腹に刺さった刃は、冷たいのか熱いのか分からなかった。
体の内側で、何かがざわざわと蠢いている。血ではない。臓器でもない。もっと細かく、もっと悪質で、もっと無数の何か。
夕風は冷たいはずなのに、傷口の周りだけが嫌な熱を持っていた。
足元では海水と血が混ざり、傾いた夕日を受けて赤黒くぬめっている。遠くで崩れたコンテナがまだ軋み、金属の悲鳴みたいな音を細く引きずっていた。
未来の私の刃は、肉体を貫いているというより、私という存在に直接釘を打ち込んでいるようだった。
魘魅。
名前を与えた瞬間、それは私の中で身じろぎした。
「うわ、気持ち悪い」
『起こしテは……駄目』
「先に言って欲しかったなぁ。寝起きドッキリ失敗みたいな状態になってる」
未来の私は刃を引こうとした。
私は掴んだ腕を離さない。
逃がすわけにはいかない。殺す殺さない以前に、この人を一人にしてはいけない。未来だろうが過去だろうが、私には私の面倒を見る責任がある。とんでもなく面倒くさい自己管理だ。
『離しテ』
「嫌」
『このマまデは、アなタも』
「それは今さら」
傷口から黒い霧のようなものが漏れる。
霧ではない。粒だ。あまりにも細かい機械の群れ。目に見えるはずのないものを、私の感覚が無理やり形として捉えている。
粒子は夕日の赤を吸い、壊れた街灯の火花を弾き、煙のように揺れながらも一つ一つが意志を持つ虫の群れみたいに蠢いていた。
皮膚の下を這う感覚がある。
血管の内側を爪で撫でられるような、脳の皺を直接数えられているような、吐き気のする親密さだった。
それは私の血に混ざり、未来の私の刃を伝い、互いの内側を行き来しようとしていた。
まずい。
理屈より先に分かる。
これは繋がってはいけないものだ。
けれど、繋がらなければ分からないものでもある。
未来の記憶が、流れ込んできた。
白い世界。
色を失った人々。
泣き叫ぶ声。
崩れた江戸。
空は曇っているのではなく、白く塗り潰されていた。
建物の輪郭はぼやけ、看板の文字も、人の着物の色も、誰かの血の赤でさえ、薄い灰色へ沈んでいる。風が吹くたびに、煤のような黒い粒子が通りを流れた。
それは綺麗だった。
綺麗で、だからこそ最悪だった。
美しいものの顔をして、命だけを静かに削っていく。
伸ばした手をすり抜ける神楽ちゃん。
眼鏡だけを残して倒れた新八君。
血まみれの銀さん。
笑っている。
笑って、私に何かを言っている。
『仲間を……』
声が途切れる。
聞きたくない。
聞かなければいけない。
矛盾した感情に、頭が割れそうになる。
「やめ……」
『見テ』
未来の私の声が響く。
それは命令ではなく、懇願だった。
『私ガ何をしタのか。何を救えナかったのか。見テ』
銀さんが倒れている。
私はその前に立っている。
私の体から、黒い粒子が溢れている。
足元には割れた木刀が転がっていた。
銀さんの着流しは血と黒い粉で汚れ、片膝をついた体は今にも崩れそうなのに、視線だけはこちらを外さない。
周囲には誰かがいたはずの空白が点々と残っている。名前を呼ぼうとして、呼ぶ相手がもうそこにいないことだけが分かる。
助けようとしているのか、殺そうとしているのか、自分でも分からない。手を伸ばすたびに、白い景色が広がる。治そうとする力が、壊す力に反転している。
銀さんは逃げない。
逃げろと言っても逃げない。
最後まで、私の前に立つ。
『お前が泣くな』
そんなことを言った気がした。
未来の記憶の銀さんは、血で濡れた手で私の頭を叩いた。
軽かった。
いつもの大きな手だった。
その手のひらは熱かった。
未来の私は、その熱に縋りたかったのだと思う。けれど縋れば壊す。触れれば広げる。助けたい相手ほど、近づくことができない。
地獄というのは、火の海よりも、こういう距離のことを言うのかもしれない。
『悪ィな』
何に謝ったのか分からない。
私を止められなかったことか。
私を置いていくことか。
最後まで自分だけが背負おうとしたことか。
その後、世界は白くなった。
「……みんな馬鹿ばっか」
現実へ戻った私は、喉の奥から絞り出すように言った。
未来の私は目を伏せる。
『ダカラ……許せ……なかッた』
「大丈夫、私でもそうしてる」
私は刃を握る手に力を込めた。
未来の私が痛みに顔を歪める。
痛いのは私も同じだ。自分同士で痛み分け。なんだこの不毛な内輪揉め。
「どうしたらいい?」
『……』
「あなたは知ってる。私を殺しても駄目だって知ってる。じゃあ、どうすればいい」
『私を……喰べテ』
喰べる、と言っても肉を食べろという意味ではない。
今の未来の私は、生きた肉体ではなく、時間を渡るための力と記憶でかろうじて形を保っているだけの存在だ。
その力を私の中へ取り込めば、もう一度だけ時間を越えられる。
未来の私を燃料にして、魘魅の始まりがある過去へ戻れということだった。
未来の私の体は、もう半分ほど夕暮れに溶けていた。
輪郭の端から黒い粒子が剥がれ、風に乗る前に私の傷口へ吸い寄せられていく。勿忘草の着物は裂け、濡れ、そこだけがまだ人の形を繋ぎ止めようとしている。
喰べる。
言葉にすれば一つだが、それは未来の私が生きていた時間を、死に損なった日々を、言えなかった言葉を、全部こちらへ押し付けるということだった。
「嫌だ」
『子供みタいなことを』
「子供だよ。少なくともあなたよりは若い。若者のわがままを聞け」
『聞けナい』
「私だって聞きたくない」
未来の私が小さく笑った。
ようやく、少しだけ私らしい笑い方だった。
『銀さんを救ッて』
ずるい。
その言い方はずるい。
私が断れないことを知っている。知っていて言う。自分の扱いが上手い。さすが私。最低だ。
『魘魅の本体は、過去ニいル。まだ銀時の血に触レる前。戦場ニ落ちタ、始まりノ核。ソれを殺セば、未来は変わル』
「私が過去を変えたら、今の私はどうなる?」
『分かラない』
「分からないことをやれと?」
『アなタは、分からなくテもやル』
「本当、自分のことよく分かってるね」
笑おうとして失敗した。
未来の私の輪郭が崩れていく。馬面の仮面のような顔が溶け、その奥から私の顔が見える。けれど、それも長くは持たない。黒い粒子が頬を削り、髪をほどき、声を奪っていく。
『もう……時間がなイ』
「待って。まだ聞くことがある」
『何』
私は息を吸う。
聞くべきことは山ほどある。未来の神楽ちゃんは。新八君は。江戸は。私達は。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「銀さんに、何か言われた?」
未来の私は目を細めた。
泣きそうな顔だった。
『最後まで、仲間を頼むト……先生トノ約束を果たそうトして、タ』
先生。
吉田松陽。
銀さんの過去にいる人。
それが銀さんを縛っている。
未来の銀さんは、最後までその約束に縛られて、私の前に立った。
『あの人は、約束を守ルためナら、ねェ、お願い……救って』
彼女が本当に救いたいもの正体がきっとそこにあった。
「銀さんを救うなんて、無理難題にも程があるよ」
『アなタなら、出来ル』
「根拠は?」
『私が、出来ナかったから』
それは根拠になっていない。
けれど、未来の私は本気だった。
自分が出来なかったことを、過去の自分に託す。馬鹿にも程がある。馬鹿だ馬鹿だと詰る言葉はそのまま自分へ返ってくる。
こんちくしょうだ。
「……分かった」
覚悟を決めて紡いだ言葉を伝えた瞬間、未来の私の体から力が抜けた。
刃が消える。
腹の傷が塞がり始める。
未来の私は私にもたれかかった。
思ったより軽かった。
こんな軽いものが、あんな未来を背負っていたのかと思うと、腹が立つ。
肩にかかった重みは、濡れた布一枚分ほどしかない。
頬に触れた髪は潮と血の匂いがして、抱きとめた背中は細く、骨ばっていた。未来という言葉から想像するほど遠い存在ではなく、ただ疲れ果てた自分がここにいるだけだった。
それが、どうしようもなく悔しかった。
『ごめんネ』
「何に対して?」
『全部』
「自覚あるなら反省しろ」
『アなタなら、そう言うと思ッた』
未来の私が笑う。
私も笑った。
その瞬間、黒い粒子が一斉にほどけた。
未来の私の体が、光になって私の中へ流れ込んでくる。
雪解け水を心臓へ直接注がれるような冷たい記憶が紡がれる、こぼれ落ちていく大切なもの。言えなかった好意。言わなかった後悔。一つ一つが石のように落ちて、私の中に沈んでいく。
後悔。怨嗟。恋。孤独。自罰。諦め。希望。
全部が私の内側へ落ちてくる。
「重っ……」
膝をつく。
吐き気がする。
泣きそうになる。
笑いそうにもなる。
最悪だ。未来の私、感情の整理が下手すぎる。部屋の片付けできないタイプか。知ってた。私もできない。
最後に、耳元で声がした。
『銀さんを、お願い』
「任された」
返事はなかった。
未来の私は消えていた。
代わりに、私の中に膨大な力と、過去へ繋がる道筋だけが残っている。
遠くで、声がした。
銀さん達だった。どうしてここが分かったのかという考えは、周りをみて納得する。こんだけ派手に暴れたのだ嫌でもわかる。
埠頭はもう、最初に来た時の静かな場所ではなかった。
裂けたコンテナから荷物がこぼれ、折れた街灯が火花を散らし、海面には鉄片と木片が浮いている。潮風に混ざる焦げた匂い。遠くから近づいてくる足音と、私を呼ぶ声。
これだけの騒ぎ分からないほうがおかしい。
「ごめん」
今度は、誰にも届かない謝罪だった。
空間を開く。
その向こうにあるのは、時間の流れだ。川というより、暴風雨の中の滝に近い。入ったら最後、きっと戻れない。
穴の向こうは黒くなかった。
白でもなかった。
無数の色を一度にかき混ぜて、失敗した絵の具の水みたいに濁った光が渦を巻いている。過去の声、未来の匂い、知らない誰かの涙、まだ起きていない朝の気配。そういうものが全部ごちゃ混ぜになって、こちらへ手を伸ばしていた。
見ているだけで平衡感覚が狂う。
足元のコンクリートが急に頼りなく感じた。
「まあ、絶対と限った話ではないし」
笑って、踏み出す。
背後で銀さんの声がした。
「キリ!」
振り返った。
一瞬だけ、銀さんの顔が見えた。怒っていた。焦っていた。たぶん、恐れていた。
私は手を振る。
「ちょっと過去まで行ってくる」
「ふざけんな!」
「お土産いる?」
「いらねぇからちゃんと戻ってこい!」
その言葉を聞けただけで、少しだけ救われた気がした。
戻ってこい。
それは、行くなよりもずっと強い言葉だった。
「うん」
だから、私は頷いた。
「行ってきます」
時間の中へ落ちた。