天国には理想郷がありまして   作:空飛ぶ鶏゜

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天国には理想郷がありまして

 水の音がした。

 冷たい。

 ざらりとした砂の感触。

 頬を撫でる水草のぬめりと、川底の泥の匂い。

 ああ、また川辺か。

 そう思った瞬間、体が重力を思い出した。

 

「ぶはっ!」

 

 水面から顔を出す。

 肺に空気が入る。冷たい水が髪から滴り落ち、顎を伝って落ちた。目の前には夕焼けに染まる江戸の空。遠くを横切る飛行船。茜色に濡れた土手。行き交う人々の声。

 そして、見慣れた四つの影。

 

「……ただいま?」

 

 疑問形になったのは許してほしい。

 帰宅というより、排水溝から逆流してきた感じだったので、正しい挨拶に自信がなかった。

 次の瞬間、神楽ちゃんが飛んできた。

 

「きーやん!!」

 

「ぐえっ」

 

 抱きつかれた衝撃で、再び水中に沈みかける。

 夜兎の愛情表現は殺意と紙一重だ。いや、紙では足りない。鉄板一枚ぐらい挟んでほしい。

 

「戻ってきたアル! 本当に戻ってきたアル!」

「神楽ちゃん、首、締まってる。嬉しいけど三途の川に再入場しそう」

「うるさいネ! 心配したアル!」

 

 私を引きづり、土手に連れ出しながら神楽ちゃんの声は泣いていた。

 泣いているのに怒っている。

 怒っているのに離さない。

 その全部が、ひどく温かかった。

 

「キリさん!」

 

 袴が濡れるのも構わず、びしょ濡れの私の肩を掴んだ。

 

「どれだけ心配したと思ってるんですか! 何が行ってきますですか! 帰ってくるまでが遠足でしょう!?」

「おやつはいくらまで?」

「反省するまでおやつは抜きです!」

 

 怒鳴られた。

 怒鳴られて、少し笑ってしまった。

 笑ったら、新八君の顔がぐしゃりと歪んだ。

 泣かせた。

 私は本当に、どうしようもない。

 

「ごめん」

 

 今度は、ちゃんと言えた。

 新八君は眼鏡を外し、濡れた袖で目元を拭った。

 

「本当に、全部あんたは事後報告だ」

「うん、ごめん」

 

 定春が近づいてくる。

 大きな鼻先が、私の額に押し当てられた。

 

「定春、覚えててくれたんだね。声聞こえたよ」

 

 定春は短く鳴いた。

 当たり前だ、とでも言うように。

 私は濡れた手で定春の鼻を撫でる。

 

「ありがとう」

 

 定春は、私の頭を丸ごと口に入れた。

 

「ちょっ、感動の再会! 感動の再会だから! 食事シーンじゃない!」

「定春、もっとやるネ!」

「神楽ちゃん!?」

 

 ぐしゃぐしゃにされながら、ようやく岸へ引き上げられる。

 濡れた着物が肌に貼りつき、土手の風がやけに冷たい。その冷たさとは別に、胸のあたりに小さな重みがあった。布越しにかすかな温度が伝わってくる。

 けれど、先に目に入ったのは銀さんだった。

 何も言わない。

 腕を組んで、濡れ鼠になった私を見下ろしている。

 怒っている。

 ものすごく怒っている。

 目が死んでいるのに怒っているという高度な表現技法だった。

 

「えーっと」

 

 私は正座した。

 川辺で。

 濡れたまま。

 銀さんの前に。

 

「ただいま戻りました」

 

 銀さんは黙っている。

 

「お土産は……ごめん、なんでもないです」

 

 黙っている。

 

「若い頃の銀さん可愛かった」

 

 黙っている。

 これは駄目だ。完全に怒らせた。謝罪会見なら記者が机を叩き始める頃合いである。

 

「ごめんなさい」

 

 深く頭を下げた。

 沈黙。

 波の音。

 遠くの喧騒。

 そして、頭に軽い衝撃。

 こつん、と拳が落ちた。

 

「いった」

「痛くしてねぇよ」

「心が」

「知るか」

 

 銀さんはしゃがみ込み、私の額をぐいっと指で押した。

 

「次はデコピンも追加だ」

「はい」

「一人で行くなっつったよな」

「言われました」

「戻ってこいっつったよな」

「言われました」

「おつかいからも行って戻れねぇのかよ。てめぇは」

「面目もありません」

「この辺で勘弁してやる」

 

 そう言って、銀さんは私の頭に手を置いた。

 雑に撫でる。

 髪が濡れているので、手がびしょびしょになる。着流しの袖が頬に張り付く。

 

「泥くせぇ」

「私のせい?」

「お前のせい」

 

 くだらない。

 くだらない会話だった。

 そのくだらなさに、胸が詰まった。

 戻ってきた。

 私は本当に、戻ってきた。

 

「銀さん」

「何だよ」

「好きだよ」

 

 言った瞬間、空気が止まった。

 新八君がむせた。

 神楽ちゃんが目を丸くした。

 銀さんの手が私の頭の上で固まった。

 私も固まった。

 

 なぜ今言った。

 いや、未来の私に死ぬ前に気づけとか言われたから。違う。そうじゃない。言うにしても場所とタイミングがある。川辺。濡れ鼠。定春の涎つき。最低の告白ロケーションランキングがあれば上位入賞間違いなしだ。

 

「……えーっと」

 

 銀さんが口を開く。

 珍しく本気で困っている顔だった。

 それを見て、急におかしくなった。

 

「今のは、帰還祝いというか、生存報告というか、まあそういう感じで。返事は保留で。利息は取りません」

「何の契約だよ」

「心の住宅ローン?」

「重てぇよ」

 

 銀さんは頭を掻いた。

 

「まあ、アレだ」

「はい」

「おかえり、だ」

「ただいま、です」

 

 それで十分だった。

 今は。

 

「ところでキリさん」

 

 新八君が、ようやく呼吸を整えながら言った。

 

「その、胸元に抱えてるものは何ですか?」

 

「あー……これは」

 

 言われて、私は自分の腕を見る。

 濡れた布の内側で、小さな赤ん坊が眠っていた。

 いつの間にというには白々しい。

 うん、知っている。アルタナの底で抱えていた松陽の魂。それが、こちらへ戻る過程で形を得たのだ。

 赤ん坊は小さく息をしている。

 白く柔らかな髪。

 夕暮れの光を受けた頬は、驚くほど穏やかだった。

 

「……赤ちゃん」

「見りゃ分かるわ」

「きーやん、いつ産んだアルか」

「産んでない! ちょっと待って、その誤解は社会的に死ぬ!」

「銀さん!? えっ、さっきのアレってそういうこと!?」

「俺を見るな! 俺じゃねぇ! 何もしてねぇ!」

「まだ何も言ってません」

「眼鏡の目が言ってんだよ!」

 

 混乱が一瞬で広がる。

 銀さんが両手を振り、新八君が眼鏡を押し上げ、神楽ちゃんが赤ん坊を覗き込み、定春が匂いを嗅ぐ。

 私は赤ん坊を抱き直した。濡れた布を少し開けると、冷えた空気を嫌がるように小さな指が動く。

 

「この子は……松陽先生だと思う」

 

 その名前を聞いた瞬間、銀さんの顔から色が消えた。

 触れれば血が滲むような過去。ラーメンを零して捨てたと嘯き語るしかなかった深い傷跡。

 だからこそ、私は丁寧に言葉を選んだ。

 

「全部は、後で話す。話さなきゃいけないことが多すぎる。でも、アルタナの中でずっと抱えていたその魂が、ここへ戻る時にこの形を得たんだと思う」

 

 銀さんは赤ん坊を見ていた。

 長い沈黙だった。

 夕陽が沈みかけ、川面が暗くなる。

 赤ん坊が小さく身じろぎし、泣いた。

 細い声。

 けれど確かな、生きている声。

 

「……本当か?」

 

 銀さんの声は低かった。

 疑うというより、確かめなければ立っていられないような声だった。

 私は頷く。

 

「たぶん、そう。少なくとも、私が触れていたのは先生の残った魂だった。もう一度、生まれ直したんだと思う」

 

 銀さんの手が、ゆっくり伸びた。

 途中で止まる。

 触れていいのか分からないように。

 私は赤ん坊を少しだけ差し出した。

 

「抱く?」

 

 銀さんは何か言おうとして、言えなかった。

 代わりに、そっと赤ん坊を受け取る。

 ぎこちない。

 見ていて不安になるほどぎこちない。

 けれど、その手は震えていた。

 

「……小せぇな」

 

 それだけ言った。

 その声があまりにも優しくて、私は何も言えなくなった。

 神楽ちゃんも新八君も黙っていた。

 定春だけが、静かに尻尾を振る。

 

 天国というものがあるなら、きっとこんな場所ではない。

 川辺で、全員びしょ濡れで、赤ん坊を抱え、事情説明は山積みで、帰ったら説教と風呂と洗濯と夕飯が待っている。

 理想郷にしては、あまりにも生活感がありすぎる。

 けれど、私にはそれで十分だった。

 いや、十分すぎた。

 

「帰ろうか」

 

 私が言うと、新八君が頷いた。

 神楽ちゃんが私の手を握る。

 定春が先を歩く。

 銀さんは赤ん坊を抱えたまま、少し遅れて歩き出した。

 

「キリ」

「何?」

「帰ったら全部話せ」

「うん」

「あと風呂入れ。臭ぇ」

「銀さんもね」

「お前のせいで泥くせぇしな」

「人のせいにしない」

 

 いつもの会話。

 いつもの帰り道。

 でも、少しだけ違う。

 銀さんの腕の中に新しい命があって、胸の中に言ってしまった言葉があって、向かう先には帰る場所の明かりがある。

 

 天国には理想郷がありまして。

 それがどんな場所かと聞かれたら、私はたぶんこう答える。

 

 糖分の額縁があって、ジャンプが散らかっていて、酢昆布の箱が落ちていて、眼鏡のツッコミが飛んで、白い大きな犬がいて、どうしようもなく面倒くさい人達が「戻ってこい」と言ってくれる場所。

 

 そんな、ひどく騒がしい万事屋のことだと。

 

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