「今日は本当にありがとう! すっごく面白かった!」
教会の扉の前、すっかり日が落ちて空が藍色に染まりきった頃、ノクスは満面の笑みでアベルとマリーにお辞儀をした。
「こちらこそ。君が楽しんでくれて良かったよ」
「また聞かせてくれって言ってくれるの、ちょっと嬉しいもんだね」
アベルもマリーも、どこか微笑ましそうにノクスの頭を撫でた。
「でももう遅い時間だ。そろそろ家の人が心配するだろう?」
「……うん」
名残惜しそうに頷くノクス。口をとがらせながらも、しっかりとした足取りで帰る準備を始める。
「今日は送ってあげられないんだ、ごめん。別件でやらなきゃならないことがあってさ」
「大丈夫。もう道は覚えたし、魔物なんか出たら──」
と、ノクスが胸を張った瞬間。
「こんな街中で魔物なんか出ないよ、きっとね」
マリーが軽くノクスの肩に手を置いて制した。柔らかな笑顔の奥に、どこか翳りがある。ノクスはそれに気づかず、首をかしげた。
「じゃあ、気をつけてな。何かあったらすぐ叫ぶんだぞ」
「うん! またね!」
手を振って去っていくノクスを見送るアベルとマリー。表面上は穏やかだが、二人の目はまるで狩人のように鋭かった。
「……行ったな」
「尾行するよ。魔物が姿を見せるなら、あの子が一人のときだ」
アベルは軽く頷き、教会の裏手に回ると、ひそやかにその姿を夜に紛れさせた。マリーもその後を追うように影へ消える。
──
一方その頃、ノクスは軽やかな足取りで夜道を歩いていた。街灯がぽつぽつと灯る石畳の道。人通りはほとんどなく、風に乗ってどこかからパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「……マリーさんの話、すごかったなぁ……ネクロマンサーって、やっぱり怖いけどかっこいいな……」
小声で呟きながら、ノクスは両手を腰に当てて背筋を伸ばす。少しでも冒険者っぽく見えるように、誰も見ていないのに背伸びしている様子はどこか微笑ましい。
その顔には不安の色は微塵もなかった。今日、家族には“夜まで遊んでいいよ”と許可をもらっていたのもあり、足取りはご機嫌そのもの。何より、自分のことをちゃんと話を聞いてくれる“大人”たちと過ごした時間が、嬉しかったのだ。
──そして、その油断こそが、影を呼び寄せる。
「こんな夜更けに、一人で、なにか良いことでもあったのかい?」
唐突にかけられたその声に、ノクスはぴたりと立ち止まった。背後、建物の影からひょっこりと現れたのは──銀髪の人物。
月明かりを背負うように立つその姿は、どこか幻想的だった。細身の体に長めのマント。肩からかかる髪は絹のように滑らかで、淡く光を反射している。
「えっと……誰?」
ノクスが警戒心よりも先に首をかしげて問いかけると、相手は楽しそうに口元を緩めた。
「名乗るほどの者じゃないけど──ま、せっかく会ったんだし。自己紹介しようか。俺の名前はルカ、吸血鬼という奴さ。少しだけ付き合ってくれないか?」
その声は妙に耳に残る、どこか愉快そうな響きを持っていた。
──そしてその背後、少し離れた場所。
屋根の上、闇に溶けるように身を潜めたアベルが、その異質な存在に眉をひそめる。
「ようやく現れたな──魔物」
風の音にまぎれた小さな声が、ルカの耳に届いた。
「──まさか、一人じゃなかったのかい?」
息を呑むように呟いた。
その表情は驚愕そのもので、金色の瞳が大きく見開かれている。ついさっきまで余裕ぶっていた態度は消え失せ、まるで足元から床が抜けたかのような動揺があらわになっていた。
「ノクス、下がって!」
鋭い声が背後から飛ぶ。振り返れば、街灯の影から現れたのは、鋼の鎧を纏ったアベルと、ローブ姿のマリーだった。
ノクスは目を丸くしたまま、驚きで動けない。いつの間に後ろにいたのか、いや、それ以前に──なぜ二人がここに?
「え、アベルさん? マリーさん……どうして……?」
「ごめん、ノクス。実は……お前のこと、最初から見張ってたんだ」
アベルはその場に立ち止まり、真っ直ぐノクスの目を見つめた。声に後悔が滲んでいる。
「お前を囮にする形になっちまった。危険なことはさせないつもりだったが……本当にすまない」
「……っ!」
ノクスの表情が凍る。脳裏に、夕暮れ時のあの楽しかった冒険譚の思い出が浮かび、同時にそれが罠の一環だったことを理解してしまう。
「……僕を、騙してたの?」
その言葉は小さく、震えていた。
「騙すつもりはなかった。けど……言えなかった。言ったら君は来なかっただろうし……」
マリーがすまなそうに視線を逸らす。
そのやり取りを聞きながら、吸血鬼は肩をすくめた。
「なるほど、そういうことか。まんまとハメられたってわけだな」
ルカは口の端を吊り上げ、皮肉気に笑いながら、背を向けて一歩後退した。
「ま、今更どうこう言っても仕方ない。こうなったら──逃げる!」
その瞬間、ルカの姿が闇に溶けた。まるで風そのものになったかのような素早さで、屋根伝いに駆け上がろうとする。
「させるか!」
アベルの怒声と共に、彼の足元の石畳が砕けた。
一歩。二歩。たったそれだけで、彼はまるで矢のように前へと跳び、空中に消えかけていたルカの影に肉薄した。
「チッ、速いなあ……!」
舌打ちしながらも、ルカは飛び退き、アベルの剣をぎりぎりで回避する。
だが、完全には逃げきれない。続いて地面から放たれた聖光の矢が、マリーの杖から放たれ、ルカの逃走経路を塞いだ。
「くっ、ちょっと、マジじゃないか……!?」
ルカの顔に焦りの色が浮かぶ。闇に紛れ、強者から逃げる術には長けていた。だが、今回は完全に包囲されている。
目の前にはアベル。剣の扱いにおいて一流と名高い銀の楯の剣士。その後方には、術式の構築を終えつつある魔術師。そして、逃がしてはいけない存在として、確実にマークされている自分。
(……これ、ガチでヤバいヤツだ……)
ルカは軽く息を吐くと、地面を蹴って一気に跳躍した。
「舐めるなよ、昼行灯の冒険者ども!」
月明かりの下、ルカは空中で体をひねり、真上に跳びながら周囲の屋根の影に向けて飛び移る。その動きはまるで燕のように軽やかで、普通の追手ならば見失っていたはずだった。
だが──
「甘い」
低く押し殺した声と共に、アベルの姿が一瞬にしてルカの背後にあった。
「なっ──!」
ギリギリで身体をひねって回避するルカ。そのすぐ横を、アベルの大剣が風を切って通り過ぎ、屋根の角を鋭く抉る。
(どうやって……!? 今のは見えてなかったはず……!)
ルカの額に汗がにじむ。速度だけなら自分が上のはず。けれどアベルの剣は動きの「先」を読んでいた。
「速いだけでは通じないぞ、
アベルの言葉には、驕りはなかった。ただ静かな確信がある。
ルカは無言で舌打ちしながら、屋根を滑り降り、狭い路地裏へと飛び込む。高所から地面への落下すら、膝を軽く曲げて受け止めると、すぐさま反転しようと──
「──遅い」
その声に、ルカの背筋が凍った。
そこにいた。アベルが。既に路地の先回りをしていたのだ。
「嘘……っ、どうして!?」
「街の地形くらい、こっちは熟知してる。逃げ道は予想済みだ」
ルカは無意識に後退した。
(正面突破なんて無理だ。こんなの、正面からぶつかって勝てる相手じゃない……!)
それでも。逃げられないなら、やるしかない。
ルカは牙を噛み、爪を研ぎ澄ませたような指先を構えた。真紅の魔力が、その手からほとばしる。
「……本気でやるからな……!」
その身が一瞬にして霞んだ。残像すら追えない速度で突っ込む。だがアベルは、剣を低く構えたまま、わずかに体勢を低くする──
「甘い!」
ルカの爪がアベルの側面を掠めた直後、彼の剣が下からすくい上げるように振るわれる。
「……っくぅ!!」
ギリギリのところで跳び退いたルカの頬に、一筋の血が滲む。薄皮一枚だが、それは明確な戦闘力の差を物語っていた。
「逃げられると思うな」
アベルの口調は変わらない。追い詰めながらも、決して激情に駆られていない。淡々と、ただし確実に──敵を仕留める技量がそこにはある。
(もう、こいつだけでも無理なのに、後ろにはあの魔女もいる……!)
ルカは歯を食いしばった。選択肢は、残されていない。
(なら……仕方ない!)
ルカは次の瞬間、真正面からアベルに向かって突撃した。
「うおおおおおおっ!!」
夜の路地に響き渡る叫びとともに、ルカの身体が一瞬だけ赤黒く輝く。吸血種の本能的な力を束ねた一撃。
それに対し、アベルも構える。
(──この構え、受け止める気か!?だったら!)
ルカは咄嗟に気づいた。その隙を突くように、軌道を逸らし、アベルの脇をすり抜ける。
「やったぁ!!」
勝利の雄叫びとともに、背後の狭い路地へ飛び込んだ──
──その瞬間。
「そこ、発動──《聖域結界・第四陣》」
透明だった空間が、音もなく変質した。
空中に跳び込んだルカの四肢が、一瞬で光の鎖に絡め取られる。足首、手首、そして腰──ルカの動きはぴたりと止まり、まるで空中で凍結したかのように静止した。
「な……!? なにこれ、こんなの……ずるい……っ」
「あなたが逃げる方向は、だいたい予測してたから」
路地の先、淡く光る杖を掲げたマリーが現れた。術式陣の一部が彼女の足元に輝いている。
ルカの体がゆっくりと地面に降ろされ、がしゃりと鎖が杭に打ち込まれたかのように固定された。
「……俺の負け……か」
ルカは天を仰ぎ、乾いた笑いを漏らした。
静寂が訪れた。誰もが息を整え、そして──その場に、ノクスの小さな足音が近づいてきた。
小さな少年が、捕らわれた吸血鬼を見つめていた。