たどり着いた先で、一つの首が落ちる。
銀色の髪の少年が、血の中で立ち尽くしている。
その奥で、消えかけた魂が、まだ微かに息をしていた。
吉田松陽。
私はその残骸へ手を伸ばした。
吉田松陽の魂は、今にも消えそうだった。
首は落とされた。
けれど、不死の体である肉体は死なない。死なないが故に、別の何かへ明け渡されようとしている。
――虚。
その名前を私は知っている。誰だって知っている。優しい先生の顔で現れながら、その中身はとっくに別物だった男の名前を。
死なない肉体に積み重なった憎悪と絶望の果に生まれた怪物。それが虚。
だから私は理解した。
今、この体に起きていることを。
「松陽先生」
声をかけるが返事はない。
魂の残滓は、薄い灯火のように揺れている。その周囲を、黒い海のようなものが呑み込もうとしていた。
私は手を伸ばす。
手と言っていいのか分からない。もう私に体はない。けれど、伸ばそうと思えば何かが伸びる。便利だが不便だ。
「失礼します。すみません」
松陽の魂を包み込む。
温かかった。
驚くほど、優しい温度だった。
この人が銀さんの先生。
あの人を縛り、支え、壊し、今もきっとどこかで光のように残っている人。
だから、消させるわけにはいかない。
黒い海が迫る。それは虚だった。時間の逆走の果にここに辿り着いた私にアイツを倒す手段はない。
私は松陽の魂を抱えアルタナの流れへ飛び込んだ。
アルタナ。
星の命。
龍脈。
呼び方は色々あるが、入ってみれば巨大な血管の中に沈んだようなものだった。光が流れ、記憶が流れ、命の匂いがする。
そこへ松陽の魂を隠す。
卵の殻のように私でその魂を覆い隠す。生命の大本流に溶けた私を虚は探せまい。
「これで、しばらくは大丈夫かな?」
松陽の魂は眠ったようで返事はない。
私はその傍らで、少しだけ息を吐く真似をした。
帰らなければ。
銀さんに戻ってこいと言われた。
神楽ちゃんに勝手に行くなと言われた。
新八君に、遅いと怒られた。
帰らなければ。
そう思った瞬間、遠くで何かが切れた。
私と、皆を繋いでいたもの。
「……あ」
声が、光の中に溶けた。
万事屋の壁には、紙が増えていた。
最初に貼ったのは新八だった。
半紙に太く「キリさん」と書き、糖分の額縁の下に貼った。理由は自分でもよく分からなかった。ただ、書かなければいけないと思った。
「何やってんだお前」
銀時がジャンプを片手に眉をひそめる。
「分かりません。でも、書いておいた方がいい気がして」
「借金取りの名前か?」
「違いますよ。多分」
「多分って何だよ」
神楽はその横に「きーやん」と書いた紙を貼った。
字は大きく、墨が跳ねている。
「これでいいアル」
「何が?」
「知らないアル。でも、忘れちゃいけないネ」
三人とも、誰のことを話しているのか分からなかった。
分からないのに、胸の奥だけがざわざわしていた。
部屋の隅に、誰かが座っていたような気がする。
台所から、変な料理を作る声が聞こえたような気がする。
窓際で、馬がどうのとくだらない話をしていたような気がする。
気がするだけだ。
思い出そうとすると、輪郭が崩れる。
「銀さん、キリさんって誰でしょう」
「俺に聞くな」
銀時は不機嫌そうに頭を掻いた。
不機嫌な理由も分からない。
ただ、何かを取りこぼしたような気がしていた。手のひらから水がこぼれる。掬い直そうとしても、もう遅い。
「まあ、アレだろ。お前の知り合いとか」
「銀ちゃんの元カノアルか?」
「すぐ俺のせいにすんな。つーか元カノの名前を部屋中に貼る趣味はねぇよ。怖ぇだろ」
「でも銀ちゃん未練がましいからな。やりかねないネ」
「ねぇよ」
会話はいつも通りだった。
いつも通りのはずなのに、どこか一つ音が足りない。
ツッコミでもボケでもない、間に滑り込んでくる余計な声。
それがない。
翌日、紙は増えた。
新八がまた書いた。
神楽も書いた。
銀時は文句を言いながら、なぜか剥がさなかった。
定春だけが、貼られた紙をじっと見ていた。
大きな黒い目が、まるでそこにいる誰かを見ているように揺れる。
「定春?」
神楽が首を傾げる。
定春は低く唸った。
怒っている。
何に怒っているのか、神楽には分からなかった。
「どうしたアル。腹減ったカ?」
酢昆布を差し出すと、定春はぷいと顔を背けた。
珍しい。
食べ物を拒否する定春など、明日の天気は隕石でも降ってくるのか。
「おい、バカ犬。具合悪いのか」
銀時が手を伸ばす。
その手を、定春は軽く噛んだ。
「いってぇ! 何すんだコラ!」
怒鳴る銀時に、定春はさらに唸る。
それは、怒りだった。
何かを忘れている彼らへの、どうしようもない怒り。
定春だけが覚えていた。それは偶然なのか、狛犬としての資質故なのか誰にもわからなかったが、定春だけはちゃんと覚えていた。
どこにでもいて、どこにもいない誰かを。
自分の頭を撫で、涎まみれになりながら笑い、神楽に甘く、新八を褒め、銀時とくだらない言い合いをしていた誰かを。
名前を覚えている。
匂いを覚えている。
魂の形を覚えている。
キリ。
けれど、人の言葉でそれを伝える術はない。
だから定春は、ありとあらゆる手段でそれを伝えることにした。
その日から、万事屋は毎日が嵐に巻き込まれたような有様だった。
定春は銀時のジャンプをくわえて逃げた。
新八の眼鏡を隠し、方々を探させる。
神楽の酢昆布を積み上げ、現代美術を作り上げる。
「定春! いい加減にするアル!」
「おい待て、俺のジャンプ返せ! そこまだ読んでねぇんだよ!」
「眼鏡、眼鏡……って時代遅れのギャグやらせんなよ!」
部屋中を走り回る三人を、定春は振り返って吠えた。
忘れるな。
思い出せ。
そこにいた。
確かにいた。
だが、三人は分からない。
分からないまま、疲れ果て、畳に転がった。
「もう……何なんですか今日の定春……」
「反抗期アルか」
「犬に反抗期ってあんのかよ……」
定春は糖分の額縁の前に立った。
鼻先で額縁を押す。
一度。
二度。
三度。
「おい、それ落とすなよ。割れたら面倒くせぇ」
銀時が起き上がる。
その瞬間、額縁が落ちた。
乾いた音。
額縁の裏から、一枚の写真が滑り出る。
銀時が、それを拾った。
写真には、五人が写っていた。
銀時。
新八。
神楽。
定春。
そして、もう一人。
真ん中で、ひどく楽しそうに笑っている女。
「……誰だ」
銀時の声は掠れていた。
新八が覗き込む。
神楽が息を止める。
定春が、短く鳴いた。
写真の中の女は、こちらを見て笑っている。
まるで、忘れるなとでも言うように。