万事屋へ帰ってから、私は人参と向き合っていた。
正確には、台所に積まれた人参の山と向き合っていた。老人会のおばあちゃん達が善意百パーセントで持たせてくれたそれは、軽く小山を形成している。これだけあれば馬一頭ぐらい養えるんじゃないだろうか。
「人参プリン、人参ケーキ、人参の天ぷら、人参ご飯……」
「呪文みてぇに唱えんな。食欲が人参色に染まっていく」
「銀さんの食欲って何色?」
「いちご牛乳色」
神楽ちゃんは座卓に突っ伏し、人参を一本握ったまま眠っている。夜兎は兎から進化した種族だったりするのだろうか? 先ほどまで生のまま齧っていた姿を思い出す。寝る時ぐらい手放せばいいと思うのだが、寝ている神楽ちゃんから食べ物を奪う勇気はない。勇者でもその手に握りしめた人参を抜くことは叶わないだろう。
「で、お前はいつまでそれやってんだ」
銀さんがジャンプから顔を上げずに言った。
「それとは?」
「人参を睨みつけて世界の真理に到達しようとする修行」
「惜しい。人参を通して馬の気持ちを理解しようとしてた」
「馬の気持ち理解してどうすんだよ。次に襲われた時に『ヒヒーン』で和解でもすんのか?」
「通訳がいればワンチャン」
「万馬券より部が悪そうな賭けだな」
軽口を返しながら、人参を一本手に取る。
硬い。冷たい。土の匂いが残っている。
ただの人参だ。
ただの人参なのに、さっきから何度も意識が滑る。公園で見た空間の傷。聞こえた気がした声。銀さんの名前。
かけたピースがそこにある気がしてならない。
「銀さん」
「ん」
「昔、馬に好かれたことある?」
「ねぇよ」
「即答」
「記憶に残るレベルで馬に好かれてたら、もっと人生違ってんだろ。馬主になってがっぽがっぽだ」
「銀さんの記憶力をあてにする方が間違いだったか」
「そこ疑うんじゃねぇよ」
銀さんはページを捲る。
その横顔はいつも通りで、いつも通りだから余計に引っかかる。
あの天人は銀さんを見て動きを止めた。名前を呼んだ。会いたかった、と。
でも銀さんは知らないと言う。
嘘をついている様子はない。銀さんは嘘が上手いのか下手なのかよく分からない人だが、少なくとも今の顔は本当に知らない顔だった。
一方的な純情な感情?
忘れられた同級生リターンズ?
「きーやん」
寝ていたはずの神楽ちゃんが、顔を上げずに呼んだ。
「何?」
「勝手に行くなヨ」
短い言葉だった。
反射的に笑って誤魔化そうとして、失敗した。
神楽ちゃんは顔を上げない。寝ぼけているのかもしれない。けれど、人参を握る指に力が入っていた。
「行かないよ」
「嘘つきは口からマヨネーズ吐いて死ぬアル」
「土方さんが喜びそうな死因だね」
「過去の実績に鑑みるに、特売価格で売れるほど吐いてそうなものなんですけどね」
新八君が洗い物を終え、手を拭きながらこちらを見た。
銀さんもちらりとジャンプを下げる。
三方向から見られると、さすがに逃げ場がない。いや、物理的にはいくらでも逃げられるが、それは人としてどうなのだろう?
「……分かった。約束する。少なくとも、何かあった時は言う」
「何かあった時じゃ遅いんですよ」
「じゃあ何かありそうな時」
「それも大体遅いアル」
「フライングしたとこで、減るもんでもあるめぇし、惜しむほどのものでもねぇーだろ。声出していこーぜ」
銀さんの声はいつものように間延びして言葉もぞんざいだった。
けれど、そういう時の銀さんの話というのは、いつも確信をつくものというのが私の中の定説だ。そして大体においてそれは人の嫌らしいところついてくる。
特に私に対しては。
それを知っていながら、憎まれ口が出るのを止められない自分を愚かしいと嘆く。
「夕飯には早いけど、お腹減った、でももう人参は食べたくない、ジャガイモと玉ねぎ買ってきてカレーにしたい。そうだカレーにしよう、ねぇ銀さんカレーは中辛でいい?」
「星の王子様以外認めねぇよ。ま、どうでもいいこと言える奴ァは、そのうちどうでもよくねぇことだって言えるようになんだろ」
私は人参を見下ろした。
どうでもいいこと。
そういえば私は、どうでもいいことばかり喋っているくせに、本当にどうでもいいことはあまり言っていない気がする。好きとか、楽しいとか、寂しいとか、怖いとか。そういう単純な単語ほど、喉の奥に引っかかる。
「じゃあ、銀さん」
「んだよ」
「ちょっと怖い」
言った瞬間、空気が止まった。
銀さんの目が僅かに見開かれる。新八君が息を呑む。神楽ちゃんが顔を上げる。
やめて欲しい。そんな大事件みたいな反応をされると、こっちが事故物件になった気分になる。
「人参が」
付け足した。
台無しになった。
分かっている。だが仕方ない。人類は一足飛びに月へ行けない。まずはロケットを作るところから始めるべきなのだ。
「そこは誤魔化すなよ!」
「いや、でも実際怖いし、枕元においてあったら今なら泣ける気がする。なんか、見るたびに増えてる気がするんだよね!」
「実際増えてんだろ、なんか知らねぇけど下のババアも持ってきてたし」
「増えてた!? 怖い! 人参が人参を呼んでる!」
「気恥ずかしいからって話を横道にそらそうとしないでください」
新八君のツッコミに息が和らぐ。
怖い。護れないことが怖い、護られることが怖い。
けれど、きちんと言葉にすることで怖がることが怖くなくなった。
銀さんは黙って頭を掻き、神楽ちゃんは人参を噛み砕いた。
「まあ、怖ぇなら背中にでも隠れてりゃあ、そのうち鬼も飽きてどっかいくだろうよ」
「いざとなったら、タイムはルール的にあり?」
「ルール交渉ついでに、無敵のバリアも追加しておいてやるよ」
そんな会話をしていた時だった。
景色が歪んだ。
音はなかった。
ただ、空気が薄紙みたいに裂ける。私の内側にある何かが、ぞわりと逆立った。
次の瞬間、座卓の上の人参が真っ二つに割れた。
「伏せて!」
叫ぶより早く、体が動く。
神楽ちゃんの頭を押さえ、新八君を引き寄せ、銀さんの襟首を掴む。乱暴に床へ転がした瞬間、さっきまで私達の首があった高さを、見えない刃が通り過ぎた。
壁が裂ける。
切れ目から青い江戸の空が見える。
「おいおい、家賃どころか修繕費まで滞納コースかよ」
「冗談言ってる場合ですか!」
「冗談言ってないとやってらんねぇだろ!」
銀さんが木刀を掴む。
神楽ちゃんが傘を構える。
新八君が震えるお盆を武器にあたりを見渡していた。
違和感しかなかった。どうして今まで手をださなかったのに今更? なぜ追撃がこない?
これは警告だ――思い至った私は走り、玄関を開け放ち、二階の外廊下から奴の姿を探す。
通りを挟んだ屋根の上で勿忘草の着物が揺れていた。
馬面の天人。
けれど、以前より動きがぎこちない、聞き取りずらかった声はさらにひび割れ、ラジオみたいに掠れていた。
『デて……来い……』
「嫌だって言ったら?」
自分でも驚くほど低い声が出た。
奴の視線がこちらへ向く。
黒い瞳の奥、ちらりと人間のような色が滲む。
『死ぬ……ヨ』
「脅し文句が物騒。もっとこう、不幸の手紙送るとか、タンスの角に小指ぶつける呪いをかけるとか、陰湿な方向で来て欲しい」
『死ネ』
「真面目? 捻りぐらい加えなよ」
腹が立つ。
殺意は本物だ。そのくせ、他人の前では手を出さない。現に今も手を出さないでいる。
通り魔の癖に、歩行者信号だけは律儀に守るようなとんだ優等生やろうだ。
その半端さが、殺意そのものより癪に障った。
「キリ」
遅れて出てきた銀さんが一歩前に出ようとした。
その瞬間、奴の体がびくりと震える。
『来る……ナ』
悲鳴に近かった。
銀さんの足が止まる。
私も止まった。
その声に混ざった感情を、聞き間違えることはできなかった。
恐怖だった。
圧倒的な力でねじ伏せられるような相手にあの怯えよう。
「……銀さん、下がって」
「お前な」
「約束は守る。何も言わずには行かない。でも、あれは私に用がある」
「だから一人で行かせると思ってんのか?」
「思ってない」
私は息を吐く。
馬面の天人を見る。
いや、違う。
ずっと引っかかっていた違和感が、形を取り始めていた。
私と似た存在……。本当にそうだろうか?
私の知らない物語、私の知らない登場人物……。私は何を知らない?
「でも、銀さんはあいつをきっと倒せない。倒させてやらない――だから待ってて」
銀さんの返事を待たず、空間を繋ぐ。
万事屋の部屋が遠ざかる直前、神楽ちゃんの声が聞こえた。
「きーやん!」
「ちゃんと戻るから! お願い!」
捕まえようと伸ばされた手が、ほんの僅かに届かなかった。
ごめん。
でも、結局こうなるなら私は本当にどうしようもない。
飛んだ先は、海沿いの埠頭だった。
人気のない岸壁に、夕日を弾いた水面の光が揺れている。潮の匂いが鼻を刺し、遠くで船の灯りが瞬いた。
足がコンクリートを踏んだ瞬間、背後で空間が裂けた。
振り返るより早く、刃が来る。
私は右腕を差し出し、そのまま切り落とさせた。
「っ」
熱した棒を押し付けられたような苦痛――。
それをこらえてでも、確認したいことがあった。
傷口から溢れ出た血を相手に振りまく。
目潰しにもならない、なんてことはない血飛沫だ。それを奴は本能的に嫌がるように、大げさに距離をおいて避ける。
「ねぇ」
私は笑った。
笑えたかどうかは分からない。
「あなた、私でしょ」
潮風が止まった気がした。
勿忘草の着物が、闇の中で揺れる。
馬面の天人は、答えなかった。
ただ、その沈黙が何より雄弁だった。