数か月の時が経ち、エステアたちは人間界での生活にもすっかり慣れきっていた。
偽名も生活も日常に溶け込み、今では近所でも「未亡人ながら明るくたくましい母親」として、それなりの好評を得ている。もっとも、その「未亡人」が魔王であり、たくましさの源が「全盛期のドラゴンでも泣いて逃げ出すレベルの魔力」だとは誰も思っていない。
今日も空は穏やかに晴れ渡り、セスは昼過ぎから街へ買い出しに。エステアも少し遅れて私用があり出掛けていた。
「じゃあ、ノクスのお世話はよろしくね、ジョーヌ」
「は〜い…面倒だけど、楽だし別にいーよ…ふあああ……」
エステアの軽い頼みに、ジョーヌはいつものように眠そうな返事を返す。悪魔種としてはまだ未熟、しかしそれゆえに過剰な力や責任もなく、気楽な監視任務――という名の居候生活を満喫中だった。
屋敷の居間では、ノクスが絵本を広げて一生懸命に文字をなぞっていた。読み聞かせを頼まれたジョーヌは、ソファにだらしなく寝転がりながらも応じてやる。
「……むかしむかし、あるところに、おおきく優しい王様がいました〜……」
「うんうん」
真剣に絵本を楽しんでいたノクスはぽかぽかとした日差しに誘われて、うとうとし始めた。
「ふぁ……なんだか、ねむい……」
「じゃあ寝れば? あーしも寝るし」
そう言ってジョーヌは毛布を取り出し、ノクスの隣に転がる。ツーサイドアップの髪を投げるように背中へ流し、丸まって目を閉じた。
その後、しばらくして。
――ガチャッ。
玄関の扉が、音を立てて開いた。
「ここか。随分わかりにくい場所だったな……」
「なによ、あんたが迷ったせいでしょ。モルテ」
「我は道案内よりも戦いのほうが得意なのじゃ……それよりもじゃ!お前が行くとこ行くとこで声掛けられまくるからこんなに遅くなったんじゃろうが!」
「まあまあ、せっかく三人そろって人化できたんだし、主人にサプライズってのも悪くないだろ? ノクスもきっと驚くだろうしな!」
リュース、アミー、モルテの三人が屋敷へと到着していた。
魔王エステアに無断で人間界に来てしまったのは、半ば勢いだった。セスが送り出すつもりで動いたわけではないが、三人は人化の術を習得したあと、「様子だけでも見に行こう」と意気投合し、押しかけたのである。
そして居間の扉をそっと開けて中を覗くと――
「……おい、あれ……!」
「ノクス!? な、なんで見知らぬ女の子と抱き合って寝てんのよ!」
「しかもあの魔力波長……悪魔種かッ!!?」
三人は目を見開いた。ノクスは無防備な寝顔のまま、ジョーヌに抱きつくように眠っている。
――悪魔が、ノクスに取り憑いている。
三人は完全にそう信じていた。
「助けるぞ!!」
リュースが腰の剣に手をかけ、アミーは魔力を集中させ、モルテは即座に詠唱に入る。
その気配に、ジョーヌの眠気が吹き飛んだ。
「……え? なに、この気配……!? うそ、まって、あーし、違う、戦う気とかないし!」
焦った彼女はノクスを抱えて後ずさる。
(あかん、あかん、あれ絶対殺されるやつ! こっちは弱小悪魔、あっちは殺る気満々の格上の“人間”……ムリムリムリムリムリィッ!!)
「ノクス! 逃げるよ! この家から!!」
「こら待て! どこへ連れていく気だ!!」
アミーの叫びが響いた瞬間。
「……あれぇ、みんなどうしたの〜?」
ノクスがむくりと起き上がった。
「ん~、みんな知ってる気がする〜……えへへ、こんにちはぁ〜」
間抜けな挨拶が空気を一瞬にして氷結させた。
「……えっ、え、なに?」
「ま、まさか……ノクスが自分から……?」
「そんなはずはない、誘拐では……ない……のか?」
数秒の沈黙。
「「「勘違いしてたあああああああ!!!」」」
三人が床に崩れ落ち、ジョーヌもその場に座り込む。
「いや、そっちが勝手に勘違いして、殺気ばっかぶつけてきて、心臓止まるかと思ったんですけど!?」
「ご、ごめんなさいぃ……!」
「うわーん! ノクスが、ノクスがえっちな目にあってるかと思ったのじゃ!!」
「すまん…俺も悪魔がノクスに取り憑いているのかと勘違いした…」
そのタイミングで、ようやく玄関からエステアが帰ってくる。
そして目に入ったのは、ぐったりしたジョーヌと慌てふためく三幹部。
次の瞬間。
「何をしてるのかしら、あなたたち――?」
氷のようなエステアの声が屋敷に響いた。
ーーセスが帰ってきたとき、屋敷の中はちょっとした地獄絵図だった。
崩れ落ちた三幹部に、安堵と動揺で涙目のジョーヌ。そして当のノクスは、何も知らずにのんびりとあくびをしている。
「……ふむ。留守中に何かあったようですね?」
セスはニコリと笑った。その笑顔は、魔界の氷河期を思わせるほど冷たかった。
「では、お話を順にうかがいましょうか。まずジョーヌ。何が起きたのか、冷静に説明しろ」
「……う、うん。あのね、絵本読んでたらノクスが寝ちゃって、あーしも寝て……そしたら、こいつらが勝手に入ってきて、殺されかけたんだけど!」
「こいつら呼ばわり!?」
「違う、これはな、ノクスが悪魔に襲われてるって思ったからで……」
「わかりやすいぐらいの悪魔じゃったから、絶対敵だと思ってしまっての……」
「わ、わたしも完全にその……ノリと勢いで………」
セスは額を押さえた。言葉にならない、頭痛を抑えるように嘆息が漏れる。
「では、まとめますと――」
一拍。
「勝手に屋敷に侵入し、主の不在中に武力行使しようとし、ノクスを起こし、騒ぎを大きくし、しかもすべて誤解だった、ということですね?」
「「「「はい……」」」」
四人の返事は、虫の鳴くような声だった。
「ジョーヌ」
「……はい」
「君が一番の被害者のようですね」
「そ、そうよ! 正当防衛だもん!」
「とはいえ、ノクスを抱えて逃げようとした姿は、どう見ても誘拐犯に見えました」
「……ぐぬぬ」
「ということで、四人まとめて減点対象。次に同じことをしたら、一ヶ月雑巾がけです」
「「「「はいぃ……」」」」
怒鳴りはしない。だが冷ややかな言葉が突き刺さり、四人は並んで正座する羽目になった。
夕食時、場の空気もようやく落ち着き、ノクスの「おなかすいたぁ〜」の一言で和やかな雰囲気が戻ってきた。
長いダイニングテーブルに料理が並び、魔族とは思えぬほど家庭的な食卓が広がる。
その中で、セスが一言口を開いた。
「ジョーヌ」
「……なに?」
「君は、三人を見て逃げようとした。しかし、ノクスを見捨てて逃げなかった」
ジョーヌの手が止まる。
「たとえ君が弱小悪魔だとしても、ノクスを守ろうとしたその行動は、私たちにとって非常に重要な意味を持ちます。ありがとう。そして、見縊っていたことを謝罪します」
「……」
ジョーヌは顔をそむけた。
「別に……ノクスが寝てたから逃げられなかっただけだし。恩着せがましいの嫌いだからね、あーし」
それでも、耳がほんのり赤いのはご愛嬌だった。
エステアもまた、微笑みながらジョーヌに目を向ける。
「ありがとう、ジョーヌ。私の子を守ってくれて。母として感謝するわ」
「……べつに……それが任務だし……」
視線を合わせるのが恥ずかしくて、ジョーヌはパンのかけらをいじる。
(……でも……うれしい、かも)
その様子を見ていたノクスは、何も言わずにジョーヌの腕にそっと寄り添う。ジョーヌは驚いたように見下ろし、すぐに目をそらした。
「……ったく、子どもは正直すぎて困るわ……」
だが、和やかな空気は長くは続かなかった。
「……で?」
アミーが唐突に言った。
「ジョーヌ。ノクスの隣で抱きついて寝てたって、どういうことかな?」
「ん?」
「しかも、ノクスの足を枕にして、ほっぺにキスしてたという情報もあるのじゃ!」
「いや、うそ、そんな事するはずねーし!!?」
「ノクスに悪い虫がついてるってことよね」
「そうじゃな。ここはひとつ、念入りに対策をしておかないとな……!」
「え? やめて!? なんで巻き戻るの!? さっきの感動どこいったの!?」
モルテとアミーが椅子を立ち、ジョーヌの両肩を掴んでずるずると個室へと引きずっていく。
「ノクスに色目を使うとは100年早いのよ!」
「自白剤は何種類かあるが、どれ使うかの?」
「いや魔界ルールやめて!? ノクス助けて!!?」
「ばいばーい、ジョーヌ。あしたもあそぼーね〜」
「たすけるきないでしょあんたあああああああああ!!」
扉がバタンと閉まった後、静まり返った食卓でノクスは満足そうにスープを飲む。
「はぁ…まったくあの問題児どもは…」
「賑やかでいいじゃねぇか!」
「……ママ、たのしいね」
「そうね……楽しまないと損ね!」
エステア達の賑やかな笑い声は夜遅くまで響いていた。