だった。坂田銀時を名乗る男のことも含め、素直に信じられるものは、何一つなかった。
ただ、この男が自分の病気と薬について知っていることだけは事実だった。
「薬、くれるんですか?」
「家にあるよ。とりあえず帰ろうぜ」
「……」
「ちょっと待てって。何、急に携帯取り出してんの。その番号、警察だよね?」
職場の人から渡された手提げ袋には、携帯電話も入っていた。警察へかけようと携帯を取り出したところで、男に手を掴まれた。
「誘拐犯?」
「さっきからどんどん、銀さんの評価が下がってるんだけど、何。お前、本当にキリなんだよな?」
名前を知っている。先程の女性は、この男に自分の名前を伝えていただろうか。
キリは会話を思い返したが、そんな様子はなかった。もっとも、キリが目を覚ます前に伝えていた可能性はある。
だとすれば、あの女性もグルということになる。だが、それなら眠っているうちに連れ去る方が早い。キリはひとまず、その可能性は低いと判断した。
「分かりました。家まで連れていってください。でも、変な真似をしたら警察を呼びますから」
「へいへい、分かったよ。信用ねぇなァ」
「信用する要素がどこに?」
「ほんっと、お前可愛げねぇな!」
道すがら、坂田銀時を名乗る男は、キリが元いた世界とこちらの世界について説明した。
話を聞く限り、キリは『銀魂』の世界へ迷い込んでしまったらしい。目の前の男も、本物だと考えるほかなかった。
街を歩けば、豹や犬の顔をした者が人々の中に混じり、見たこともない飛行船が空を飛んでいる。
遠目にはターミナルビルさえ確認できた。子ども一人を騙すために用意したものとは、とても考えられなかった。
「すみません、少し休ませてください」
歩き始めてから、まだそれほど経っていない。だが、キリは苦しそうに息を切らしていた。
前に八歳の姿へ戻った時より病状が進んでいることは分かっていた。それでも、銀時が想像していた以上だった。
呼吸が落ち着くのを待って再び歩き始めたものの、ほどなくして、キリは二度目の休憩を申し出た。
「もう担いでった方が早ぇんじゃねぇの」
「嫌です」
にべもなく断られる。
「手ェぐらい貸すぞ」
「絶対に嫌です。少し休めば大丈夫ですから。お急ぎでしたら、道順だけ教えてもらえますか?」
「誰が急いでるっつったよ。好きなだけ休め。そういやお前いくつだ?」
「……十四です」
それぐらいなら教えてもいいか、という間の取り方だった。
八歳から六年で、人間ここまで可愛げがなくなるものか。銀時は心の中でぼやきながら、乱れた呼吸を整えるキリを黙って見守った。
そうして何度か休憩を挟み、ようやく『万事屋銀ちゃん』と書かれた看板の前へ辿り着いた。
「万事屋」
「そう。ここで万事屋やってんのよ。新八も神楽も待ってるから早く入ろうぜ」
「新八と神楽……」
確認するように二人の名を繰り返し、銀時に促されて、キリは階段を上った。
「帰ったぞー」
玄関の戸を開け、銀時がそう言うと奥から足音が聞こえ、新八と神楽が顔を出した。
「きーやん、おかえりヨ。おっきくなったネ。身体は大丈夫アルか?」
「布団敷いてますから、使ってください」
二人は普段と変わらない気安さで、キリの手を取ろうとした。
物語の中では知っていても、目の前にいる二人とは初対面だった。伸びてきた手に身体が先に反応し、上体を引いたまま一歩後ろへ下がった。
「あ……ごめんアル」
「すみません。いつものキリさんのつもりで」
「こちらこそ、ごめんなさい。こういう距離に慣れてなくて。大人の私はお二人と親しかったんですね?」
気遣うように頭を下げたキリを見て、新八と神楽は顔を見合わせた。
「家族じゃないですけど、僕は家族みたいなものだと思ってます」
「私もヨ。だから、何かあったらすぐ言うヨロシ」
再び差し出された二人の手を、キリはためらいながら両手で握る。
玄関を上がり、居間へ通されると、キリは確かめるように部屋を見回した。表情は変わらなかったが、視線は見覚えのあるソファーを捉え、次いで「糖分」と書かれた額縁と銀時の机に、それぞれわずかに留まった。
「薬か? お前が八歳になった時、飲んでたやつの残りだ。これで大丈夫か?」
銀時は、キリが部屋を見回した理由を、薬を探しているためだと受け取ったらしい。以前、病院でもらった白い薬袋を、そのままキリへ手渡した。
「前にも、こんなことが?」
「まあ、座れよ。とりあえず薬飲んでから、落ち着いて話そうぜ」
「白湯、持ってきました」
新八から湯呑みを受け取り、紙袋に入っている薬の説明書をまじまじと読んでいた。
「分量が……。すみません、新八さん。はさみをお借りできますか? それとティッシュと、できれば消毒用のアルコールも」
「いいですけど、何に使うんですか?」
「この薬、一錠では私には少ないので、もう一錠を割って量を調整します。アルコールは、はさみの消毒に使うので、なければ結構です」
「なるほど、少し待っててください」
新八が頼まれたものを用意している間、神楽はキリの隣へ座り、楽しそうに話しかけた。
「ねぇねぇ、きーやん。今、何歳アルか?」
「十四歳です」
「おっきくなったネ。前はこんなんだったアル」
そう言って、神楽は片手を自分の腰の辺りへかざす。
「さすがにそこまで小さくはなかったと思うけど。でも、前も色々お世話になったんだね、今回もよろしくね」
「お安い御用ヨ!」
ちょうどそこへ、新八が頼まれたものを揃えて戻ってきた。
「はさみとティッシュ、消毒用のアルコールですね」
「ありがとうございます」
キリはティッシュを敷き、はさみを消毒してから、錠剤を必要な量に分けていく。迷いのない手つきを、新八は感心したように見つめていた。
「随分、手慣れてるんですね。飲む量まで覚えてるんですか?」
「毎日飲んでいるものですから」
その答えに、新八と神楽の表情が僅かに曇る。
「気にしないでください。私にとっては、そういうものなので」
キリは二人を安心させるように、柔らかく笑った。
薬を飲み終え、湯呑みを置いたキリは、銀時へと向き合う。
「それで、先程の続きですが、前にもこのようなことがあったんですか?」
「その前に一つ気になるんだが、お前……俺にだけ当たりきつくねぇか?」
新八と神楽と話していた時の柔らかな表情は影を潜め、キリは鉄仮面のように固い顔を銀時に向けていた。
「気の所為です。それで、前回はどのように対応したんですか?」
「お前、絶対俺のこと嫌いだろ!!」
「嫌われるようなことでもしたんですか?」
「してねぇよ!」
「なら、気の所為です……コホッ」
続けざまに咳き込み、腰を折るキリへ、銀時は身を乗り出して背中へ手を伸ばした。
「おい、大丈夫か」
「触らないで……ください」
咳の合間に、キリは無理やり声を絞り出して拒んだ。
銀時は伸ばしかけた手を引っ込め、自分の頭を乱暴に掻いた。
「……はいはい、触りませんよ。ほら、これ飲め」
銀時は湯呑みに白湯を注ぎ、キリの前へ差し出した。キリは一瞬ためらったものの、受け取り、ゆっくりと口をつけた。
落ち着いたキリは、改めて銀時と向き合う。
「それで、前のことを聞いても?」
「……ああ、前もお前は八歳になって、ここに来た。原因も似たようなもんだ。一日経てば戻るよ。明日のこの時間にはお前は大人に戻れてる筈だ」
「大人に」
「ああ、ちゃんとお前は大人になれるよ」
「それに、何の意味があるんですか」
静かな問いに、銀時はすぐには答えられなかった。
「意味か……」
「……すみません。今のは独り言です。忘れてください」
銀時の返事を待たず、キリは新八と神楽へ顔を向けた。
「新八さん、神楽さん。体調があまりよくないので、先程用意してくださった布団をお借りしてもいいですか?」
「もちろんです。ゆっくり休んでください」
「そのままでは寝にくいダロ。私のパジャマ着るアルか?」
「ありがとうございます。お借りしてもいいですか?」
「もちろんネ」
着物では休みにくいだろうと、服を借りる。袖を通してみると、キリの身体にちょうどよく合った。
「何かあったら、すぐ呼ぶヨロシ」
「ありがとうございます」
「いや、ここ一応、銀さんの家なんだけど」
家主だけを綺麗に会話の外へ置いたまま、キリは和室へ入った。ほどなくして、襖がぴたりと閉ざされる。
閉ざされた襖を、三人はしばらく黙って見つめていた。
「……なあ」
「なんですか」
「俺、嫌われてるよね?」
「まあ……はい」
「百パー嫌われてるネ」
「少しは否定しろよ。お前らどっちの味方なの?」
「でも、キリさんが理由もなく人を嫌うとは思えませんけど」
「理由がある方が嫌なんだけど。あいつ、俺と顔合わせた瞬間から嫌いだって顔してたもん。何かしたとかじゃねぇもん。じゃあもう、性格か見た目しかなくねぇ?」
「性格や見た目とは限らないアル。足が臭かったとか、口が臭かったとか、そういう可能性もあるネ」
「臭くないよね? ねぇ、新八君。銀さん臭くないよね?」
「僕は気になりませんけど……まあ、思春期の女の子ですからね」
銀時は自分の袖口を嗅ぎかけて、やめた。そんなことで向けられる目ではなかった。
視線が、また閉ざされた襖へ戻る。
八歳のキリは、少なくとも銀時をあんな目で見てはいなかった。それから十四歳になるまでの六年で、何があればあそこまでやさぐれる。
――それに、何の意味があるんですか。
先程の静かな声が、まだ耳の奥に残っていた。
「今は休ませてあげましょう」
「分かってるよ」
それからしばらく、和室から物音は聞こえなかった。
日が傾き始めた頃、新八と神楽は夕食の買い物へ出ることにした。
「何が食べられるか分からないので、消化によさそうなもの買ってきます」
「銀ちゃんは留守番してるヨロシ」
「ああ、頼んだぜ」
二人が出ていってからほどなくして、和室の襖が僅かに開いた。
「新八さんと神楽さんは?」
「夕飯の買い物。すぐ戻るよ」
「そうですか」
キリは銀時と少し距離を空け、ローテーブルの前へ腰を下ろした。
急須に残っていた白湯を湯呑みに注いだが、湯気は立たなかった。
「沸かし直すか?」
「いえ、大丈夫です」
キリはそう言って湯呑みを傾けたが、飲む途中で一度小さく
体温より低いものはできるだけ避けてあげてと、電話で
「茶ァ飲むついでだ」
返事を待たず、銀時は急須を取り上げ、台所へ向かった。
やかんを火にかけながら、八歳のキリを思い出す。
手を貸そうとしても断り、何でも自分でやろうとしていた。少しでも長く生きて、大人になるため、自分にできる努力を一つも諦めてはいなかった。
十四歳のキリも、薬を飲み、休むべき時には休む。生きるために必要なことは、何一つ投げ出していない。
だが、それはもう、生きた先に何かを望んでいるからではなく、身についた手順をこなしているだけのように見えた。
生きた先を欲しがる気配が、十四歳のキリにはなかった。
「ほれ、まだ熱いから気をつけろよ」
キリの湯呑みに湯を足してやり、自分の湯呑みにも湯を注いだ。
「お茶を淹れるんじゃないんですか」
「面倒くさくなった。あちっ」
息を吹きかけ、湯呑を傾ける銀時を、キリは複雑な表情で見ていた。
湯呑を置き、唐突に居住まいを正す。
「世話になっておきながら、失礼な態度を取り続けて申し訳ありませんでした。先程の言葉も、貴方へぶつけるべき言葉ではありませんでした。重ねて謝罪します」
膝に両手を置き、深々と頭を下げる。
「……やめろよ、そーいうの」
「申し訳ありません」
「そうじゃねぇよ、頭上げろ」
キリは言われたとおりに頭を上げた。必要な謝罪は済ませたとでもいうように、口を閉じる。
「なぁ、お前は……そんなに俺が嫌いか」
「先程も申し上げましたが、気の所為です」
「気の所為なわけあるかよ。前に、大人のお前が言ってたんだよ。ガキの頃、俺を見ながら、どうやって生きるか考えてたって」
そこで初めて、キリの顔にはっきりと嫌悪が浮かんだ。
「大人の私は馬鹿なんですか。そんなことを他人にべらべらと」
吐き捨てるように言い、キリは銀時から顔を背けた。その嫌悪が、目の前の銀時と、他人にそんな話をしてしまった自分のどちらへ向けられたものなのか、判然としなかった。
「そんだけ大人のお前は、銀さんのこと信用してたってことじゃねぇの」
「そうやって、お互いの傷でも舐めあって、慰め合っていたんですか?」
銀時の口元から、僅かに残っていた笑みが消えた。
「……舐め合って何が悪ぃ」
「悪いとは言っていません。随分と都合のいい関係だと思っただけです」
「一人で抱えて腐らせるよりゃ、よっぽどマシだろ」
「そうですね。おっしゃるとおりです。先程の謝罪に加え、さらに謝罪いたします」
これ以上会話を続ける必要はないとばかりに、キリは慇懃に腰を折った。
「そーいうのやめろっつったよな」
「一つ提案が」
「なんだよ」
「私は明日になれば、ここからいなくなります。病気ではありますが、今日明日に死ぬわけではありません。無意味なことは、お互いやめませんか」
「俺は無意味だと思っちゃいねぇよ」
「また、人助けですか」
「は?」
「目の前に困っている人間がいれば手を伸ばす。そうすれば、助けようとする自分にはまだ価値があると安心できますものね」
キリの声は平坦だった。ただ目だけが、値踏みするように銀時を見ている。
「過去の傷そのものには目を向けず、剣の届く範囲の人間を助けて、自分はまだ大丈夫だと確認する。随分と都合のいい慰め方だと思います」
「……お前、いい加減にしろよ」
「私を、その確認のために使わないでください」
低くなった銀時の声にも、キリは目を逸らさなかった。
「俺が何のために手ぇ出そうが、お前が勝手に自分をどうでもいいことにしていい理由にはならだろ」
「じゃあ、そういう貴方は、どうなんですか。『てめぇの勝手だ』と言って、自分の価値だけは正しく見ようともしない。貴方のやってることと同じでしょう」
「俺は自分で選んでやってんだよ」
「私も自分で選んでいます」
「十四のガキが、何もかも分かったみてぇな顔で自分の先まで決めんな」
「大人はいつもそうですよね」
キリの声が一段低くなった。
「子どもが子どもであるのは、子どもの責任ではないのに。都合が悪くなると年齢を持ち出して、全部『子どもだから』で片づける」
「……悪かった。それは撤回する」
「そうやって、すぐ謝るんですね」
「あ?」
「謝ってしまえば、それ以上怒る私は聞き分けのない子どもになる。貴方だけが物分かりのいい大人でいられる。お上手ですね」
キリは一度も目を逸らさなかった。
「私は、貴方のことが心底嫌いです」
銀時の眉間に深く皺が刻まれた。
「嫌いって言や、今度こそ話が終わると思ったか」
「事実をお伝えしただけです」
「じゃあ俺も伝えとく。お前が俺を嫌いなのと、今ここで話してんのは別だ。勝手に終わらせんな」
「じゃあ私も言いますが、貴方が助けようとしている十四歳の私は、本来ならもう存在しない人間です。明日には大人の私へ戻るというのなら、なおさら放っておいてください。何の意味もない私でも、貴方のオナニーに付き合わされるのだけは、まっぴら御免だ!」
「お前がそう思ってても、俺は意味がねぇなんて思っちゃいねぇよ」
「そんなのどうでもいいです。手を出すなって言ってるんです」
「それこそ知らねぇよ。ガキだからとかじゃねぇ。目先のことだけで、全部分かったっつってんのが気に食わねぇんだよ。それに、だれが人助けしてるっつった。クソ生意気なてめぇが気に食わねぇって話をしてるだけだろうがよ」
キリはそこで深く息を吐いた。呼吸を整えようとしているのか、肩が僅かに上下していた。
「勝手にやっててください。それが貴方の手口なのは、十分承知しています。私は疲れたので寝ます」
銀時は言い返しかけ、キリの浅い呼吸に気づいて口を閉じた。
「……寝ろ」
「言われなくても」
キリは和室へ戻ると、ぴしゃりと襖を閉じた。
取り残された銀時は、しばらく閉ざされた襖を睨んでいた。やがて、深いため息を一つ零した。
「大人気ねぇ……」
しばらくして、玄関の戸が開く音がした。
「ただいまアル。銀ちゃん、ちゃんと留守番してたアルか?」
「してたよ。ここから一歩も動いてませんよ」
「キリさんはまだ寝てますか?」
新八が声を落として尋ねる。
銀時は閉ざされた襖へ目をやった。
「寝るっつって引っ込んだ」
「何かあったアルか?」
「別に」
神楽は銀時と襖を交互に見たが、それ以上は追及せず、買ってきた袋を台所へ運んだ。
鍋に水を張り、湯を沸かす。隣の小さな鍋では、油揚げが甘辛く煮付けられていた。
ネギを刻む包丁の軽い音に続き、くつくつと煮立った湯にうどんが投入された。
和室では、キリが布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。
身体は重いのに、頭の中だけが熱を持っている。目を閉じるたび、先程銀時へ投げつけた言葉と、返された言葉が順に蘇った。
なぜ、あそこまで自分に構おうとするのだろう。
坂田銀時だからか。目の前に困っている人間がいれば、理由もなく手を伸ばす。そういう生物だとキリ自身は理解している。今も同じことをしているだけなのか。
それとも、大人の自分が関係しているのか。
銀時は、大人のキリが自分を信用していたと言った。傷を舐め合っていたのかと嘲った時には、はっきりと顔色を変えた。
随分と大切にされているらしい。
そう思うと、胸の奥に澱のようなものが溜まった。
襖の向こうから新八の声がした。
「キリさん、夕食どうですか? うどんなんですが。食べられそうですか?」
「ありがとうございます。大丈夫そうです。ただ、すみませんが私の分は半量ほどにしていただけますか」
「分かりました。足りなかったら、まだありますから」
「ありがとうございます。今、行きます」
キリは身体を起こした。
襖を開けると、ローテーブルの上に四つの丼が並んでいた。
お願いしたとおり、キリの分だけ量が少なくしてあるようだった。
透き通った薄茶色の汁へうどんが沈み、その上に甘く煮た油揚げと、小口切りにしたネギが載っている。
「消化にいいものってことで、今日はうどんにしました」
「ネギと油揚げも載せたアル」
新八に勧められ、キリは神楽の隣へ腰を下ろした。銀時とはローテーブルを挟んで向かいになる。
「ありがとうございます。いただきます」
丼を手前へ寄せ、まず汁を一口飲む。温かい出汁が喉を通り胃にゆっくりと落ちる。
「おいしいです」
「よかった。熱いので、ゆっくり食べてくださいね」
キリが新八へ柔らかく笑いかける。その向かいで、銀時は無言のままうどんを啜った。
目を合わせないまま、キリは銀時の様子を窺った。
大人の自分は、この男を信用している。銀時もまた、大人の自分を大切にしている。少なくとも、十四歳のキリにはそう見えた。
なぜ、そんな未来になったのだろう。
考えても答えは出ない。キリは温かい汁と一緒に疑問を飲み込み、油揚げへ箸を伸ばした。
神楽が二人の顔を見比べる。
「やっぱり、喧嘩したアルか?」
「してませんよ」
「した」
二人の声がほとんど同時に重なった。
「銀ちゃん、十四歳に喧嘩売ったアルか」
「売ってねぇよ。最初に掘り返したのは俺だけど、売ったのはそいつだからね?」
「貴方が言わせたんでしょう」
「てめぇがムカつく話しかしねぇからだろう」
「ほら、まだ喧嘩してるじゃないですか!」
新八が慌てて二人の間へ声を挟んだ。
キリは銀時から目を逸らし、うどんを一本ずつ啜る。銀時も不満そうに眉を寄せたまま、油揚げへ噛みついた。
「一時休戦アル。飯の時ぐらい静かにするヨロシ」
「私は最初からそのつもりです」
「どの口が言ってんの?」
「銀さん!」
新八に咎められ、銀時は口を閉じた。
気まずい沈黙の中、うどんを啜る音だけが続く。
それでも丼の温かさを両手に感じているうちに、キリの肩から少しずつ力が抜けていった。甘い油揚げを口へ運び、ネギと一緒にうどんを噛む。食欲はないと思っていたが、身体は必要としていたらしい。
食べられはしたが、それでも願い出た分だけでお腹がいっぱいになってしまった。キリは最後の一本を啜り食べ終える。
銀時は何も言わず、ただ、空になった丼を一度だけ見てから、自分の残りのうどんを啜った。
「ごちそうさまでした」
キリは箸を揃えて丼へ置き、自分の食器を持って立ち上がった。
「置いておいていいですよ」
「自分の分くらいは片づけます。流しへ運べばいいですか?」
「じゃあ、そこまでお願いします」
新八はそれ以上止めず、自分と銀時の丼を重ねた。神楽も空になった丼を抱え、キリと一緒に台所へ向かう。
「きーやん、足りたアルか?」
「うん。ちょうどよかった。油揚げもおいしかったよ」
「このグラさんがしっかり最終検査したアルからな」
「作ってる横で味見してただけでしょう」
「大事ヨ」
二人のやり取りに、キリは僅かに口元を緩めた。
銀時はその背中を何とも言えない顔で眺め、自分の顔を撫でた。
食器を流しへ運び終えると、キリは新八と神楽へ頭を下げる。
「夕食、ありがとうございました。すみませんが、もう一度布団をお借りします」
「はい。おやすみなさい」
「夜中でも、必要なものがあったら呼ぶアルヨ」
「ありがとうございます」
銀時には一度も目を向けず、キリは和室へ戻った。先程より静かに襖が閉じられる。
「それで、何があったんですか」
キリの姿が見えなくなるなり、新八が銀時へ向き直った。
「ちょっと忌憚のない人物評を聞かせてもらっただけ」
「なんて言われたアルか?」
「心底嫌いだって」
新八と神楽が揃って黙った。
「何その間。そこは銀さん可哀想ってなるところじゃないの?」
「思ってたより、はっきり嫌われてたアルな」
「心底まで付くとは思いませんでした。キリさんの口から『嫌い』って単語が出るだけでも驚きなのに、『心底』までつきますか」
「二人して追い打ちかけるのやめてくれる?」
銀時はソファーへ身体を投げ出し、二人へ背を向けた。
「もう今日は寝る。銀さん傷心休暇に入るから」
「明日には元に戻るんですから、それまでに仲直りしてくださいよ」
「アイツにそのつもりがあればな」
そう返しながら、銀時は閉ざされた襖へ目を向けた。
夜が更け、万事屋の中が静まり返った頃、キリは喉の渇きで目を覚ました。
しばらく布団の中で天井を見ていたが、眠気は戻ってこない。昼間から考え続けていたことが、暗闇の中で再び頭を巡り始める。
なぜ、坂田銀時は自分へあそこまで関わろうとするのか。
大人のキリを大切にしているからか。それとも、目の前の人間を助けずにはいられない自分でありたいからか。
キリは坂田銀時が嫌いだ。嫌いになったという方が正しいか。
かつては彼の姿に救いを見ていた。だが、それも過去の話だ。
嘘っぱちでインチキな世界に嫌気が差すのと同時に、彼の姿まで、嘘っぱちでインチキなものにしか見えなくなった。
何も見ようとせず、ただ漫然と生き、世の中に迎合する。時折、気まぐれに誰かを助けては、それで安堵しているようにしか見えなかった。
まるで、気まぐれにキリへ手を伸ばし、『可哀想な子』『いい子だね』『きっといいことがあるから』と、お為ごかしを投げかけてくる大人たちのように。
キリは布団を抜け出し、音を立てないよう襖を開けた。
居間は暗く、ソファーに横たわる銀時の姿が僅かに見える。起こさないよう足音を抑えて居間を抜け、廊下の先にある台所へ向かった。
湯呑みを手に取り、水を注ごうとする。
その時、流しの脇に置かれた包丁が目に入った。
月明かりを受け、刃の一部だけが白く光っている。
――もし、ここで自分が死んだら、大人のキリはどうなるのだろう。
この身体が死ねば、大人の自分も戻ってこられないのではないか。
そうなれば、無意味で価値のない自分でも、坂田銀時が随分と大切にしているものを壊せる。
世界を壊すなんて、そんな壮大なことまではできなくとも、だ。
その考えが浮かんだ瞬間、キリは自分でも息を呑んだ。
馬鹿げている。そう思うのに、目を逸らせなかった。
気づけば、包丁へ手を伸ばしていた。
柄を握った手が震える。刃を持ち上げ、自分の手首へ近づける。
冷たい刃が肌へ触れる寸前、後ろから伸びた手がキリの手首を掴んだ。
背後から、低い声がした。
「何してんだ」
いつから起きていたのか、銀時が背後に立っていた。眠気の欠片もない目で、キリの手元を見ていた。
「本気でやるわけないじゃないですか」
「……なら、離せ」
何を、と返しかけて、キリは自分がまだ包丁の柄を握り締めていることに気づいた。
とっくに離したつもりになっていた。
「包丁だよ。離せ」
キリが指を開くと、銀時は包丁を取り上げ、手の届かない場所へ置いた。
自由になったキリの手は、それでも震えたままだった。
「……死のうと思ったわけじゃないんです。確かめようと思っただけです」
「何を」
「私がここで死んだら、大人の私はどうなるのか」
銀時の目が細くなる。
「貴方が大切にしているものを、私にも壊せるのか」
「ふざけんな」
押し殺した声が、暗い台所へ落ちた。
「どうなるかなんざ知らねぇよ。けど、今ここで死ぬのはお前だろうが」
「取り繕わなくっていいですよ。貴方が大切なのは大人の私でしょう。手が震えているのが見えませんか? こんなんじゃ薄皮一枚が精々だ。力がないって諦めてただけの癖に、力があったところでビビって何もできやしないんです。安心してください」
キリは見せつけるように手をかざす。カタカタと震えていた。
その表情には失望の色が濃く浮かんでいた。助かったという安堵もなく、止めた銀時への怒りも一切ない。
銀時には、その震えが安心材料には見えなかった。
むしろ、刃を当てるところまで本気で考えていた証拠にしか見えなかった。
それでも銀時には、包丁を握っていた時より、今のキリの方が死に近い場所へ立っているように見えた。
死のうとしているのではない。ただ、次に死が訪れた時には、もう抗わない。そんな気配がした。
「……お前はそんなにお前が嫌いか」
かつて、大人になったキリにも同じ問いを投げた。あの時、キリは珍しく怒りを露わにし、私は救われたくないのだ、と答えた。
怒りでもなんでも良かった。深く失望し、何もかも失ったようなあの表情を変えられるなら、それでよかった。
「嫌いですよ。大嫌いですよ。好きになる理由なんてあると思いますか」
何度も考えそこに至ったような、凪いだ声だった。
心底嫌いだと銀時に切りつけたその言葉で、何度も何度も自分を切りつけてきたのだろう。
「新八や神楽じゃ、お前が生きる理由にはならねぇか」
「他人を持ち出して私をどうにかしようなんてずるいですね。貴方はどうなんですか、坂田銀時」
こんな私を愛せるのかと、その目は言っていた。
「俺だってお前のことが嫌いじゃねぇよ」
「そうですか。ありがとうございます、とでも言うと思いました? だったら、なんだって話なんですよ」
自分への失望まで、目の前の男へぶつけていることを、キリは分かっていた。坂田銀時にすら救えない、どうしようもない自分に何の価値があるのか。
「何もかも、てめぇごと全部憎んで、嫌って。そりゃ好きになる理由なんて見つかるわけねぇよ。それでも生きんだよ、お前は」
「それに何の価値があるっていうんですか! いい子にしてたところで報われない。努力したところでその向こうには何もない。そんなの貴方が一番分かってるでしょう?」
「分かってるさ、だがそれに意味がねぇなんざ思っちゃいねぇよ」
「随分と綺麗な欺瞞ですね。分かっているくせに、世界を壊すこともせず、過去と向き合わず、現在を変えようともしない。それで、何を分かっていると言うんですか。見ないふりをしているだけでしょう」
そこまでを一息に吐き出し、キリは荒い呼吸を繰り返しながら、ぎらつく目で銀時を睨んだ。
銀時には、その言葉をただの見当違いだと切り捨てることができなかった。
「……そうかもな」
「認めるんですか」
「怖いもんに蓋をして、見ねぇふりばっかだ。目の前に落ちてるもん拾って安心だってしてるさ」
「だったら――」
「だからって、それだけで俺の全部を分かった気になんな」
銀時はキリから目を逸らさなかった。
「お前が言ってることは正しいさ。けど、それが全部じゃねぇ。てめぇの嫌いなところだけ拾い集めて、それがそいつの全部だと思ってんのは、お前が自分にやってることと同じだろうが」
キリは奥歯を、ギチリと音がするほど強く噛みしめた。
「全部じゃないって、そう思い込みたいだけでしょう。亡霊の言葉まで利用して、貴方は『坂田銀時』であろうとしている。生きる事に意味を見いだせず、他者に支えられて立っている貴方が、偉そうな口を叩かないでいただけませんか!」
怒りのあまり涙まで浮かべ、それでもきつく睨みつけてくるキリを、銀時はひどく悲しい気持ちで見ていた。
何を言われても自分へ届かないよう、棘だらけの言葉を鎧にしている。銀時を傷つけるためである以上に、その内側へ何も入れないために。
「生きる事に意味ならあったよ」
ぽつり漏らした言葉を、キリは信じられないような目で見ていた。
「嘘をつかないでください」
「嘘じゃねぇよ。お前が、俺を見て生き方を考えたと言った。そんなガキが、大人になって、俺を好きだというんだ。俺はそれに救われたよ。お前が自分自身に価値をおけないとしても、俺は確かにお前に救われた。俺には、ちゃんと意味があったよ」
「嘘だ。そんなこと有り得ない」
「嘘じゃねぇよ。明日、新八にでも神楽にでも聞いてみろ」
ケホッと小さな咳が漏れた。無理をしたのだろう。呼吸には、ヒューヒューと細い喘鳴が混じっている。
銀時は何も言わず、やかんへ水を入れて火にかけた。
湯が沸くまで、二人とも何も話さなかった。やかんの中で水が温まる微かな音だけが、台所に続いていた。
銀時は沸かした湯を少し冷まし、湯呑みへ注いだ。
「飲め」
キリは両手で湯呑みを持ち上げた。震えが縁へ伝わり、微かな音を立てる。
一口ずつ白湯を飲むうちに、呼吸は少しずつ落ち着いていった。
「……私はそれでも貴方が心底嫌いです」
「そうかよ」
生きの良い目に、銀時は苦笑する。
キリはそのまま和室へ戻り、ぴしゃりと襖を閉めて布団へ潜り込んだ。
襖が閉まる音を聞き届け、銀時はしばらくその場に立っていた。
やがてソファーへ転がると、両手で顔を覆った。
「……十四歳、怖ぇ」
そのまま、しばらく動けなかった。