(……本当に、どうするべきか)
“魔王の元にある聖遺物”――
その言葉がずっと耳から離れない。
もしアリスに、自分が“魔王”だとバレてしまったら。
その時、ノクスは、自分をどう思うだろうか。
恐怖と不安がエステアの胸を締め付けていた。
「エステア様……」
静かに声をかけてきたのは、セスだった。
赤い瞳でじっとエステアを見つめながら、セスは迷いのない声で告げる。
「必要であれば、あの聖女……アリスの口を封じましょうか?」
その言葉に、空気が凍り付いた。
アミーとリュースが息を飲み、アミーは「ちょ……」と言いかけて口を塞ぎ、リュースは目を細めて様子を窺う。
モルテも笑顔を引きつらせながらセスを見つめていた。
しかし、セスの瞳には一切の迷いがない。
それは彼が長き忠誠の中で選び続けてきた“守護の方法”だった。
エステアはしばらく目を閉じ、深く深く呼吸を整えた。
やがて目を開き、セスを真っ直ぐ見据えて言った。
「……ダメよ」
「エステア様」
「その手段を取ったら、私はノクスの母親ではいられなくなる。」
静かでありながら決然とした声だった。
セスはゆっくりと頭を下げ、表情を変えぬまま「御意」とだけ答えた。
しばしの沈黙が流れた。
「ま、まぁ……殺すとか重すぎでしょ~。」
空気を和らげるようにアミーが肩をすくめて笑う。
「だな、なにか他に手はあるか?」
リュースが頭をかきながら問いかける。
その時だった。
「あるのじゃ」
モルテがニィと口角を吊り上げながら言った。
「この我に、いい考えがあるのじゃ」
モルテは自信満々の笑みを浮かべると、自分の杖を軽く叩いて骨のカラカラとした音を響かせた。
「まず、この街の外れに我の術でアンデッドの軍団を作るのじゃ」
「アンデッド?」
「そ、それはまた物騒だな……」
アミーとリュースが目を丸くする。
「そして、その混乱の中で聖女を攫ってしまうのじゃ。」
「は?」
ポカンとしたエステアの顔を見て、モルテはニィと笑った。
「攫われた聖女を助けるために、必ずベアルとマリーが動く。その時、エステア、お主が“偶然通りかかって”アンデッドの群れを蹴散らして聖女を助けるのじゃ。」
「うわー……」
アミーが顔を引き攣らせて肩を震わせる。
「それ、めっちゃマッチポンプじゃん」
「マッチポンプ……?」
「自作自演ってことよ、モルテ」
エステアはこめかみを押さえて深いため息をつくと、眉を寄せながら言った。
「……そんなことをしたら、余計に“お礼”だの“同行をお願い”だの言われる未来しか見えないわよ」
「うむ、そこが肝心じゃ」
モルテは小さな指を立てながら胸を張る。
「アンデッドを蹴散らした後、この街には今後もアンデッドの軍勢が来る恐れがあるから、私はこの街を離れられないと言えばいいのじゃ。聖女もベアル達も諦めるじゃろ?」
「……」
エステアはモルテをじっと見つめた。
冷静に、理屈としては完璧だと分かる。
ノクスに自分が魔王だとバレずに、聖女側の依頼も断りつつ“魔王の元へ同行する”未来だけは回避できる。
「これなら……いけるかも」
エステアは無意識に呟いていた。
「じゃろう?」
モルテが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「もし同行をしつこく求められても、この街の人々を守らなくてはいけないと言えば聖女も諦めるじゃろ。何せ“聖女”なのだから」
「ククッ、意外と悪くないな!」
リュースが肩を揺らして笑う。
「アンデッドを出すのは微妙だけど、被害さえ出なければいいか」
「死人は出さぬ。威嚇と演出だけじゃ」
モルテが胸を叩いて自信を示す。
「よし、じゃあ決まりだな!」
リュースとアミーがハイタッチしようとするが、エステアが手を出さずに二人は空振りして苦笑した。
「……でも、本当に死人は出さないでよ?」
「もちろんじゃ。そこだけは安心するがよい」
モルテが胸を張るのを見て、エステアは大きく息を吐いた。
(ノクスの未来を守るため、そして“母”であるために……)
「……この作戦を実行するわよ」
その声には、母としての強い決意が滲んでいた。
月明かりが静かに窓から差し込む中で、魔王であり“母”であるエステアの戦いが、また一つ始まろうとしていたのだった。
「では、さっそく取り掛かるとするかの」
モルテが椅子からぴょんと飛び降り、杖を片手で持ち上げると、その紅玉の眼窩に光が宿った。
夜の屋敷に、コツン、コツンと小さな杖の先が床を叩く音が響くたび、空気がわずかに揺れる。
途端に室内の空気が変わった。
普段はノクスのことを甘やかしてばかりの過保護な姉であり、小さな体で背伸びしているモルテの姿はそこにはなかった。
そこにいたのは――
“魔王軍幹部”として名を馳せた“白骨の魔女”、
そして“超一流のネクロマンサー”として恐れられた、
“死の象徴”その人だった。
「モルテ……」
アミーが無意識に息を呑む。
その瞳がかすかに怯えを含んでいるのを隠せなかった。
「アンデッド軍団って言ってたけど……どのくらいの規模で出すつもりなの?」
普段なら茶化すような口調になるアミーも、今は慎重に問いかけていた。
「ふむ、まぁ――ざっと二千体のスケルトンに、リッチ一体で十分じゃろう」
モルテは首を傾けながらさらりと言った。
「に、二千体……?」
「本気すぎるだろ、おい」
リュースが額を押さえ、アミーも呆然と目を丸くする。
「いや待て、二千体なんて規模、遠隔でそれだけの数を制御できるのか?」
セスが腕を組み、鋭い眼光でモルテを見据えた。
しかし、モルテは「ククッ」と喉の奥で笑うと、目だけでセスを見返した。
「その程度、我にとっては児戯にも等しいわ」
モルテの口調に一切の誇張も虚飾も無かった。
「セスよ、忘れたとは言わせぬぞ。昔の我が、何と呼ばれておったかを」
静寂が一瞬だけ流れた後、セスが目を伏せ、小さく笑みを浮かべながら答えた。
「……ええ、愚問でしたね」
その瞳がゆっくりとモルテを見つめる。
「『癒えぬ白い疫病』……」
その言葉を口にした瞬間、屋敷の空気がさらに張り詰める。
それはかつて、魔界を侵略しようとした諸国の軍隊を、音もなく腐らせ、兵士たちの命を次々に奪い、その地を白骨で埋め尽くした“死の象徴”の名だった。
(今、目の前にいるのは――あの時のモルテだ)
エステアはその場で小さく呼吸を整えながら、自分が傍らに置いてきた「魔族としての恐怖」を思い出していた。
「ふん、褒めても何も出ぬぞ」
モルテは鼻を鳴らしながら笑い、その杖を高く掲げた。
「さぁ、始めるぞ」
紅い魔力が杖の水晶部分に集まり、まるで血管のようにひび割れた痕が光り出す。
その光が天井に反射し、屋敷の壁を赤く照らした。
「……モルテ、本当に死人は出さないでよ?」
アミーが恐る恐る念を押した。
「もちろんじゃ。おどしと演出だけじゃ、死人を出せばノクスに嫌われてしまうからの」
モルテがくすりと笑いながら言った。
だがその笑顔の裏側には、絶対的な自信と緻密な計算が見え隠れしていた。
杖の先から伸びた紅い光が、ゆっくりと蜘蛛の巣のように広がり、周囲の空気を震わせる。
その光の糸は壁を抜け、屋敷の外へと無音で広がっていった。
数秒後――
モルテの瞳が光を失い、真紅の光が瞳の奥に宿った。
「見えた」
その瞬間、遠く離れた街外れの暗い森の奥に、地面が揺れ、腐臭が漂い始める。
ドクン……ドクン……と大地が脈打つように不気味な音が響き、地面が割れ、白骨の指が土を突き破り伸びる。
無数の骨が絡まり合いながら地表へと這い出し、骸骨の戦士たちが空虚な眼窩を光らせて立ち上がっていく。
次々と湧き上がるスケルトンの群れは、夜風にさらされてカラカラと音を立てながら列を整えていく。
「二千体のスケルトン、召喚完了じゃ」
モルテの口元に満足げな笑みが浮かんだ。
その群れの中央には、頭蓋骨に宝石が埋め込まれ、長い杖を持つ漆黒のローブのリッチが立ち上がり、その周囲の空気が不気味に震えている。
屋敷の中で見守っていたアミーとリュースは、その光景を感じ取り、肌が粟立つのを覚えた。
「後は、いつでも好きなタイミングで作戦を決行できるのじゃ」
振り返ったモルテの笑顔は、澄み切った月光に照らされていた。
「本当にやるんだな……」
リュースが震える声で呟く。
「これでいいのよ」
エステアが小さく吐息を漏らしながら呟いた。
(これで、ノクスを守れる。そして、私たちの“日常”を守れる)
“癒えぬ白い疫病”のモルテが誇る、無血の脅しによる最適解。
その力は、確かにこの小さな家族を守るためだけに使われるのだ。
その場の空気が再び穏やかになりかけた時、モルテが最後にいたずらっぽく笑いながら言った。
「ふむ、問題があるとすれば、あれじゃな」
「何?」
「これでエステア、お主もいよいよ“魔王らしい事”をする時が来たという事じゃ。」
「……うるさい」
エステアは顔を赤くしてそっぽを向き、アミーとリュースは「プッ」と吹き出した。
だがその笑いの中には、不思議な団結感と温かさが確かに宿っていたのだった。