食堂の時間はゆっくりと進んでいた。
ギルドの奥から漂う香ばしい煮込みの香りも、グラスを交わす隣席の笑い声も、今は遠い別世界のように感じられた。
ノクスの視線の先で、アリスは小さな両手をぎゅっと重ね合わせていた。肩を震わせながらも顔を上げ、その金色の瞳で真正面からノクス、ジョーヌ、ルカを見つめ返していた。
小さく呼吸を整えると、アリスはその場で、決して逃げないと示すように深く息を吸った。
「……私、話さなければいけないことがあります。」
声は震えていたが、はっきりと響いた。
ジョーヌとルカの目が鋭く細められる。だが、ノクスはただ頷き、静かに続きを促した。
「私は……十年ほど前に王都の教会から盗まれた、ある“聖遺物”の回収を依頼されて、この街に来たんです。」
その言葉が落ちた瞬間、ノクスは瞬きを忘れていた。
「……聖遺物?」
聞き返すノクスの声がわずかに上ずる。ジョーヌもルカも無言のまま耳を傾けていたが、その表情は少しだけ驚きに揺れていた。
アリスは小さく頷きながら続ける。
「はい。それは、王国にとって、そして私たち教会にとっても非常に重要なものです。だからこそ……王様から直接、絶対に回収するよう命じられたのです。」
王様直々に。
その言葉に、ノクスはさらに混乱した。自分の中で王様という存在は、遠いおとぎ話の中のような存在でしかなかったのに、その人が目の前のアリスに直接命令を下したという現実感が湧かない。
「だけど……」
ノクスは混乱しながらも、口に出してみる。
「それと僕のパーティに入ることと、どう関係があるの?」
的を射た問いだった。
アリスは顔を伏せかけたが、震える唇を噛んで視線を上げ直した。
「それは……その聖遺物のある
そこまで言ったところで、アリスの体が再び大きく震えた。金色の瞳が潤み、言葉が喉につかえたように止まってしまう。
「……アリス?」
ノクスが声をかけようとしたその時だった。
「……仕方ないな。」
隣で腕を組んでいたベアルが、重く沈んだ声を漏らす。いつも笑顔で豪快な彼の表情から笑みが消え、険しい表情に変わっていた。
「続きは俺が話す。」
横に座るマリーも、真剣な表情で頷いた。
「ノクス、ジョーヌ、ルカ。いいか、驚くなよ?」
ノクスは無言で小さく頷いた。ジョーヌとルカも顔を引き締める。
ベアルは苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
「アリスが探している“聖遺物”の在処は……魔界なんだ。そして、その魔界の――」
言葉が一瞬詰まり、その場の空気が重く沈んだ。
「魔王の元にあるんだ…」
その一言が落ちた瞬間、ギルドの食堂の音が一瞬遠ざかった。
隣の席から笑い声が聞こえてきていたのに、それが蜃気楼のように消えていく。
「……魔王、の、元……?」
ノクスの口から途切れ途切れに言葉が漏れる。頭の中で状況を整理しようとするが、どうにも飲み込めない。自分が今何を聞かされているのか、理解が追いつかない。
(魔王って……あの……絵本とか、おとぎ話に出てくる……あの“魔王”?)
言葉にしなくても表情がすべてを語っていたのだろう。ルカが隣で「冗談……じゃないよな?」と小さく呟き、ジョーヌも息を呑んでいた。
マリーが静かに言葉を継ぐ。
「何度も、王国としては交渉してきたわ。『盗まれた聖遺物を返してほしい』と、礼節を尽くしてね。でも……」
「でも、何の返事も帰ってこない。」
ベアルが唸るように続ける。
「どころか、使者を送ったら帰ってこなかったなんて話もある。だから、王国も動けなくなった。強硬策を取れば全面戦争だし、だからといってこのままにしておくわけにもいかない。そんな状況で……」
ベアルはアリスの肩に手を置き、小さく頷いた。
「……アリスが聖遺物を回収するために、単独でここまで来たってわけだ。」
「でも、それとあーしらのパーティが関係あるの?」
ジョーヌの問いは当然だった。
ベアルは口を開きかけたが、隣で俯いていたアリスが小さく手を上げた。
「それは……私から話させてください。」
彼女の声は震えていたが、その目には覚悟の光が宿っていた。
ノクスは静かにその続きを待つ。
ギルドの食堂の暖かい灯りの下で、アリスがようやく口を開こうとしていた。
(その言葉が、僕たちのこれからを大きく変える予感がする――)
ノクスはごくりと息を飲んだ。
アリスはテーブルの上で小さく握りしめていた拳を解き、震える指先を見つめてから顔を上げた。その瞳は、どこか覚悟を決めたように揺るがなかった。
「……私、騙すつもりはなかったんです。」
切り出した言葉は小さく、それでいて確かに届いた。
「最初にノクス君と出会ったとき、悩んでいる様子だったから、力になれればって……本当に、それだけで声をかけたんです。」
ノクスは思わず息を呑む。あの日の茶屋の前、ばったりぶつかって手を取って引き起こしたあの瞬間を思い出していた。儚げな笑顔と、その小さな手の温かさ。
「あの時は、ノクス君の悩みを聞いて、力になってあげられたらすぐにこの街を出るつもりでした。ベアルさんとマリーさんと合流して、次の手がかりを探すために、王都に戻る予定だったんです。」
アリスは少し言葉を切ると、ジョーヌとルカの方に向き直った。
「でも……私は嘘をついていたのと同じことをしていました。本当は……私は、ただのシスターじゃないんです。」
その言葉に、ジョーヌの目が鋭く光り、ルカの眉が僅かに跳ね上がる。
アリスは深く息を吸い込み、決意を込めた目で告げた。
「私は、聖女です。」
言葉が落ちた瞬間、周囲の音が一層遠のいた気がした。
ジョーヌが目を細める。
「……へぇ、聖女ねぇ」
ルカも肩を揺らしながら「だろうな」と小さく呟く。
アリスは続けた。
「聖女の力には“他者の魔力量を測る”という特別な能力があります。触れなくても視界に入った相手の魔力量が自然と分かってしまうんです。だからこそ、異変の察知のため、王都でも重要な役割を担ってきました。」
その説明を受けてもなお、ノクスの頭は混乱していた。
「……それが、どうして……僕のパーティに入る理由と繋がるの?」
自分でも声がかすれているのを感じながら、ノクスは問いかけた。
アリスは寂しそうに笑みを浮かべ、視線を逸らさずに続けた。
「プレゼントの選別をする為にノクス君の家族を観察していた時、私は“信じられないもの”を見たんです」
ジョーヌが息を呑む音が聞こえた。
「ジョーヌさん以外の……お母さん、執事さん、お姉さんの方々、護衛の方、皆さんの“魔力量”が……私の常識の範疇を遥かに超えていたんです。」
その言葉に、ノクスの背筋に寒気が走った。
「特に……ノクス君のお母さんの魔力量は、比べものにならないほど桁外れでした。普通の人間が一生かかっても得られない魔力を、呼吸するだけで保有しているような存在で……」
その時の恐怖が蘇ったのか、アリスの肩が再び震えた。
「だから私は……予定を変更しました。」
ゆっくりと目を伏せ、そしてまた顔を上げる。
「王都から私が任されていた任務“聖遺物の回収”。その聖遺物は魔界の魔王の元にあるとされています。でも、魔王から直接取り戻すことは、私たちには到底不可能なことでした。」
ベアルが横で険しい顔をしながら頷く。
「だから……私はノクス君のお母さんにお願いしたいと思ったんです。どうか、その魔界への旅に同行していただけないかと。」
「お、お母さんに……?」
ノクスの声が裏返る。
「そのために、私はノクス君のパーティに仮加入させてもらい、まずは“信頼関係”を築いてから、直接お願いしようと思っていました。」
静まり返った空気の中で、アリスは深く頭を下げた。
「本当に……すみませんでした。騙すつもりはなかったけれど、隠し事をしていたことに変わりはありません。」
金髪が揺れ、沈黙が深く染み込む。
ノクスはただ呆然とした目でアリスを見つめていた。家族へのプレゼント選びのために一緒に観察していたあの日々が、全て別の目的に繋がっていたという事実に、頭が追いつかない。
(みんなの、魔力量が、異常……?)
ノクスは家族の事を大切で、普通の家族だと思っていた。
だけど、ほんの小さな歯車がずれていたことに気づく。お母さんの笑顔。セスの完璧すぎる立ち居振る舞い。モルテの影から出ない気配。リュースの底知れない雰囲気。アミーの人懐っこい振る舞い。
ジョーヌだけが、なぜか“普通”に感じていたこと。
その全てが、突然別の色に塗り替えられた。
ノクスは力なく椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。
「……冗談、だろ……?」
小さく吐き出した言葉に、誰も答えなかった。
アリスは、悲しそうな目でノクスを見つめていた。
そして、その沈黙の中で、これからの運命が大きく揺れ動こうとしていた。