ノクスがやって来てから数ヶ月。
魔王城には、かつてないほどの笑い声が響くようになっていた。
「魔王様〜! こやつ、また我の巻物で落書きをっ……!」
「いいじゃない、文字を覚えようとしてるのよ! ほら見て! これは“モルテ”って書いてる! ちょっとグニャってるけど!」
「まさか我の名前だけ先に覚えるとは……ふふふ、将来は立派な死霊術士に……!」
「勝手に後継者にするなぁ!!」
そこからさらに月日が流れ。
ノクスは少しずつ言葉を覚え、感情も豊かになってきた。
「えすてあー!」
「ふふふ、呼んだ? 呼んだのね!? ちょっと! みんな聞いた!? いま“エステア”って言った!!」
「魔王様、今のは“えしてゃー”ですよ。“えしてゃー”!」
「うるさい! 似てればいいのよ似てれば!」
セスは相変わらず記録魔であり続け、ノクスの成長日誌は日に日に厚みを増していた。
アミーは変幻自在な見た目で、育児に役立つ姿を日々アップデート。
「今日は完全ふわふわ素材のクッションフォームでお届けしてまーす」
「誰が通販番組やれって言った!?」
リュースはリュースで、無言で抱き枕になっていた。ノクスがよじ登って昼寝するのが日課である。
そんなある日のこと──
ノクスがぐずり出した。珍しく、何をしても泣き止まない。
「セス! ノクスの様子が変なの! 目がとろんとしてて、身体が熱くて……!」
「体温上昇、顔面蒼白、喉の炎症。──これは“風邪”ですね」
「か、風邪!? 人間の!? 魔界で!?」
「そもそもこの城、気候が人間向きではありませんから。特に夜間の冷気、魔力濃度の影響もあるかと」
「……この子にとって、ここは過酷な環境なのね」
魔王エステアの顔が曇った。
ただの風邪ということもあり、大事にならずノクスの体調はすぐに回復したが、エステアの中には重たい問いが残り続けた。
「このままここで育てていいの? ちゃんと、大人になれるの……?」
「魔王様。あまりご無理を」
「無理とかじゃなくて……なんか、違う気がするのよ。だって、風邪一つで泣きそうになるんだもん……私が……」
エステアは珍しく、静かだった。
「このままこの子を魔界で育てても……魔族の文化も、生き方も、人間とは違う。私たちと暮らすほどに、“人間”としての道から遠ざかっていく」
「魔王様、それは──」
「うん、分かってるわ。セス、分かってる……でも……」
その時。
エステアの脳裏に一つの天啓を得る。
「──そうだ!」
「な、なんですか!?」
「私が! 人間になればいいんだあああああ!!!!!」
「……」
「…………」
「は?」
こうして、緊急魔族会議 Part.2が開催された。
「人間界で、ノクスを育てる!?」
「しかも魔王様自身が人間に!?」
「それはつまり、引退宣言と取ってよろしいか!?」
「誰もそこまで言ってない!!」
「というか魔王の人化って前代未聞なんじゃが!? 生物的に可能なのか!?」
「よくぞ聞いてくれました!」
エステア、ばばんと魔導書を開く。
「この“禁断の変身術”を使えば、一定時間、私は人間の姿になれるらしい!」
「“禁断”って時点でやめんか!?」
「ちょっと副作用として記憶が飛ぶ可能性があるらしいけど!」
「辞めといた方がいいんじゃねぇか?」
大荒れの会議の中、一人冷静に人化の魔導書を読み解いていた男が発言する。
「この術法での副作用は魔力が足りない場合に起きるようです。」
「ということは!」
「はい…魔王様、並びに我々の保有魔力でしたら、副作用が起こるのは万に一つもありえないかと」
「じゃあさっそく唱えてみるけど良いわよね!?」
セスは静かに本を閉じながら、エステアの眼を見て頷いた。
エステア、決意の詠唱。
「──我、肉体の本質を偽り、形を変えよ! 人の貌を与えたまえ!」
──ドカーン!!!
煙が晴れると、そこには──
「……ねぇセス、私、ちゃんと人間になってる?」
「見た目は大丈夫ですが、服が魔王のままなので完全にアウトです」
「えっ!?」
しかも──
「ねぇ? ノクスが見てる……! なんか“だれ?”って顔してるぅぅぅぅ!!」
「アイデンティティ喪失!!?」
「やっぱり私、人間向いてない……!」
しかし、エステアの中に芽生えた決意は揺るがなかった。
「どんなに不格好でも、この子が人間として生きるために、必要なら……私が変わるわ」
「魔王様……」
「セス、準備して。まずは人里に家を一軒用意して。あと、戸籍と、偽名と、職業と!」
「魔王が偽名と職業探し!? って、まさか……」
「──そう、母として働くのよ!」
ーー波乱の会議から数日後ーー
「というわけで、私、臨時講師になることにしました!」
「なんで!?」
「だって昼間ノクスと一緒にいられて、町の人とも交流できて、しかも人間の文化が学べる職業って言ったら!」
「いやまあ正論だけども!? 臨時とは言え講師ってなれるのそんな簡単に!?」
「そこは魔王権限でどうにかする!」
「人間界で魔王権限効かないのじゃあ!!!」
こうして、ノクスを人間として育てるため、魔王エステアの“人間生活計画”が始まった。
「ところでセス、私の人間界用名前、決まった?」
「“エスティ”でいかがでしょう」
「……それ、あんまり変わってなくない?」
「変えすぎると“忘れます”から」
ある夜のエステナは自ら考える
「魔王って、強くて孤高で恐ろしくあるべき存在だったはずなのに」
エステアは、寝ているノクスの頬に触れる。
「でも今の私は、なによりもこの子の“お母さん”でありたいの」
──笑いと涙が交差する、育児生活。
次の舞台は人間界。
魔王エステア、改めエスティ。
正体を隠し、母として生きる覚悟を決めたその背に、誰もが知る“魔王の影”は、もうなかった。
ただ──
「……それにしても、引っ越し祝い!?歓迎会って何!? なに着ていけばいいの!?!?」
「魔王様、落ち着いてください。今それを考える段階じゃありません」
「人間、怖い……!!!」
──こうして、魔王の育児は“第二章”へと突入する。
アミー:「じゃあ私も“隣のお姉さん”ポジションでついていこうかな」
モルテ:「むむむ……私は“永遠の幼馴染”ポジションじゃな」
リュース:「俺は……壁役だな」
「いや壁は必要ないから!?」
セス:「私は変わらずお目付け役の執事ですかね…」