第一節:憧れと不安
ルカが「旅人」として屋敷に転がり込んでから、早くも一ヶ月が経過した。
吸血鬼であることは、もはや家族全員(ノクスは家族にバレていないと思っている)が承知の上。とはいえ、最初の数日は互いにぎこちなく、隙あらば泣き喚くルカと、それを見てひそかにニヤニヤするジョーヌ、表情を一切変えず観察していたセスとモルテ、そして意味もなく抱きついては「この子可愛い!」と騒ぐアミーなど、屋敷の中はてんやわんやの大騒ぎだった。
が、そんな日々も続けば慣れるもので、今ではもう、誰もルカのことを警戒する者はいなかった。
「おーいノクスぅ! 昼飯ってまだかぁ!?」
「もうすぐ! ルカ、そんなにお腹空いてたの? 朝も三杯おかわりしてたのに!」
「成長期なんだよ!」
このように、ルカは今日も元気である。もはや“居候”というより“手の掛かる見た目はデカい妹”のようなポジションを確立しつつあり、エステアがその様子を遠巻きに見て「……食費、倍になったわね」とため息をついたのも一度や二度ではない。
屋敷は穏やかで、日々はにぎやかに流れていく。
けれど――その中でただ一人、密かに思い悩んでいた者がいた。
ノクスだった。
(……冒険者になりたい)
その思いは、ベアルとマリーと話したあの日からずっと心の中で膨らみ続けていた。
彼らが語ってくれた冒険の数々――ドラゴンの巣をくぐり抜け、迷宮を突破し、盗賊団を退治し、時には王都の陰謀に巻き込まれながらも、それでも前に進み続ける姿に、ノクスは心を撃ち抜かれた。
あれが、本物の冒険者。
世界を駆け、正義を貫き、困っている人々を助ける存在。
かっこよくて、自由で、強くて、優しい――そんな冒険者に、ノクスはなりたいと思った。
だけど。
(……あの時、もし誰も助けに来てくれなかったら、僕……)
思い出すのは、ルカに襲われかけた夜。
最初の一歩を踏み出そうとしたその時、自分はただ立ち尽くしていた。何もできなかった。誰かが来てくれるまで、ただその場に立ちすくんでいるだけの、無力な少年だった。
胸が苦しくなる。自分には力がない。それは、誰よりも自分自身が一番よく知っていた。
(強くなりたい。強くなって、誰かを助けたい。でも、怖い。……また、同じことが起きたら)
ベアルとマリーの言葉も、心の奥で重く響く。
『本物の冒険者ってのはな、憧れだけじゃ務まらない。命を賭ける覚悟がなきゃ、死ぬんだ』
『それでも歩きたいって思えるなら……その時が、第一歩だと思うよ』
ノクスは、目を閉じた。
確かに、自分はまだ歩き出していない。恐れて、迷って、足踏みをしているだけ。
けれど、あの時の自分とはもう違う――そんな気もしていた。
ルカと暮らすようになり、彼女の過去を知った。泣き虫で、ヘタレで、でも悪いことはしていなくて。
そんなルカでさえ、あの日、戦っていたのだ。震えながら、逃げながら、それでも自分の命を守ろうとしていた。
なら、自分はどうだ?
このまま、屋敷の中だけで生きていくのか?
母さんも、セスも、みんな自分に優しい。だけど、どこかで「守られているだけ」という事実に、ノクスは息苦しさを感じていた。
(守られてばかりじゃ、ダメなんだ)
自分の足で、世界を歩きたい。
自分の手で、誰かを助けたい。
そしていつか、あの日のベアルとマリーのように、誰かの憧れになるような、そんな冒険者になりたい――。
「……はあぁぁぁぁっ!!」
ノクスはベッドの上で仰向けになりながら、枕を顔に押し当てて転げ回った。
悩みに悩んで、頭がショートしている。
と、そこへ――
「ノクスぅぅぅ! もう昼飯できた!?」
ドアを蹴破るようにしてルカが乱入してきた。
「うわっ!? ちょっと! ノックしてよぉ!?」
「ノックしたら遅いじゃん! ごはんってそういうもんだろ!?」
「いやそうだけどさぁ!? ちょっとタイミング考えてよぉ!!」
「タイミングって……え、なに? 泣いてた?」
「な、泣いてないよ!! 考え事してただけだしっ!!」
「ふーん、まいっか。とにかくごはん! ごーはーんー!!」
そう言って、ルカはノクスの手を引っ張りながら食堂へと連行していった。
いつも通りの、騒がしくも平和な日常。
だがノクスの心には、冒険者への憧れという、静かで強い火が確かに灯っていたのだった。
その夜もまた、ノクスは一人で部屋の窓辺に座っていた。
机の上には開きっぱなしの本。中身は冒険譚、ベアルとマリーが貸してくれたものだった。ページには、巨大なドラゴンと対峙する剣士、古代の遺跡に潜る魔法使い――そんな煌びやかで危険に満ちた冒険者の物語が描かれていた。
でも、現実は違う。
襲われたとき、自分は何もできなかった。手も足も出なかった。震えることしかできず、誰かが助けてくれなければ、今こうして生きているかも怪しかった。
「……なのに、なんで……」
小さく呟いた声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
なりたい。でも怖い。
あこがれと現実の板挟み。それが、ノクスの心をずっと苦しめていた。
そんなとき――
コンコン、と控えめなノック音が扉を叩いた。
「……ノクス、入ってもいいかしら?」
「我もいるのじゃ。夜更かし組じゃ」
エステアとモルテの声。ノクスは軽く息を吸ってから、「うん、いいよ」と返した。
扉が開き、エステアはいつもの柔らかな微笑を浮かべながら入ってきた。彼女の手には温かいハーブティーの乗ったトレイ。モルテはノクスのベッドの端に無遠慮に腰かけ、じっと彼を見た。
「ねぇノクス。最近、ずっと難しい顔してるの。ご飯の時も、遊んでる時も、どこか上の空で……。何か悩んでるの?」
「無理に言わなくていい。でも、私たちは家族だから。少しだけでも、力になりたくて来たの」
エステアがそっと膝をつき、ノクスの隣に座る。ハーブの香りがふわりと広がった。
ノクスはしばらく何も言わず、窓の外に目を向けた。星が瞬いていた。
「……なりたいものが、あるんだ」
「なりたいもの?」
「うん。ずっと心の中にあって。でも、踏み出すのが怖い。向いてないかもしれないし……それに、前に失敗してるし……」
自分が冒険者に憧れていることは、まだ口には出さない。でも、言葉の端々ににじむ決意と不安は、二人にしっかりと伝わっていた。
「……挑戦しないで後悔するくらいなら、やってみたほうがいいんじゃないかしら?」
エステアの声は優しく、けれど力強かった。
「私もね、いろいろ諦めてきたの。昔の話だけど、やってみたらよかったって思うこと、今でもあるのよ。だからノクス、あなたがなりたいって思うものがあるなら、私、応援したい。たとえどんな道でも」
「……でも、僕が失敗したら……笑われるかもしれないし……がっかりさせるかもしれない」
弱々しいその声に、今度はモルテが口を開いた。
「ばっか者」
「えっ」
「お前が失敗して幻滅するような奴は、この家には一人もおらぬわ」
モルテはふっと笑って、ノクスの頭をくしゃりと撫でた。
「挑戦してダメだったら、その時は存分に姉の胸で泣けばよい。我のこの、世界一尊い姉胸に包まれてな!」
「ちょ、ちょっとモルテ!? “姉胸”って何よ!」
「ふふ、姉の特権というものじゃ。遠慮せず頼るがよい。涙を拭いてやるくらい、いくらでもしてやるのじゃ」
ノクスの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
この人たちなら、何があっても味方でいてくれる。
失敗したとしても、笑ったりしない。受け止めてくれる。
それなら――
「……僕、やってみるよ。なりたいものに、なってみたい」
小さなその決意に、エステアとモルテは静かに頷いた。
「ええ。ノクスなら、きっと大丈夫」
「期待しておるぞ。お前は我が誇りじゃ」
そう言って二人は立ち上がると、扉のところで振り返った。
「……じゃあ、まずは明日、その“なりたいもの”について、みんなで話しましょ」
「うむ。具体的に知っておかぬと、支援もできぬからな」
扉が閉まったあと、ノクスは一人、窓の外の星空を見上げた。
不安はまだ残っている。でも、それ以上に――心が温かく満ちていた。
「よし……やってみよう」
その声は、夜の静寂に消えることなく、まっすぐに未来へと向かっていた。