暗闇が街を包み、通りの灯がゆらゆらと揺れる中、ギルドの扉が勢いよく開かれた。
「行くぞ!」
ノクスの小さな叫びと同時に、ジョーヌとルカ、マリーがその後ろを走り抜ける。ノクスの腰には普段は使わない短剣が揺れ、その刃は頼りないながらも今はアリスを救うための決意の象徴だった。
冷たい夜風が頬を打つ。心臓がドクドクと早鐘を打ち、耳鳴りのように血流の音が響く。
(アリスを、助けなきゃ……。)
アリスの泣きそうな顔が、何度も頭に浮かぶ。その度に胸が締め付けられ、短剣を握る手に力が入る。
だが――
ドンッ!
「うわっ!」
ギルドの門を出てすぐ、何か柔らかいものに激突した衝撃が体を襲った。バランスを崩し尻餅をつくノクス。
「痛っ……ご、ごめんなさい!大丈夫ですか……?」
慌てて顔を上げると、見慣れた金の髪が暗闇の中で揺れていた。
「ノクス……?」
その声に、ノクスは目を見開く。
「お、お母さん……?」
そこに立っていたのは、エステアだった。
街の街頭を背にして立つエステアはノクスを安堵したように見つめていた。目元には心配の色が滲み、口を開くと、優しくもどこか叱るような声が降り注ぐ。
「こらっ、ノクス。こんなに遅くまで帰ってこないで……お母さん、心配したのよ?」
その言葉は、雷のようにノクスの胸に響いた。
張り詰めていた緊張の糸が、そこでプツリと切れた。
(あぁ……そうか僕、ずっと、帰ってこなくて……)
自分がどれだけ心配をかけていたのか、その顔を見て初めて理解した。
そして次の瞬間、込み上げる安心感が全身を包み込み、抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「おか……あ……うぅ……」
涙が零れ落ちた。
「ノクス!?」
驚いて駆け寄るエステア。その後ろからジョーヌとルカも血相を変えて覗き込み、マリーも言葉を失ったまま心配そうに見守る。
「どうしたの!?どこか怪我したの!?ノクス、大丈夫!?ねぇ!」
柔らかな手が頬を撫で、冷たい夜風の中でも、その温もりだけははっきりと感じられた。
「う、うぅ……ひっく……ごめん……おかあさん……ごめん……」
声にならない嗚咽が漏れる。アリスのこと、自分が弱くて何もできないこと、怖いのに進もうとしていること、心配をかけてしまったこと、そのすべてが胸の中で絡まり、解けないまま溢れ続ける。
エステアは困ったように微笑むと、ノクスの頭をそっと抱き寄せ、その黒髪に指を通しながら背中を撫で続けた。
「大丈夫、大丈夫よ。ノクス……」
その言葉がまた胸を締め付け、涙が止まらなかった。
けれど、泣いている場合ではないこともわかっていた。
アリスが、今もどこかで震えているかもしれない。
このままじゃいけない。
ノクスは顔を上げ、涙で濡れた頬を腕で拭った。
「お母さん……ごめん……でも、でもね……」
震える声で、短剣の柄を握り直しながら言葉を紡ぐ。
「アリスが、攫われたんだ……。僕の、大事なパーティメンバーなんだ……。守れなかったら、きっと後悔するんだ……」
その言葉を聞き、エステアの表情が一瞬強張る。
だが次の瞬間には、また母親の顔に戻っていた。
「……だから、お母さんにお願いがあるんだ」
ノクスは震える膝を押さえつけ、深く頭を下げた。
「一緒に来てほしい!アリスを、助けるために……力を貸して……お母さん!」
頭を深く下げたノクスの肩が震えている。嗚咽混じりの声だったが、その中には決意の火が確かに宿っていた。
ジョーヌとルカが横で黙って見守り、マリーが手を握りしめているのが視界の隅に映る。
エステアは小さくため息をつくと、手を伸ばしノクスの頭に触れた。
「……わかったわ、お母さんに任せなさい」
その言葉に、ノクスの肩から緊張が抜ける。
「だから……ノクスは先に家に帰ってなさい」
静かに言われたその言葉に、再びノクスの心が締め付けられる。
(あ……僕は……まだ……)
自分が未熟で、戦う力もなくて、一人前なんかじゃないことを知っている。
けれど、ここで見送ってしまったら、きっと自分は一生後悔する。
(僕は、僕は……!)
ノクスは涙を止め、拳を握りしめて顔を上げる。
「お母さん……僕が弱いのは、百も承知だ!」
まっすぐエステアの目を見る。その瞳には恐怖も迷いもあったが、それ以上に消えない決意の炎が宿っていた。
「だけど……ここで行かなかったら、僕は一生後悔するんだ……!アリスを、助けに一緒に行かせてくれ!!」
叫ぶように言い切ると、ノクスは息を切らしながらエステアを見つめた。
エステアはその瞳を見つめ返し、微笑む。
「……困った子ね、本当に。」
その呆れたような言葉の裏には、小さな誇らしさと嬉しさが滲んでいた。
「いいわ、一緒に行きましょう。……お母さんがついているから、安心しなさい。」
その言葉が、ノクスの胸の中に力強く響いた。
そしてノクスは、小さな拳を握りしめながら、仲間たちと共にアリス救出へ向かう決意を新たにするのだった。
ギルド前でエステアはマリーに向き直って
「マリーさん、あなたはベアルさんのところに行ってあげて。」
「え……でも、私もアリスを――」
「大丈夫。この子達には私がいる。だけどベアルさんはきっとまだ気を失っているわ。放っておいたら後遺症が残るかもしれない。あなたが行ってあげなさい」
その声は優しくも、戦場を知る者の冷静さを含んでいた。
迷いながらもマリーは唇を噛み、ノクスを見つめた。ノクスは小さく笑って頷く。
「落ち着いたら援護、お願いしてもいい?」
「……ええ、絶対に行くから。」
そう言い残し、マリーは駆け出して夜の街へ戻っていった。
ギルドの前の石畳を踏みしめ、街灯の光が遠ざかるごとに、道は夜の闇に呑まれていく。
ノクス、ジョーヌ、ルカ、そしてエステアの四人は、アリスが囚われている森へ向かって歩を進めていた。
夜風は思ったより冷たく、街を離れるごとに静寂が濃くなる。虫の声と、草を踏む音だけが周囲に響き、重く張り詰めた空気をさらに濃くする。
「母さん、ごめん……そしてありがとう……。」
ノクスが小さな声でそう言うと、エステアは肩越しに振り返って微笑んだ。
「謝ることじゃないわ。お母さんはノクスのためにいるんだから。」
その笑顔は優しかったが、ノクスにはわかっていた。その奥に潜む、ほんの少しの苦笑いを。
四人は無言でしばらく歩いていた。
「しっかし、なんつー夜だよ……」
ルカがぽつりと呟く。
「アリスが攫われて、リッチ相手に喧嘩売ることになるなんてね……」
「まあ、いいんじゃね?面白くなってきたし」
ルカがいつもの調子で肩をすくめ、腰に差した剣の柄を軽く叩く。
その横でノクスは、ぎゅっと短剣の柄を握りしめた。
(怖い……けど、行くって決めたんだ。)
恐怖がないわけではない。むしろ全身が震えるほど怖い。
でも、それ以上に今は――
(アリスを助けたい……!)
その想いが、震える足を前へ進めさせるのだった。
だがその背中を見つめるエステアの心中は、全く違うことで満たされていた。
(まさかノクスが泣くなんて……)
ギルドの前で、突然泣き始めそれでも「助けたい」と叫んだノクスの姿が、頭から離れない。
しかも、その原因が――
(私が魔王だってバレないための……自作自演の作戦のせいだったなんて……)
胸が苦しくなり、自己嫌悪で思わずため息が漏れる。
(仕方ない事とは言え…辛いわね)
だけど、その後すぐにノクスは涙を止め、怖いはずなのに泣き顔のまま「行かせてくれ」と目を真っ直ぐに向けてきた。
あの時の瞳――
(本当に、いい顔をするようになったわね……ノクス)
自然と口元が緩み、夜道を歩きながら頬が緩んでしまう。
ジョーヌが隣で怪訝な顔をするが、エステアは気にせずニヤニヤと笑い続けた。
(そういえば……昔、読んだことがあるわ。)
『子供はある程度成長すると、親の言うことに反抗する「反抗期」という時期が来る』と、あの本に書いてあった。
(反抗期は、子供が健やかに成長している証……。)
あの時、自分は本を閉じて「そうなんだ」と漠然としか思わなかった。
でも今、目の前で「帰れ」と伝えたのに「行かせてくれ」と涙ながらに懇願し、「ここで行かなかったら一生後悔する」と吠えたノクスの姿が頭をよぎる。
(ついに……ついにノクスにも反抗期が来たのね!?)
胸が熱くなった。
(私の育児は……間違ってなかったんだ……よかった……!)
もう、心の中はお花畑でいっぱいだった。
周囲にはピリついた緊張感が走っているのに、一人だけ温度の違う世界にいた。
(今日はお祝いしなきゃ……反抗期記念日……!)
「なにニヤついてんだよ」
「!!」
ルカの呆れたツッコミで我に返るエステア。
「すみません……お母さん、急にニヤニヤしてるの怖いっす……」
ジョーヌも冷や汗を流しながら小声で言う。
「別にいいでしょ!今大事な時間なんだから!」
声を荒げつつも、また口元が緩んでしまう。
(今日は……いい日だわ……)
夜風がまた吹き抜ける。
街灯が途切れ、前方には黒く沈む森の影が見えてきた。
そこに、アリスが囚われている。
今度は笑顔を消し、エステアは真剣な表情で森を見据えた。
(ごめんなさい。ノクス、これはあなたの戦いではあるのだけれど――全部私の自作自演なのよね)
夜の森へ向かって、四人の影が闇に溶け込んでいった。