「……また、何も起きなかったわね」
マリーは長椅子の背にもたれ、ひとつ深い溜息を吐いた。
通りを眺めるふりをしながら、数時間前から広場で遊んでいたノクスを目で追い続けている。
アベルも近くの建物の影に立ち、同じ方向を見つめていた。
広場では市場が賑わい、家族連れや行商人のやり取りが続いている。
その中に、ノクスの姿はすっかり溶け込んでいた。
「この数日、日替わりで監視してるが……どこにも怪しい動きはないな。魔力の気配も、異常行動も、何一つ」
「そう、何も起きない。それが逆に、怖いのよ」
マリーは小声でつぶやき、日記のような手帳に今日の経過を書き加えた。
ページの端には、数日前の市場でノクスと会話を交わした時の記録が残っている。
あの日の無邪気な笑顔、冒険譚を聞いて目を輝かせた姿が。
「ノクス本人には、何の変化もないのよね?」
「……ああ。だが“魔物に狙われている”という状況は、変わらん」
アベルの声には、苦みが混じっていた。
ノクスの母――エステアが治癒魔術を使った件も、確かに普通ではない。
だが、それは単に彼女が高い魔術の素養を持っている、というだけの話にすぎないかもしれない。
「……それでも、私たちは動かなきゃならないのよね」
マリーはそっと目を伏せた。
このままノクスを見守っていても、魔物の影は現れない。
だが動かねば、何かが起きた時に手遅れになる。
その危険を背負っている以上《銀の楯》は決断を迫られていた。
アベルが腕を組み、低くうなり苦渋の決断をした。
「……なら、やはり“隙”を作るしかないな。魔物にノクスを狙わせ、その瞬間を狩る」
「そのために、ノクスに教会の中庭まで来てもらうのはどう? “続きを話してあげる”って言えば、彼は喜んで来るわ」
「……それで、夜に一人で帰す、と」
「ええ。その帰路を、私たちで見張る。魔物が動けば即座に排除。それで一件落着、のはずよ」
沈黙が、二人の間に落ちた。
「マリー。……本当に、大丈夫なのか?」
アベルの声には、いつになく強い色がこもっていた。
「……見たろ? あの親子の仲の良さを」
「ええ」
「母親に抱かれて笑うノクスを見て、俺は……未だに迷っている。初めて、かもしれん」
マリーは答えなかった。
代わりに、静かにノクスのいる広場の方へ視線を戻す。
その小さな背中は、あまりに無垢だった。
「だけど、私たちは“何もしない”という選択肢を取れない。たとえ一時的に裏切るような形になっても、結果的にノクスを守ることになるなら……それが、私の正義」
「……わかった、行こう。教会までの護衛は俺がつく。何かあった時、すぐに対応できるように」
アベルはそう言って立ち上がった。
決して納得してはいなかった。
だが、この街で命を預かる者として、選ぶべき道が他にないことも知っていた。
「明日、誘導するわ。広場でノクスに話しかけて、冒険譚の続きを教会で話してあげるって」
「……頼む、マリー。あの子を絶対に、傷つけるな」
「わかってる。私たちのやり方で、必ず守る」
二人は言葉を交わし、夕暮れの街に溶け込んでいく。
その姿は、正義と現実の狭間で揺れる者たちの、静かな決意の表れだった。
その日――ノクスはまた、新しい冒険譚を楽しみに、笑顔で明日を待っていた。
今日はなんだか、良いことが起きそうな気がしていた。
空は晴れていて、広場には屋台がたくさん並んでいて、パン屋さんの前を通るたびにバターのいい匂いがした。
ぼくは母さんに内緒で銀貨を一枚だけポケットに入れてきた。エステア母さんは、よく「勝手にお金を持ち出しちゃだめよ」と言うけど、今日は特別。マリーさんとアベルさんにまた会えたら、何かお礼をしたかったのだ。
あの二人は、ぼくが憧れている冒険者。
大きな剣や鎧を持ってるのに、優しくて、話をしてるととってもワクワクする。
この前、エルフの王国でドラゴンと戦った話をしてくれて、ぼくはその夜、興奮して寝られなかったくらいだ。
「んー……今日は会えるかなぁ……」
ぼくは広場の端にある石の階段に座り、パンをかじりながら人の波を眺めていた。
教会の鐘が、遠くでコーンと鳴った。その音がやけに気持ちよく響いたその時――
「よっ!ノクス元気にしてるか?」
「わっ!」
声をかけられて、びっくりして飛び上がった。
振り返ると、そこにはマリーさんがにこやかに立っていた。
後ろには、アベルさんもいた。二人とも相変わらずかっこよくて、ぼくはすぐに笑顔になった。
「また会えたね! 今日はなにしてるの? 怪物のしっぽを追ってるの? それともお姫さまを助けてる最中?」
「ふふ、今日はちょっと一休み。実はね、前に話した冒険譚の続きを、君に聞かせてあげようと思ってたの」
「ほんと!?」
思わず立ち上がって、パンを落としそうになった。
急いで口いっぱいに押し込んで、慌ててゴクンと飲み込む。
「き、聞く! 聞きたいです! 前回、砂漠の魔神が出てきたところで終わっちゃったから、ずっと気になってた!」
「じゃあ……今日は特別に、教会の中庭で続きを話してあげる」
「中庭?」
「うん。静かで、邪魔も入らないし、星も見える時間帯に話したいの。ちょっと大人っぽい雰囲気、どう?」
「星の下の冒険譚……! それ、ぜったいにロマンが詰まってるやつだ!!」
ぼくは飛び上がるようにして頷いた。
アベルさんが「走るとまた転ぶぞ」と苦笑いしてたけど、ぼくは気にならなかった。
だって、また冒険者のお話が聞けるんだもの!
「じゃあ、夕方の鐘が三つ鳴ったあとに、この広場の前においで。アベルが待ってるから一緒に来なよ、あと
「……わかった、約束する。僕は冒険者になるから、約束を守るのも得意なんだ!」
「いい子ね。それじゃあ、また夜に」
マリーさんはぼくの頭を軽く撫でて、それから二人で去っていった。
その背中をぼくは、ずっと見送っていた。
――なんだか、少しだけ変な感じがした。
マリーさんの笑顔が、いつもよりやさしすぎた気がした。
アベルさんの目が、ぼくじゃなくて、その向こうを見ていた気がした。
でも、すぐにそんな気持ちは吹き飛んだ。
ぼくは一人でくるくる回って、石段に座り直した。
「今夜は、冒険譚の続き……!」
胸が高鳴る。まるで本当に、自分が物語の中に入り込んでいくみたいだった。
ぼくはこの街で、母さんとたくさん思い出を作ったけど――
きっと、今夜のことは、特別な夜になる。
何が起こるかなんて、ぼくは想像もしていなかった。
けれど、その夜。
教会の門の向こうで、ぼくを狙う“影”が静かに忍び寄っていたことを――
その時のぼくは、まだ知らなかった。