「きり……さん?」
やはり最初に口にしたのは新八だった。
口にした瞬間、襖の隙間から差し込む光のように記憶がさっと巡る。
竹刀を振る姿。だらしなく転がる姿。スーパーでこっそりおまけをしてくれる。年上なのか年下なのか分からないどこか抜けていて、でも目を離せないそんな不思議な人間。
「キリさん……!」
もう一度はっきり口にすることで鮮明に思い出す。
なぜ忘れていた。忘れていた自分が信じられなかった。
「きーやん」
神楽の声が震える。
次の瞬間、神楽は定春に抱きついた。
「定春! お前覚えてたアルか! なんで早く言わないネ!」
定春は抗議するように喉の奥で唸りをあげる。
何度も言ったが聞いてくれなかったとでも言うように。
「へそくりみーっけ。思ったより忘れてたモンでかかったみてぇだな。ジャンプ買ってもお釣りがきそうだ」
銀時は拾い上げた写真を見つめる。
人を食ったような顔で、少しだけ照れくさそうにキリが笑っていた。
行くなとは言えなかった。言えばよかったかと後悔が過ぎる。
けれど、行くなと言ったところで聞くとは思えなかった。もう戻ることはないと覚悟したような顔。そうしなければならないと決心した顔。詫びるような思いを抱えさせて送り出したくはなかったのは誤りだったか。
まだ、間に合うだろうか? 後悔先に立たず――。けれど、後悔というのは最後まで手を尽くしてやるもんだろうと自身に活を入れる。
「余った釣りで卵でも買って、オムライス作らねぇとな」
「べちょべちょの奴ネ」
「ありゃアイツの専売特許だろ」
いつかキリが作ったオムライスを思い出す。卵は破れ、ケチャップライスはべちょべちょだった。食べられない程まずくはなく、だが美味いとは言い難い。
「銀さん」
不安げに新八が銀時を見上げる。
思い出したからといって、思い出した相手の姿はどこにもいない。
『帰る』と言ったからには『帰ろうとした』に違いない。ならば何かがあったのだろう。
何があったのか、どうしたらいいのかそんな不安が顔に書いてあった。
「行くぞ」
「どこへですか」
「知るか。分かんねぇなら探すんだよ。あいつがどこにもいねぇなら、どこにでも行きゃいいだろ」
そんな新八に向けて、銀時から返ってきたのは不安な気持ちを吹き飛ばすような、勢い任せの言葉だった。
だが、万事屋は大体いつも、ろくな算段もないまま飛び込んで、それでも道をこじ開けてきた。
銀時が木刀を握りしめる。
神楽が傘を掴む。
新八が眼鏡をかけ直す。
定春が大きく吠えた。
「まずは源外のじーさんのところからだ。アイツの力が原因つーならなんか分かるかもしれねぇ」
「はい!」
「あとヅラのところにも連絡するアル。何か知ってるかもしれないネ」
「ついでに真選組にも協力を頼みましょう。行方不明者の捜索も警察の仕事でしょう」
「払った税金分は仕事してもらわねぇとな」
欠片ほどの可能性でも逃すまいと、三人と一匹は一本の矢となって駆け出した。
そこからの江戸は、少し騒がしかった。
真選組はなぜか事情を半分も理解しないまま巻き込まれ、土方は騒動に切れ散らかし、沖田は「どうも土方さんに隠し子がいるらしいぜェ。キリっていうんでさァ」と火にガソリンを注いだ。
間、桂とエリーはカオスに拍車をかけ、指数関数的に騒ぎは広がる。
混線を起こした伝言ゲームの末に、キリは元花魁であり、土方の隠し子で銀時の生き別れの妹で、伝説の海賊となっていた。
そんな中、源外の工房では、キリの痕跡を辿るための怪しげな機械が組み上がっていた。組み立ての途中で何度も煙を上げ、爆発した名残をそこかしこに残した機械を前にして、源外は何とも言えない渋い声を漏らす。
「何かでけぇ流れに溶けとる」
銀時や新八、神楽にはそのモニターが映し出す映像が何を示しているのか分からなかったが、源外の言葉に首をひねる。
「溶けてるって、砂糖じゃあるめぇし」
「似たようなもんだ。俺にも正体までは分からん。だが、地面の下を流れる気脈みてぇなもんに、あの嬢ちゃんの存在が混ざってる」
銀時の疑問に、源外は説明を付け足し、足をトンと踏み鳴らす。
遥か地の底、そこにキリがいるのだと言うように。
「なんでそんなことに」
新八の疑問に、「俺の方こそ聞きたいところだ」と源外は返す。
原因については保留にし、一番聞きたいことを銀時が口にする。
「どうしたら戻せる」
「存在を形作る核。それを餌に引き寄せて釣り上げる。名前、記憶、縁。そういうもんが束になれば、引っ張れるかもしれん」
「それだったらとっくに」
「足りんのよ、釣り針に魚はひっかかっているのは確かだ。その証拠に、気脈に流れたモンがここの下で留まっている。本来なら地球のあちこちに散らばってもおかしくはねぇ。だが釣り上げるにはまだ足りない」
地面の下をみつめ、モニターを指差し源外は語る。
「つまり、どうすりゃいい」
「呼べ」
銀時の質問に源外は短く言った。
「全員で、あの嬢ちゃんを思い出して、呼べ。場所も重要だ。気脈が吹き出す場所そこで叫べ。その犬っころがなにやらいいたそうな顔をしている。ついていくがいい。後は、お前らが引っ張るんだ」
銀時が定春を振り返ると、定春はその視線をまっすぐに受け止める。
ただ一度だけ、ついてこいとでも言うように短く吠えて走り出す。
迷わずまっすぐと三人の先頭を定春は走る。
銀時も、新八も、神楽も、疑問を挟むことなくその後を追った。
そうして辿り着いたのは川辺だった。
夕暮れの川辺。
傾いた陽が水面を赤く染め、流れに揺れる光が細かく砕けている。土手の上では、仕事帰りの男たちや買い物籠を下げた女たちが、いつもの足取りで行き交っていた。遠くから子どもの笑い声が聞こえ、川風が草を撫でて、湿った土と水の匂いを運んでくる。
どこにでもある江戸の景色。
変わらない日常の端、その水際に、銀時、新八、神楽、定春が立っている。
「ちゃんと戻ってくるんでしょうか」
「やってみねぇうちにもう弱音吐いてんじゃねぇよ。この地面の下に留まってる言ってただろ。なら、アイツはまだ諦めちゃいねぇーってことだ。俺等が信じてやらなくてどうするよ」
「約束したネ」
「そうですね。約束したんでしたね」
銀時は写真を握り、何かに祈ってる自分に苦笑する。
人のことは言えねぇか。けれど、後悔なんて死ぬほどしてきた。いつだって間に合わず滑り落ちるもん数えて、それでも両手伸ばして来た。今更迷う必要なんてない筈だ。
「キリさああああん!!」
新八が大声で叫ぶ。
「帰ってきてください。まだ怒ってますからね!!」
「きーやん!!!」
神楽が叫ぶ。
「帰ってくるネ! 約束破った分、酢昆布一年分で許してやるアル!」
神楽の声に応えるように、定春が大きく吠えた。
低く太い声が川辺に響き、赤く染まった川面に幾重もの波紋が広がっていく。水際の草が震え、土手を歩いていた人々が思わず足を止めて振り返る。
夕暮れの空気そのものが、その声に押されるように震えていた。
「キリ、帰ってこい」
新八や神楽のように素直に感情を表現するのが苦手な銀時は、ただシンプルに呼んだ。
飾り立てればスルスルと憎まれ口は幾らでも出てきはするものの、純粋な思いでないと神なんてモンがいたとして、そいつは願いを聞いてくれないんじゃないかと思ったのだ。
再度、せーのという神楽の声に合わせて叫ぶ。
「キリ!!」
「キリさん」
「きーやん!!」
「わおーん!」
川面が、吹き上がるように白く光った。
遠くで、声がした。
新八君。
神楽ちゃん。
定春。
銀さん。
私を呼ぶ声。
私が私であることを願う声。
私はアルタナの底で目を開けた。
傍らで眠っていた松陽先生の魂が、淡く揺れる。
「呼ばれてる」
けれど、その道を辿るにはもう力が足りなくて、肉体なんて失った筈なのに泥のように体が重かった。
応えるように、松先生の魂が小さく光った。
置いて行きなさい、と言われた気がした。
拒否するように首を振ると、困った子だというように再び明滅する。
必死であがらい懸命に浮上する私の体からいくつもの私が剥がれ落ちていく。
光の中を上る。
上へ。
声のする方へ。
帰ってこいと、あの人が言った場所へ。
世界が、私を思い出す。