「きり……さん?」
最初の名前を口にしたのは新八だった。
音を口にした瞬間、襖の隙間から差し込む光のように記憶がさっと巡る。
竹刀を振る姿。だらしなく転がる姿。スーパーでこっそりおまけをしてくれる。年上なのか年下なのか分からないどこか抜けていて、でも目を離せないそんな不思議な人間。
「キリさん……!」
もう一度はっきり口にすることで鮮明に思い出す。
なぜ忘れていた。忘れていた自分が信じられなかった。
「きーやん」
神楽の声が震える。
次の瞬間、神楽は定春に抱きついた。
「定春! お前覚えてたアルか! なんで早く言わないネ!」
無茶を言う神楽に、定春はぐるると喉を鳴らした。
言った。散々言った。犬語で。
そう抗議をあげるように吠え立てる。
「通訳連れてこいィィィ!!」
銀時が叫んだ。
叫んだ後、写真を見下ろす。
人を食ったような顔で、少しだけ照れくさそうにキリが笑っている。
胸の奥が、今さらみたいに痛んだ。
忘れていたことに対してか。
いや、違う。
忘れることを、どこかで許し始めていた。
分からないなら仕方ない。何事もなければそれでいい。そうやって、穴の空いた日常に慣れようとしていた。
「ふざけんな」
銀時は低く呟いた。
誰に向けた言葉か分からない。
キリか。
自分か。
世界か。
とにかく、ふざけるなと思った。
「銀さん」
「行くぞ」
「どこへですか」
「知るか。分かんねぇなら探すんだよ。あいつがどこにもいねぇなら、どこにでも行きゃいいだろ」
めちゃくちゃだった。
だが、万事屋は大体いつもめちゃくちゃで動いてきた。
神楽が傘を掴む。
新八が眼鏡をかけ直す。
定春が大きく吠えた。
「まずは源外さんのところです。キリさんの力に関係ありそうな情報なら、何か手がかりがあるかもしれません」
「おう」
「あと桂さんにも連絡するアル。エリーも何か知ってるかもしれないネ」
「ついでに真選組にも」
「税金泥棒共に頼るのかよ」
「今は文句言ってる場合じゃないでしょう!」
新八の怒鳴り声に、銀時は舌打ちした。
いつもの舌打ちだった。
けれど、その足は止まらない。
そこからの江戸は、少し騒がしかった。
真選組はなぜか事情を半分も理解しないまま巻き込まれ、土方は騒動に切れ散らかし、沖田は「どうも土方さんに隠し子がいるらしいぜェ。きりっていうんでさァ」と火にガソリンを注いだ。
間、桂とエリーはカオスに拍車をかけ、指数関数的に騒ぎは広がる。
混線を起こした伝言ゲームの末に、キリは元花魁であり、土方の隠し子で銀時の生き別れの妹で、伝説の海賊となっていた。
そんな中、源外の工房では、キリの力の残滓を拾うための怪しげな機械が組まれた。配線は絡まり、煙は出るし、三回に一回は爆発した。
「何かでけぇ流れに溶けとる」
源外がそう言ったのは、何度目かの爆発で工房の天井に穴が空いた後だった。
「溶けてるって、砂糖じゃあるまいし」
「似たようなもんだ。わしにも正体までは分からん。だが、地面の下を流れる気脈みてぇなもんに、あの嬢ちゃんの存在が混ざっとる。普通なら戻せん」
「普通なら?」
銀時が聞く。
源外は白い髭を撫でた。
「存在を形作る核がありゃあ、話は別だ。名前、記憶、縁。そういうもんが束になれば、引っ張れるかもしれん」
「それだったらとっくに」
「足りんのよ、釣り針に魚はひっかかっているのは確かだ。だが釣り上げるにはまだ足りない」
源外は語る。忘れて、思い出すという行為による落差が、キリを引っ掛ける釣り針となった。けれど引き上げる力が足りていないと。
「つまり、どうすりゃいい」
「呼べ」
源外は短く言った。
「全員で、あの嬢ちゃんを思い出して、呼べ。場所も重要だ。気脈が吹き出す場所そこで叫べ。その犬っころがなにやらいいたそうな顔をしている。ついていくがいい。後は、お前らが引っ張るんだ」
銀時は定春を見る。
定春は真っ直ぐ見返した。
行くぞ、と言っているようだった
定春は迷わなかった。ただ一度だけ、ついてこいとでも言うように短く吠えて歩き出した。
銀時も、新八も、神楽も、それ以上は何も聞かなかった。
そうして辿り着いたのは、最初にキリが落ちてきた川辺だった。
夕暮れの川辺。
水面が赤く染まり、土手の上を人々が行き交う。
どこにでもある江戸の景色。
その水際に、銀時、新八、神楽、定春が立っていた。
「本当にこれで戻るんですかね」
「知らねぇ」
「銀ちゃん、ちゃんと呼ぶアル」
「分かってるよ」
銀時は写真を握る。
写真の中のキリは、やはり笑っている。
その顔を見ていると、腹が立つ。
勝手に行って、勝手に消えて、勝手に忘れさせて。
戻ってきたら一発殴ると心に決める。
「キリさん」
新八が呼んだ。
声は震えていたが、はっきりしていた。
「戻ってきてください。まだ怒ってますからね!!」
「きーやん!」
神楽が叫ぶ。
「帰ってくるネ! 約束破った分、酢昆布一年分で許してやるアル!」
定春が吠える。
川面が揺れる。
空気が震える。
銀時は、少しだけ黙っていた。
言葉が出てこなかった。
言いたいことは山ほどある。
馬鹿。ふざけんな。勝手に行くな。戻ってこい。謝れ。クソまずい飯作れ。ジャンプ返せ。いやジャンプは関係ない。
どれも違う気がした。
どれも合っている気もした。
「キリ、戻ってこい」
それだけで十分な気がした。
せーのという神楽の声に合わせて叫ぶ。
「キリ!!」
「キリさん」
「きーやん!!」
「わおーん!」
川面が、白く光った。
遠くで、声がした。
新八君。
神楽ちゃん。
定春。
銀さん。
私を呼ぶ声。
忘れて、思い出して、それでも呼んでくれる声。
私はアルタナの底で目を開けた。
傍らで眠っていた松陽の魂が、淡く揺れる。
「呼ばれてる」
けれど、その道を辿るにはもう力が足りなくて、肉体なんて失った筈なのに泥のように体が重かった。
答えるように、松陽の魂が小さく光った。
置いて行きなさい、と言われた気がした。
拒否するように首を振ると、困った子だというように再び明滅する。
必死であがらい懸命に浮上する私の体からいくつもの私が剥がれ落ちていく。
光の中を上る。
上へ。
声のする方へ。
戻ってこいと、あの人が言った場所へ。
世界が、私を思い出す。