あれから先生はちょこちょこ出かけては誰かに会っているようだった。桂さんや高杉、あとは江戸で知り合いになった人。人好きのする笑みで、知り合いを次々増やしていく様はこれがコミュニケーション能力かと羨むほど。まるで魔術を見ているようである。
私も見習おうと、吉原のひのやに顔を出す。身内の場所にというのは弱気だが、こういうのは一歩ではなく半歩踏み出すことが火傷しないコツなのだと言い訳をする。
「ちょっと相談があるんだけれど」
そう日輪さんから切り出されたのは、午後を過ぎたあたりだった。
客も落ち着き、清太君の手伝いも様になってきたなぁーと思っていたところで、日輪さんはサービスと言いながら団子を一つ持ってきてくれた。
「なに?」
「実はね……」
受けた相談を簡単に説明すると、吉原にある寺子屋――といっても、ちゃんとした寺子屋ではなく、老人が善意で提供していた手習い所といった雰囲気だったようなのだが、そこの老人が息子夫婦の世話になるため引退することになり、後釜を探しているとのことだった。
私なんかに頼らなくても元花魁の日輪さんのことである、ツテなんて幾らでもあるだろうと思ったのだが、しがらみや貸し借りがあるとどうも面倒になるようだった。できるだけ子供には薄暗い縁から遠ざけたいんだとしみじみ語る姿に苦労が忍ばれる。
「心当たりもなきにしもあらずだけど……ダメ元で聞いてみるね」
「悪いけど頼むよ」
脳裏に浮かべたのは先日の出来事だった。
「そろそろ弟子の世話になるのも終わりにしませんとね」
銀さんは机でジャンプを、神楽ちゃんはソファーでテレビを、松陽先生は神楽ちゃんの隣に座り、新八君は生憎と不在だ。
私は手持ちぶたさを誤魔化すため、チラシでゴミ箱を折っていた。折るのに飽きて、鶴も作ったが何かを間違えたのか不格好な鶴ができあがった。
閑話休題。そんなのんびりとした万事屋で松陽先生が突然言い出したものだから、私と神楽ちゃんは思わず顔を上げて松陽先生の顔をまじまじと見つめてしまう。
「ガキが生いってんじゃねぇーよ」
だが、銀さんは動揺することなく鼻で笑い飛ばす。
「たしかに見た目は子供ですが、いつまでもという訳にはいきませんからね。なにもすぐにという訳ではありません」
その後、銀さんとあーだこーだ言い合っていたが、新八君や神楽ちゃんを引き合いに出されかつての師とはいえ、赤の他人の世話までできる余裕はないだろうと諭され、銀さんがめずらしく折れていた。
先生ならなんでもやって生きていくだろうという信頼はあるが、無駄に苦労はさせたくない。
子供の体だと何かと不便だろうが、吉原なら人の目も行き届きやすいし、その老人が出ていった家もある。
問題は子供が子供に教えるという構図だが……。大丈夫だろうか?
快諾を貰えた翌日、日輪さんに話を持っていくと、彼女もやはりそこを心配した。
顔合わせも兼ねてひのやに訪れた松陽先生は、湯呑みを前ににこにこと笑っている。小さな手、小さな肩、どう見ても寺子屋に通う側の体だ。
だが、日輪さんの心配そうな視線を受けても怯むどころか、笑顔を崩さない。
「この姿では頼りなく見えるでしょうが、人にものを教えることだけは、少しばかり覚えがあります」
「妙に説得力があるねぇ」
日輪さんが苦笑する。
それはそうだ。履歴書に書けないタイプの職歴と人生経験なら、そこらの老人よりよほど分厚い。実年齢については言わずもがなである。
「読み書きと算術、礼儀作法の基礎。それから、できれば子供たちが外で困らない程度の身の守り方も教えたいですね」
「身の守り方?」
「知らないことで奪われるものは、多いですから」
穏やかな声だった。
けれど、その一言だけで日輪さんの表情が少し変わった。吉原で生きてきた人には、きっと説明しなくても伝わるものがあるのだろう。
「……任せてみようか」
そうして松陽先生の就職活動は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
銀さんに決まったことを伝えると難色を示すかと思ったが「本人が言うならいいんじゃねぇーの?」と拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
子供に舐められるのではないかという心配が、どうにも拭えなかったのである。
寺子屋は、吉原の端にある古い長屋を少し直した場所だった。
障子は新しく張り替えられ、机代わりの低い台がいくつも並んでいる。外の喧騒は遠く、筆と墨の匂いがほんのり漂っていた。
集まった子供たちは十人ほど。年も背丈もばらばらで、好奇心を隠さない目がいっせいに松陽先生へ向けられる。
「今日からここで皆さんと勉強することになりました。吉田松陽です」
松陽先生が黒板代わりの板の前に立つと、案の定、ざわめきが起きた。
「先生っていうより、俺らと同じじゃん」
「ちっせぇ」
「字、書けんの?」
ああ、やっぱり。
私は壁際で顔を引きつらせた。日輪さんも隣で静かに見守っているが、眉が少し上がる。
けれど松陽先生は、笑顔のまま筆を取った。
さらさらと迷いなく板に文字を書く。無駄のない、美しい字だった。子供たちのざわめきが、すっと薄くなる。
「では、まず自分の名前を書いてみましょう。名前は、皆さんがどこの誰でもない誰かではなく、ひとりの人としてここにいる証です。丁寧に書くことは、自分を粗末にしない練習にもなります」
子供たちは顔を見合わせた。
難しいことを言われた、という顔ではない。不思議と聞いてしまった、という顔だった。
松陽先生は一人一人の机を回り、筆の持ち方を直し、墨をつけすぎた子には紙の端で調整するやり方を教えた。背が足りないところは踏み台を使う。そこだけ少し可愛らしく、しかし教え方はやけに堂に入っている。
「ここは跳ねます」
「なんで?」
「ここで筆を止めたままにすると、字の形が少し眠たく見えてしまいます。跳ねるところまで書いて、ようやくこの字の形になるんですよ」
「跳ねないと別の字になるの?」
「間違いとまでは言いませんが、読む人が迷うことはあります。字は、相手に読んでもらうものですからね」
なるほど。
単に形を真似させるのではなく、どうしてそう書くのかを一つずつ説明していく。子供たちは首を傾げながらも、もう一度紙に向き直って筆を動かした。
その時、部屋の隅で小さな音がした。
一番後ろに座っていた小さい男の子の紙に、墨がべったり落ちている。隣の少し大柄な子が身を乗り出した姿勢を戻し、何食わぬ顔で自分の紙に筆先を置いた。
よく見れば、「大」と書こうとした文字が「太」に書き換えられていた。
何か言いたげな視線をその子は向けていたが、いたずらをした方は知らんふりだ。
松陽先生が注目する気配を向けると、無理やり同意させるように隣を睨みつける。
「おい、手ぇ滑っただけだろ」
「……うん」
墨を付けられた子は俯いたまま、紙を隠すように押さえた。
慣れたようすのやりとりに、胸の奥が嫌な感じに冷える。
日輪さんが動きかけたが、その前に松陽先生が二人の机の前に立っていた。
「手が滑ったのですか」
「そうだよ。べつにわざとじゃねぇし」
「そうですか」
松陽先生は怒鳴らなかった。
ただ、大柄な子の手から筆をそっと取ると、新しい紙を一枚置いた。
「では、もう一度書いてみましょう」
「は?」
「手が滑るなら、滑らないように練習しなければ」
大柄な子は不満そうに鼻を鳴らしたが、松陽先生の笑顔に押されたのか、しぶしぶ筆を持つ。
松陽先生がその子の手首に軽く手を添えた。
本当に軽く、触れただけに見えた。
「な、なんだよこれ」
「おや。力が入りすぎていますね」
筆先が紙の上でぴたりと止まる。大柄な子は動かそうとしているのに、手首が震えるだけで進まない。
松陽先生は涼しい顔で続けた。
「人の紙を汚す時は簡単だったでしょう。でも、汚したものを直すには、少し根気がいります」
「だからなんだよ」
「手が滑らず書けるまで付き合いますよ。先生ですから」
笑顔が怖い。
すごく穏やかなのに、有無を言わせない迫力がある。
大柄な子はしばらく抵抗するように力を込めていたが、やがて観念したように力を抜いた。
「手首には力を入れず、腕を使って書くように」
松陽先生は手を離し、今度は本当にただ姿勢を直してやる。
何度か修正を促され、墨で手を黒くして、ようやく自分の名前を書ききる。
「……これでいいだろ」
「よくできました。では、彼に新しい紙を渡して、先ほどのことを謝りましょう」
「なんで俺が」
「君の手が汚したからです」
静かな声だった。
大柄な子は唇を尖らせ、しばらく反抗していたが、周りの子供たちの視線に耐えきれなくなったのか、新しい紙を隣の男の子に渡す。
「……悪かった」
「う、うん」
受け取った子が頷くと、松陽先生はその隣に膝をついた。
「君も、嫌なことをされた時は嫌だと言っていいんですよ」
「でも」
「声が震えても構いません。小さくてもいいから、まずは嫌だと言ってみなさい。どうしても声が出ない時は、手をあげてください。私が、君の声を聞きに行きます」
そう言って、松陽先生は小さく笑った。
男の子はしばらく紙を見つめ、それから小さく頷いた。
授業が終わる頃には、最初のざわめきはすっかり消えていた。
子供たちは松陽先生の周りに集まり、次は何を教えるのか、剣も教えるのか、先生は本当に子供なのかと口々に訊いている。
松陽先生は一つ一つ丁寧に返事をしながら、墨のついた手を拭いてやっていた。
「心配いらなかったね」
日輪さんがぽつりと言った。
「そうだね。逆に腕白坊主の心配をしてあげる必要がありそう」
実際、初日にして一人、きっちりやり返されている。
ただしそれは、殴る蹴るではなく、相手に自分のしたことを自分の手で始末させるという、地味に逃げ場のないやり返しだった。
先生という生き物は、怒らせると怖い。
しかも松陽先生は、元が銀さんたちの先生で、知識と経験だけは山ほどある。そんな人に子供が一時の勢いで勝てるはずもなかった。
「どうやら、向いているみたいだね」
「ええ。私も、少し安心しました」
松陽先生は子供たちに囲まれたまま、こちらを振り返って穏やかに笑った。
その姿はやはり子供にしか見えない。
けれど、その場にいる誰よりも先生だった。