ギルドの食堂の一角に重苦しい沈黙が落ちていた。
アリスが震える声で「だから私は予定を変更しました」と言ったあの瞬間から、ノクスの意識は半ば宙を漂っているようだった。椅子の背にもたれ、呆然と天井を見上げ、家族の顔が次々と脳裏をよぎる。
(お母さんがの魔力が桁外れ、 いや、そんなわけ……でも……)
思考が堂々巡りを繰り返す中、震えていたのはアリスだけではなかった。
ジョーヌとルカ――この二人も、別の意味で“震えて”いたのだ。
ジョーヌは椅子に座り、腕を組んで視線を伏せ、震える肩を必死に押さえ込んでいる。ルカも同様に腕を組み、目を瞑ったまま、ピクピクと頬を引きつらせていた。
二人の脳内には同じ言葉がこだましていた。
(いや、魔王……屋敷帰ったら居るんだよな!!)
アリスの「魔王の元にある聖遺物を回収する」という言葉が重く空気を満たすが、ジョーヌとルカにとっては地獄のような笑ってはいけないシチュエーションだった。
マリーが意味ありげに「今頃その魔王は何をしているのかしら」と小さく呟いた瞬間――
ジョーヌの理性が一瞬吹き飛びかけた。
(ご飯作ってるよ!!)
エステアが屋敷のキッチンでエプロン姿で包丁を握り、楽しそうに鼻歌を歌いながら食事を作っている光景が鮮明に脳裏をよぎる。
「こらルカ、食材つまみ食いするな」
「えー、いいじゃん減らない程度だろ?」
「ダメです」
あの平和な光景が、アリス達が語る“魔王”と結びつくなど誰が思うだろうか。
――笑ってはいけない。
ジョーヌは震える頬を引き攣らせながら、自分の太ももを思い切り抓った。痛みによって吹き出しそうになる口元を必死に押さえる。
横を見ると、ルカも同じように腕を組んだまま目を閉じて無表情を装っているが、頬の筋肉が不自然にピクピクと痙攣している。
(耐えろ……耐えるんだ……!!)
二人の間には、言葉にしなくても通じ合う“笑ってはいけない地獄の空気”が漂っていた。
そんな中、アリスが勇気を振り絞って続きを語ろうとしていた。
「……事情が事情とはいえ、私がノクス君のお母さんに同行を頼むために近付いたなんて、ジョーヌさん達からしたら裏切りのように感じさせてしまったかもしれません。」
その言葉を聞いたベアルとマリーも深く頷きながら続ける。
「そうだな……ノクスの大切な家族に、事情も言わずに近付くのは礼を失していたかもしれないな。」
「事情が事情とはいえ、ジョーヌちゃん達が怒るのも無理ないと思うわ。」
その言葉に、ジョーヌの震えが増す。
(いや、怒ってねぇよ!!)
怒っているのではない。必死に笑いを堪えているだけだ。
だがアリス達は完全に勘違いしてしまったらしい。ノクスのために、彼女が全てを告白した事で怒ってしまったと思っているのだ。
ルカも隣でギチギチと奥歯を噛みしめている。唇の端がピクピクと上がりそうになるのを必死に抑え、眉間に皺を寄せて無表情を保つ。
(魔王に同行を頼む図ってなんだよ!!)
頭の中で映像が再生されてしまう。
『ノクス君のお母さん……どうか私達と一緒に魔界へ行っていただけないでしょうか!!』
『あら、別にいいわよ~、夕食までには帰るわね』
あのエステアがいつもの朗らかな笑顔で快諾する場面が鮮明に浮かび上がり――
(ヤバい、ヤバい、笑う、笑う、笑う……!!)
ジョーヌとルカは無言のまま、互いに目線を合わせると同時に頬の痙攣が加速し、視線を慌てて逸らす。
そんな二人を見てアリスはますます肩を落とし、小さな声で震えながら呟いた。
「やっぱり……許してもらえませんよね……」
(違う!!! 今めちゃくちゃ笑いそうになってるだけなんだよ!!!)
声に出せない地獄。だが言い訳など出来るわけがなく、二人はただ必死に“笑いを堪える顔”のまま俯くしかなかった。
その場の空気は更に重く沈む。
ベアルが咳払いをして場を繋ごうとするが、マリーが「仕方ないわよ、状況が状況だし」とアリスの背中をさすりながら慰めている。
だがその横で、ジョーヌとルカの二人は互いに拳を強く握りしめ、
(耐えろ、耐えろ、ここで笑ったら終わる!!)
と心の中で絶叫していた。
――この笑ってはいけない地獄の空気は、まだしばらく続きそうだった。
そして当のノクスだけが、本当に何もわからず呆然としているのだった。
◆ ◆ ◆
「……で、でぃ、でぃへへへへへへ……!!!」
夜の屋敷に響き渡る、奇妙な含み笑い。
それはいつもクールで影のように振る舞うモルテの口から発せられていた。
「で、でぃひゃははははははははははは!!!」
ノクスの鞄の中に紛れ込ませた骨の鼠の使い魔から、ギルドでの“お通夜のような地獄会議”の一部始終を見聞きしていた直後だった。
使い魔から伝わってきたジョーヌとルカの「笑ってはいけない地獄顔」、その背景でアリス達が真剣に空気を重くしている状況を見た瞬間、モルテの腹筋は完全に崩壊してしまったのだ。
「だ、だって……だって……!くく、あの居候共が、必死に笑いこらえてぷるぷるしてる中で、アリス達が“すみませんでした……”って言っておるとか……く、くはははははは!!!」
息も絶え絶えに笑い転げているモルテの元へ、物音を聞きつけた家族達が集まってきた。
「おい、何をそんなに笑ってるんだ、モルテ?」
呆れ顔で肩を組むように覗き込むのは、リュース。
「楽しそうだね~、混ぜてよ~!」
と頭の上で手を叩きながらニヤニヤしているのはアミー。
「モルテ、一体何が起きたの?」
柔らかな微笑みで尋ねてきたのは、エステア
最後に姿を見せたのは執事服姿のセス。背筋を伸ばし、冷静な表情で腕を組みながらモルテの顔を見つめる。
「報告を。」
「へっ……へぇ……ふぅ……!!」
ひとしきり笑い尽くし、モルテは赤くなった目元を袖で拭いながら、骨の鼠から受け取った情報を淡々と説明し始めた。
「……あのな、アリスはやっぱり聖女じゃった、本人が言っておった」
「ほう、裏が取れたか、で?」
「で、王都から盗まれた聖遺物を回収する任務でこの街に訪れたらしいんじゃけど――」
ここでモルテはまた笑いを堪えながら顔を引き攣らせる。
「その聖遺物、今どこにあると思うかの?」
「……?」
首を傾げるエステアに、モルテは肩を震わせながら答えた。
「魔界の、魔王の所なんじゃ、その為に魔力が桁外れのエステアに魔界までの同行を頼もうとしているんじゃってさ!!」
――沈黙。
「ぷっ……!!」
「ふふ……!!」
最初に吹き出したのはアミー、続いてリュースが肩を震わせて笑いを堪える。
「魔王から聖遺物取り返すために魔界への同行を魔王に頼むって…ダメ…お腹が痛い!」
「はははは!!」
リュースも腹を抱えて爆笑する。
「おい、あのアリスって子、マジで屋敷に来てエステアに同行頼むつもりなんじゃねぇの?」
「か、考えただけで笑いが……!!!」
エステアの顔は青ざめていた。
「ちょっと……!うるさい!!笑ってる場合じゃないでしょ!!」
エステアはいつもの朗らかな笑顔を消し、珍しく眉間に皺を寄せて声を荒げた。
「魔力量がバレたのよ!! 人間の聖女に!! それがどれだけ危険か……!」
「あーもう、魔王様ったら心配性なんだから!」
「あんたらぁぁぁ!!!」
怒りの声を響かせるエステアに、アミーとリュースはさらに笑い転げる。
「いやーだってよぉ、笑うなって方が無理だろ!!」
「同行頼まれて、『あらいいわよ』って言うエステアが想像できるのがヤバい!」
「ばっ、ばかぁ!!!」
エステアの顔は真っ赤になり、拳を握りしめてプルプルと震える。
その横でセスは静かに目を閉じ、思案顔で呟いた。
「しかし……万が一、本当に同行を頼まれた場合、どうするのです?」
その問いに、アミーとリュースが同時に振り返る。
「着いてってやれよー!」
「そうそう!エステアが行けばすぐ片付くだろ!」
「ば、ばか!!ばかばかばかばか!!!」
顔を真っ赤にしながら、エステアは二人の肩をバシバシ叩いた。
「つ、着いて行くわけないでしょ!!第一、私が行ったら――」
「余計に笑えるのじゃ!」
「笑うな!!」
モルテは笑いながら机を叩き、アミーとリュースも涙を浮かべながら転げ回り、屋敷は笑い声で埋め尽くされる。
しかし一方でエステアは、内心で深く深く思い悩んでいた。
(私があの子達に“魔王”だとバレたら……ノクスに、嫌われるかもしれない……。)
普段なら即座に笑い飛ばす事も、今回だけは笑えなかった。だからこそ余計に焦りと恐怖が募るのだった。
だがそんな空気を振り払うように、再び声をあげたのはモルテだった。
「よいか、エステア。大丈夫じゃ、魔力量だけじゃ魔族か人かは区別できん。堂々としておるのが一番じゃ」
「……モルテ」
「もし向こうが詰め寄ってきても、『あら?少し魔力量が多いだけの普通の未亡人よ?』って笑っておけばよい」
「ふ、普通の未亡人って……!」
さすがに苦笑が漏れるエステア。するとアミーがまた調子に乗って、アリスの見た目に変身しながら
「魔王様~、聖遺物を取り返す為に着いてきてください~!」
とエステアの前でぴょんぴょん飛び跳ねながら茶化す。
「うるさいうるさいうるさいうるさい!!!」
エステアは頬を真っ赤にして、必死でアミーの口を塞ごうと追いかける。
笑い声が響く屋敷の夜。
だが、その中でエステアの胸の奥には、笑えない不安と焦燥が静かに燻り続けていたのだった。