時間の中は、思ったより騒がしかった。
もっとこう、神秘的な光のトンネルとか、星屑がきらきら流れるロマンチックな空間を想像していたのだが、現実は洗濯機に放り込まれたティッシュの気分だった。全方向から引っ張られ、千切れ、伸ばされ、戻される。タイムトラベルに夢を見ている全国の少年少女に教えてあげたい。時間旅行は移動手段ではない。拷問器具だ。
「っ、いだだだだ! ちょっと! せめて座席とシートベルト用意して!」
叫んでも返事はない。
当たり前だ。時間にカスタマーサービスはない。クレーム窓口があったら長蛇の列だろう。私も並ぶ。
未来の私から受け取った力を足場にする。
過去へ。
もっと過去へ。
銀さんの血に触れる前。魘魅が彼の中に入り、私へ移る前。
戦場。
白い悪夢が生まれた場所。
足元が抜けた。
着地した瞬間、血と硝煙の匂いが肺に入った。
攘夷戦争。
見渡す限りの瓦礫。倒れた兵。燃える空。遠くで爆発音が響く。
私は膝をつき、吐きそうになるのを堪えた。未来の記憶で見た地獄とは違う。けれど、地獄であることに変わりはない。
「さて、魘魅さんはどこかなぁ……」
探す。
血の中、土の中、空気の中。白詛の種。ナノマシンの母体。まだ感染を広げる前の、小さな最悪。
世界に意識を広げる。
今の私は、以前より広く深く見える。未来の私を取り込んだからだろう。ありがたい。ありがたいが、代償の重さが銀行の住宅ローン並みで笑えない。
いた。
それは、倒れた天人の体内にあった。
肉と機械の隙間に潜む、黒い粒子の核。生きているというより、命令を待っている。誰かに触れ、誰かの血に入り、誰かの未来を壊すために。
私は手を伸ばした。
その瞬間、背後で足音がした。
「誰だ」
若い声。
けれど、聞き間違えるはずがない。
振り返ると、血まみれの銀さんが立っていた。
今より少し若い。目つきが鋭い。体中に死の匂いをまとっている。それでも、銀さんだった。
白夜叉。
この時代の坂田銀時。
「……通りすがりの一般市民です」
「こんな場所に一般市民がいるか」
「ですよねぇ」
笑う。
若い銀さんは刀を構えた。
当然だ。こんな戦場に突然現れた見知らぬ女を信用する理由なんてない。
「何しに来た」
「ちょっと害虫駆除に」
「ふざけてんのか」
「半分ぐらい」
半分は本気だ。
私は魘魅の核へ手を伸ばす。
若い銀さんが動いた。
速い。
今の銀さんとは違う速さ。迷いが少なく、殺すことに慣れた動き。
私は刃を避け、空間を曲げて距離を取る。
「待って。あなたと喧嘩しに来たわけじゃない」
「なら何だ」
「あなたを助けに来た」
言った瞬間、若い銀さんの目が冷えた。
ああ、失敗した。戦場でその言葉は私の覚悟よりも重い。
「誰に頼まれた」
「未来の私」
「意味分かんねぇな」
「私もそう思う」
魘魅が動き出す。
時間がない。
私は説明を諦めた。いつだって説明が足りないまま物事は進む。家電なら説明書がある。保証期間もある。人生にはどちらもないくせに、故障だけは一人前に発生する。
「ごめん、ちょっと後で怒って」
若い銀さんの横をすり抜ける。
魘魅へ手を突っ込む。
黒い粒子が腕を這い上がってきた。
気持ち悪い。
未来の記憶が疼く。
これは私を知っている。未来で母体になった私を、まだ生まれていない未来の形として認識している。
なら、話は早い。
「こっち」
誘う。
魘魅が私へ流れ込む。
若い銀さんが叫んだ気がした。
私は聞かない。
入ってきた黒い粒子を、未来の私から受け取った力で包み込む。逃げ道を塞ぐ。核を見つけ干渉する。
答えから式を逆算するように、その存在を組み替えていく。悲鳴のようにエラーコードを履く存在、最後の一片を消し去ったとき、世界が悲鳴を上げた。
魘魅が存在しない過去へ書き換わる。銀さんが感染しない。私が取り込まない。未来の私が生まれない。なら、今ここにいる私は何だ。
時間が矛盾を見つける。
その矛盾を、世界が噛み砕こうとする。
「うわ、来た」
全身に亀裂が入る。
比喩ではない。存在そのものに罅が入る感覚。ロッククライミングで指を滑らせたみたいに、掴んでいた時間の壁から手が剥がれる。
若い銀さんがこちらへ手を伸ばす。
「おい!」
その声は、今の銀さんとよく似ていた。
私は笑う。
「大丈夫。たぶん、あなたは忘れるから」
「何を」
「私を」
言った瞬間、時間が私を弾き飛ばした。
気がつくと、白い天井を見ていた。
薬品の匂い。規則的な機械音。薄いカーテン。窓から差し込む弱い光。
病室。
私が「終の家」と呼んでいた場所。
銀魂の世界へ来る前、私が死にかけていた場所。
「……戻ってきちゃった?」
違う。
眼の前のベッドの上には私がいた。
私は私を見下ろしていた。
病衣を着て、細くなった腕に点滴を刺され、目を閉じて眠る私。
死ぬ直前の私。
心電図はまだ動いている。
けれど、長くはない。
理解した。
時間は帳尻を合わせようとしている。
銀魂の世界へ来るはずだった私を、送り出そうとしている。今ここにいる私と、ベッドの上の私を取り違え、元の流れへ戻そうとしている。
「なるほど、なるほど……因果は巡るんだね」
笑うしかなかった。
私はベッドの上の私に手を伸ばす。
この私が、あの川辺に落ちる。
そして銀さん達に出会う。
そうしなければ、全部が始まらない。
そしてここに戻った私はあの世界から消え、ループとループの先がつながり、私という存在はあの世界から消える。
「自分で自分を異世界転生させる日が来るとは思わなかったなぁ」
ベッドの上の私の頬に触れる。
冷たい。
苦しかったね、と思う。
頑張ったね、とも思う。
言葉にするのは少し恥ずかしいので、代わりに髪を撫でた。
「行ってらっしゃい」
空間を開く。
白い病室の中に、小さな穴が生まれる。
川辺へ。
あの日へ。
私はベッドの上の私を、そっと流した。
心電図が一直線を示す。
ピーという音が鳴る。
あの日、最後に見た光景。
それを今度は、見送る側として見ていた。
この世界にとどまり家に帰る。
その選択肢が、目の前にあった。
私は病室を出た。
廊下はやけに長かった。ワックスの匂い。ナースステーションの小さな話し声。遠くで鳴る呼び出し音。自動販売機の低い唸り。
どれも覚えている。
忘れたかったのに、体のどこかがずっと覚えていた。
ベッド脇の荷物袋に、履き潰したスニーカーが残っていた。
紐の先が少しほつれている。退院したら新しい靴を買おうと思って、結局買えなかった靴。
私はそれを取り出して履いた。
踵を踏みかけて、ちゃんと指で直す。
帰るのだ。
今度こそ、ちゃんと。
病院の外は、夕方だった。
車の音。排気ガスの匂い。コンビニの明かり。信号待ちの人達。誰も私を見ない。誰も、私が一度死んだことを知らない。
それが少しだけ腹立たしくて、少しだけありがたかった。
駅まで歩く。
途中のコンビニで、プリンを一つ買った。
冷蔵庫に入れておいたプリンは、きっともうない。だったら買って帰ればいい。そういう簡単なことを、私はずっとできないまま遠くへ行ってしまった。
レジ袋を指に引っかけ、改札を通る。
電車の窓には、私の顔が映っていた。
病衣ではない。血まみれでもない。馬面でもない。
ただの私。
「……帰れるじゃん」
声に出したら、胸の奥が熱くなった。
家に帰る。
風呂に入る。
布団で寝る。
クリア前のセーブデータをロードする。
気まずい家族関係は気まずいままだろうし、一度も来ることがなかった『あの人』を許せるかどうかも分からない。
それでも、明日があるなら、笑い話に変えられるものもあるかもしれない。
銀さん達がくれたものを持って帰れば、私は少しだけましな私になれるかもしれない。
電車を降りる。
見慣れた道を歩く。
角の古い電柱。閉店した本屋。どこかの家から漏れる夕飯の匂い。二階の窓に干しっぱなしのタオル。
全部が懐かしくて、全部が痛かった。
玄関の前に立つ。
鍵はポケットに入っていた。
当たり前みたいに。
私はレジ袋を持ち直し、鍵を差し込む。
「ただいま」
まだ開けてもいない扉に向かって言った。
馬鹿みたいだ。
けれど、その一言をずっと言いたかった。
鍵が回る。
扉が開く。
その向こうに、家があった。
見慣れた玄関。脱ぎっぱなしのサンダル。廊下の先から漏れる生活の匂い。
帰れる。
本当に、帰れる。
その瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。
ここに残るためなら、体の一部ぐらい置いていけると思った。指一本でも、腕一本でも、心臓の端っこでもいい。切り取って代金にできるなら差し出す。痛くてもいい。みっともなくてもいい。ここに帰れるなら、私はたぶん何だってする。
レジ袋の中で、プリンの容器がかさりと鳴った。
それだけで泣きそうになった。
一歩、家の中へ入る。
靴を脱ごうとして、足が止まった。
ベッドサイドに置かれていたジャンプのページが、どこか遠くで捲れる音がした。
「帰るって言ったのになぁ」
銀さんの声を思い出す。
戻ってこい。
あの言葉が、最後の鍵みたいに胸の奥で回った。
未来の私の声も、そこに重なる。
銀さんを救って。
約束した。
任された、と言った。
あの人は、自分を喰べろとまで言って、私に未来を渡した。後悔も、恋も、孤独も、全部押し付けて、それでも銀さんを救ってと願った。
ここで帰ったら、その約束は叶わない。
銀さんも、神楽ちゃんも、新八君も、未来の私も、置いていくことになる。
「……あーあー、なんであんな
帰りたい。
帰りたくてたまらない。
この体を半分置いていけば帰れると言われたら、私は本当に迷わず頷く気がした。
それでも。
私は靴を脱がなかった。
玄関の框を越えた足を、ゆっくり引き戻す。
買ったばかりのプリンを、そっと床に置いた。
「ごめん。食べてる暇、なかった」
誰に謝ったのか分からない。
家にか。昔の私にか。帰りたがって泣いていた子供の私にか。
たぶん、全部だ。
三つの時間に同時に触れた私は、どこにだっていけた、どこにでもいて、どこにもいない。体はほどけ、名前は薄れ、魂という概念だけが残る。
痛みはない。
寂しさだけがあった。
帰り道は、確かにあった。
私はそこまで歩いた。
けれど私は、その道を選ばなかった。
白い病室の匂いも、夕方の住宅街も、買ったばかりのプリンも、全部が音を立てずに遠ざかっていく。
代わりに、風が吹いた。
血と鉄と煙の匂いを含んだ、戦場の風。
私は自分で、その風の方へ踏み出した。
帰れなかったのではない。
選んだ。
未来の私との約束を叶えるために。
私は時間の海を渡り、もう一度、世界へ沈んでいった。