事後処理も兼ねて真選組の屯所を尋ねる。
入院すると思っていたようで、翌日面会に来た山崎さんとすれ違ってしまったのだ。
「手間かけさせて悪いけど、決まりでさ」
そういって山崎さんから渡された書類にサインを入れる。
病院費用の払い戻しやら、慰謝料やら、今後の免責事項諸々の書類らしい。
細かい注意事項を聞きながら、書類に走らせていたペンを止める。
「あー、銀行の口座。現金受け取りでも可能?」
振込先かぁ。バイトは手渡しだったからなぁ。
ダメ元で聞いてみたら、ああと、分厚い書類の山から白い封筒を取り出す。
付箋が貼られており、黒崎キリと書かれていた。
「なに? 開けてもいいの?」
「もちろん」
差し出された封筒を受け取り、中身を確認する。
「戸籍……謄本と住民票……?」
「就籍救済特別法。大戦時に戸籍が焼失もしくは遺児となり戸籍を失った人を対象とした法律だけれど、まだちゃんと機能しててね。君の場合は事情が事情だったから少し裏から手を回させてもらったけど、それは君のものだ」
かつての私は子どものような正義感から嫌悪と好意の間で迷い、好意を捨てきれず目と耳を閉じ口をつぐんだ。
けれど、彼等はその狭間からほんの一欠片こぼしてしまった言葉を拾い、誠の文字に恥じぬよう尽くしてくれた。
「なんだろ……。突然過ぎて上手くお礼言えないんだけど嬉しい。ありがとう」
「どういたしまして。良かった。これで口座だって作れるし、結婚も、将来生まれてくる子供だってちゃんと国に認められるから」
結婚に子供。想定していない言葉を想定していないタイミングで聞いてしまって、危うく書類を取り落とすところだった。
「せくはらー」
「えっ、あっ、ごめん。女の子は難しいな……。あ、そうだ……あとこれも……」
そう言っておまけとして渡されたものはプリンの空容器。
ドーナッツホールは、ドーナッツが存在することによりその存在を証明することができるという。ドーナッツが存在しなくなった場合、ドーナッツホールもまた存在を証明することができなくなる。
同様に、存在しない『なにか』は、『なにか』を覚えている人間が存在することでしか証明できないのではないだろうか。
はたして、失った『なにか』を失った事にすら気づかない人間に、『なにか』を証明することはできるだろうか?
動揺を隠せなかった私に、心配そうな顔をして何度も山崎さんが大丈夫か? と何度も聞いてくる。
大丈夫と言ったところで信用して貰えない程度の自覚はあったので、ごめん、銀さん呼んでもらえる? と絞り出した声は思いの外掠れており心底ダメなのだと改めて確認した。
「記憶が一部ないんです。特に家族の記憶が。思い出と呼べるものが少しだけ。でも、家族の顔や名前が一切思い出せなくて。細かい部分はもうほとんど分からなくて。母と父と弟、祖母がいたはずなんですが」
ぽつり、ぽつりと症状を伝えれば伝えるほど、私が失ったものが輪郭を作る。失った物が多すぎて何を失ったのかも気付けなかった。
頭を打った影響だろうか? それから検査をいくつかして、脳やその周辺に外傷はやはり見当たらず、現代医療ではどうすることもできないという結論が出た。
病院からの帰り道、銀さんと並んで歩く。空は高く、青く綺麗で、葉桜の並木道は木漏れ日を優しく落としていた。
「落ち込むなとは言えねぇが、何かの拍子に思い出すこともあんだろよ」
私はその優しさに救われながらも、銀さんの願う楽観的な未来は気休めではないかという疑念を抱いていた。
「ねぇ、銀さん。私の記憶っていつからなかったんだろう。私、帰ってきてからあっちのことなんて言ってたっけ?」
記憶を確かめていくうちに、私はある違和感に気づいてしまった。記憶は頭を打ったことで失われたのではなく、その前からすでに失われていたのではないか、と。
そう、江戸に戻った時にはもう。銀さんや桂さんに事情を説明したとき、私はなんと言っていただろうか?
「……こっちに来る前のお前に会ったって。そいつをこっちに送って、代わりに家に戻るか迷ったがこっちに来ることを選択したってそう言っていた」
思い返してみるが、向こうの世界で誰に会ったとか、何を見たとか、懐かしかったとかそーいう説明はしなかった。
銀さんの証言とも一致する。きちんと説明すると宣言したにもかかわらず、なぜ説明しなかったのか。
思いを巡らせるが、私は私に会ったことは覚えているが、それ以外に何も向こうの世界の事を覚えていなかった。思い出せなかった。
ベッド脇に置いてた筈のジャンプの表紙も、栞代わりにしていた折り紙の鶴の色も思い出せない。事実として見ている筈の景色が思い出せない。
その他に何が私の部屋にあったのか……。記憶は掠れている。
私はもうあの時には、記憶を失っていたのではないか?
未来と過去とを行き来した影響だろうか? アルタナに長らく身を置いていた影響だろうか? 世界を渡った影響だろうか? 力を失った影響?
覚えている事実を一つずつ確かめていくうちに、意識の外に置いていた記憶の意味を不意に理解する。
「銀さん、私……」
アルタナの底で目を覚ました時、皆の声がする方向だけは分かっていた。
けれど、まるで泥人形にでもなったかのように体は重く、このままでは永遠にたどり着けない――そんな予感だけが、妙にはっきりとあった。
それでも、あらがい、もがくたび、私から何かが剥がれ落ちていく。
その度に、焼け付くような痛みが走り、反して体が軽くなるのを感じていた。
その意味をその時の私は理解していなかった。
それでも、生存本能が何を差し出そうともそれだけは決して失ってはならないと訴え続けていた。私はその正体も分からぬまま、それを護り、ひたすらあがき続けていた。
超感覚的な物事をうまく説明できないまま、私はそれを銀さんに伝える。
「落っことしちまったもんを、拾いに行くって訳にはいかねぇのか」
「たぶん無理だと思う。もうそれは私の一部とは言えないものになってしまったんじゃないかな」
二度と取り返すことのできないものなのだと理解した瞬間。目頭がじんわりと熱くなり、ぼたぼたと涙が止まらなくなってしまう。
「お、おい」
「ごめん、少し待ってもらっていいかな?」
私は感情の制御を失いつつも、私以上にうろたえる銀さんを歪んだ景色の向こうに捉えていた。
私があまりにも泣くものだから頭を撫でたり、背中をさすったりどうにかしてやろうと必死に手を尽くしていた。
その姿がなんだかおかしくて、愛おしくて、私が失いたくないと護り続けたものがなんだったのかに気づく。
「女の子がさ、泣いていたら抱きしめるもんなんだよ」
そう嘯いてみたら、そろりそろりと手を回し抱きしめてくれる。
腕の中はとても温かく、着流しからはお日様の匂いがした。帰り道を見失った私に軒先を貸してくれた人。今もこうして泣き止まない私に温もりを分けてくれる。
そのぬくもりは、乾ききった大地へ降るやわらかな雨のように、私の心の隅々まで静かに染み渡っていった。
だから、私は失った痛みを受け入れることができた。
だから、私は掴み取ったものを誇ることができた。
「銀さん、ありがとう。私は……私の大事なものを護ったんだ。私は間違わなかった」
こぼれる涙はあるけれど、私は確かに幸せだった。