第一節:ふつうの幸せ
アルセナの街は今日も快晴だった。ほどよい陽気に包まれた朝の広場には、露店の賑わいと共に焼きたてのパンの香りが漂っていた。石畳の道を軽やかな足取りで歩くのは、ノクスとその母エステア。二人は手をつなぎながら、街の市場をのんびりと巡っていた。
「ねえ、母さん。あれ見て! あの果物、すっごくおいしそう!」
ノクスが指差したのは、山盛りにされた熟れたオレンジだった。甘酸っぱい香りが風に乗ってふわりと鼻先をくすぐる。
「ふふ、オレンジは今が旬だからね。じゃあ、今日のおやつに買っていこうか」
「やったぁ!」
ノクスは無邪気に笑い、ぴょんと跳ねた。そんな様子に、周囲の買い物客たちも思わず微笑ましい視線を向ける。エステアはと言えば、そんな人目も気にせず、息子の手をぎゅっと握りなおしながら微笑んだ。
(こうして過ごす日常……昔の自分からは想像もできなかったわね)
ほんの数年前までは、魔界でその名を知らぬ者はいない魔王だった彼女が、今はこうして一人の母親として人間界で穏やかな日々を送っている。戸惑いながらも、この平穏を守ることが今の彼女の何よりの願いだった。
パン屋の焼き立てのバゲットを二つ買い、果物屋では試食をさせてもらいながら歩いていたその時だった。
「――おや?」
ふと、広場の噴水の前に見知った二人の姿を見つけた。赤毛の爽やかな剣士ベアルと、青髪のクールな魔法使いマリー。《銀の楯》の名で知られる若き冒険者たちだ。以前、教会でノクスに冒険譚を語ってくれた二人でもある。
「あっ! ベアルさん! マリーさん!」
ノクスがパッと手を離して駆け出す。慌ててエステアが呼び止めるより早く、ノクスは勢いよく二人に駆け寄っていった。
「やあ、ノクス!また会ったな」
「今日も元気そうで何より…」
ベアルが朗らかに頭を撫で、マリーは小さく手を振った。ノクスは目を輝かせて言った。
「またお話、聞かせてくれる? この前の続き、すっごく面白かったんだ!」
「もちろんいいぞ。俺らもまた君に会えるといいなと思ってたんだ」
「……気が向いたらねー」
そっけなく言いながらもマリーもまんざらではない様子だった。ノクスは嬉しさのあまり足元を跳ねるようにしていたが、その瞬間、石畳の段差に足を取られて――
「わっ!」
ゴスッ、と音を立てて転倒した。
「ノクス!?」
エステアが駆け寄る。膝を擦りむいたノクスは、痛みに顔をしかめながらも歯を食いしばっていた。
「いたた……でも、大丈夫……!」
「ダメよ、ちゃんと見せて。……血が出てるじゃない」
エステアは膝をついてノクスの手を取ると、周囲の目も気にせず治癒魔術を発動させた。手のひらから淡い緑色の光がほとばしり、ノクスの膝をやさしく包み込む。みるみるうちに血が引き、傷跡すら残らず癒えていく。
その様子を目の前で見ていたベアルとマリーが、ほう……と声を漏らす。
「お母さん、治癒術士だったのか。珍しいな、なかなかお目にかかれない」
「しかも、けっこう高度な癒しだったよ。魔法の構築が綺麗」
予想外の反応に、エステアは一瞬ぎくりとしたが、すぐに落ち着いて微笑みを返した。
「ええ、まあ……昔、ちょっと学んだだけですよ」
「ありがとう!母さん。僕、もう痛くないよ!」
ノクスの笑顔にエステアもほっとする。そんな親子のやりとりを見て、ベアルは優しい笑みを浮かべて言った。
「本当に、いいお母さんだな。ノクスが元気なのも分かる気がするよ」
「……うん、同感」
マリーも珍しく柔らかい口調で頷いた。
――その言葉に、エステアは一瞬言葉を失った。
自分が「良い母親」だと評価される日が来るなんて。昔の自分が聞いたら笑い飛ばしただろう。しかし、今はその言葉がただ純粋に、嬉しかった。
「ありがとう……ございます」
ふと、風が吹き抜けて、エステアの金髪をそっと揺らした。それは、かつて魔王と恐れられた彼女を、今ひとりの“母”として優しく祝福するかのようだった。
傷が癒えたノクスは、何事もなかったかのように再び笑顔を取り戻していた。いや、それ以上だ。目の前のベアルとマリーにまた話を聞かせてもらえると知ったその瞬間から、彼の心はもう次の冒険譚の世界に飛んでいたのだろう。
「じゃあ、また今度って言わずに、今日の午後にでもちょっと聞かせてよ! 母さんがいいよって言ってくれたらだけど!」
「はは、そんなに楽しみにしてくれてたんだ。マリー、どうする?」
「……まあ、別に。予定はないし…」
マリーはいつもの無表情のまま答えたが、明らかに口元の端が緩んでいた。それに気づかないノクスは嬉しそうにぐるぐるとその場で回り始め、再びつまずかないかとエステアは冷や冷やしながら目を細める。
「ノクス、走り回らないの。……けど、そうね。せっかく会えたんだし、少しならお願いしてもいいかしら?」
「やったぁぁあ!」
ノクスの歓声が広場に響く。ベアルが笑いながら頭をくしゃっと撫で、マリーは避けるように半歩だけ後ろに下がった。
「それじゃ、ノクスをちょっとだけ預かるよ。夕方までには家に送り届ける」
「ええ。……本当に、ありがとうございます」
エステアは微笑みながらも、どこか複雑な気持ちで頭を下げた。
(……少しは、ノクスにも“交流”が必要よね)
そう自分に言い聞かせるように呟く。人間社会で普通に生きることがいかに困難か――それを誰より知っているのはエステア自身だ。
それに、今のノクスの瞳には確かに希望と憧れが輝いていた。それを曇らせたくはなかった。
ノクスが二人に連れられ、楽しそうに広場を歩いていく。その小さな背中を見送るエステアの胸に、ふいにひんやりとした風が吹き抜けた。
――まるで、取り残されるような、そんな感覚。
そのまま広場を後にし、ひとり歩く帰り道。日が傾き始めた石畳には、長く細い彼女の影が伸びていた。
途中、通り過ぎる商人や近隣の婦人たちがエステアに軽く会釈していく。街に住み始めてしばらく経ち、徐々にではあるが人との関係も築けてきていた。けれど――。
(やっぱり、私は異物なのよね)
心の奥底に渦巻く疑念が、ふと顔を覗かせる。
人間のフリをして、穏やかな母親として過ごしている。ノクスと一緒に、笑って、食べて、眠って――それがどれほど温かいものかは、もう知ってしまった。
けれど、その全てが「偽りの上に成り立つもの」だと、どこかで理解している自分もいる。
(魔族と人間……やっぱり、違いすぎるのかしら)
自宅の門を開け、静まり返った屋敷の中に足を踏み入れた途端、エステアは一度立ち止まった。ドアを閉じる音が、やけに大きく響く。
ふと振り返ってみる。そこにはもうノクスの姿はない。ほんの数時間預けただけのはずなのに、妙に心にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。
(あの子は、私が知らない世界をどんどん広げていくんだわ)
ノクスの足取りは、軽やかで、まっすぐだった。自分が道を示さずとも、彼は自分で道を選び、進み始めている。
だからこそ、エステアは焦ってしまう。
「理想の家族」とは、なんなのだろう?
さっき、銀の楯の二人に言われた言葉が胸に刺さる。
『いいお母さんだね』
その言葉は確かに嬉しかった。でも――あの子たちは私の正体を知らない。私が、どれほど多くの命を葬ってきたかも。
ノクスにとって、本当に「良い母親」であれるのか?
魔族の血を引く私が、本当に「人間」を育てられているのか?
そして、なにより――。
(ノクスが、人間たちと笑い合っている姿が……眩しかった)
銀の楯の二人に囲まれて、ノクスは心から楽しそうだった。まるで、兄や姉と一緒にいるかのように。
……いや、それ以上に「自然に」人と溶け込んでいた。
それを嬉しく思う一方で、自分だけがその輪の外にいるような感覚。魔族としての出自は、どうしても拭えない壁だった。
ふと、エステアは窓辺に歩み寄り、外を見た。夕陽が街をオレンジに染めている。どこかで子どもたちの笑い声が聞こえた気がして、彼女は目を細めた。
(……ダメね、何を感傷的になってるのかしら)
エステアは小さくため息をつき、額に手を当てた。
(とにかく、今はノクスの無事を祈っておくことにしましょう)
そして同時に、自分も少しだけ前に進まなくてはならないのだと理解していた。
彼女は魔族だ。だが、それでも――「母」になろうとしている。
その矛盾を抱えながら、それでも彼女はこの街で、ノクスと共に生きていこうと決めたのだから。