モルテは珍しく静かだった。屋敷のいつものソファに座りながら、手元の分厚い魔導書をめくっているはずなのに、その視線はページを追わず宙を泳いでいた。
「ふぁ……」
小さなあくびが漏れる。昨日の作戦が終わり、ノクスたちが無事に帰ってきてから丸一日が経ったのに、疲労感は身体に根を張ったままだった。エステアには深夜に「助かったわ」と感謝の言葉をもらった。だがその横でセスが「ノクス様は大丈夫だったのですか?」と不安げに問いかけ、アミーとリュースは「何であんな危ない茶番やらせたのよ!」「坊主が怪我したらどうすんだ」と矢継ぎ早に詰め寄ってきて、モルテはそのたびに「問題ない、問題ないわ!」と笑顔を作りながら内心冷や汗を流していた。
(……あの子たちが無事で良かったのじゃ……ほんに……)
結果だけを見れば、無事だった。それは確かだ。しかしモルテにとっては全てが綱渡りだったのだ。予定通り、森の中でリッチが暴れ、スケルトンが囲み、エステアが現れて救出する。完璧な段取りだったはずなのに、ノクスが飛び出し、リッチと鍔迫り合いを始め、挙句の果てには大技を使わせる段取りになってしまった。
「……本当に、あやつは……」
ぽつりとこぼれた言葉に、いつもなら即座に反応する使い魔の骨鼠たちも、今日は主の疲労を察したのかおとなしく隅で寝息のような音を立てていた。モルテはふと、本を閉じて額に手を当てる。脳裏に浮かぶのは、エステアの「助かったわ」という笑顔と、ノクスが泥だらけになって笑っていたあの瞬間だった。
「まぁ……結果としては、悪くなかったか……」
その時だった。
「ただいまー……あーもー、つかれたぁぁぁ!!」
屋敷の扉が乱暴に開き、アミーが大きな声で帰還を告げた。その声にモルテが目を開くと、アミーはいつものように髪をポニーテールに結い上げていたが、いつもより乱れており、ほこりまみれで頬にはかすり傷がついていた。
「エステア!あんた人使い荒すぎ!限度があるでしょーが!」
「悪かったわね、でも緊急だったのよ」
食堂からエステアの穏やかな声が返ってくる。エステアはエプロン姿のまま、湯気の立つカップを持って現れ、肩で息をしているアミーを見て微笑んだ。
「アミー、お疲れ様。とりあえずお茶でも飲んで――」
「飲む飲む!」
テーブルの椅子にどかっと座ると、アミーはカップを一息に飲み干した。少し落ち着いた顔で「ふぅぅ……」とため息を吐くアミーを横目で見ながら、モルテは小さく咳払いをした。
「……それで、どこへ行っておったのじゃ?」
「ん?」
「朝早くから姿が見えなかったが、どこへ行っていたのか、と聞いておる。」
「どこって……」
アミーは不満げに唇を尖らせながら、懐からずっしりとした布袋を引きずり出した。その袋をテーブルの上に「ドン!」と乱暴に置くと、内部からは鈍く反射する金属光沢が覗いた。
「……エステアに頼まれてこれ取ってこいって言われたから、魔界まで行って取ってきたんです!!」
「だから悪かったって」
エステアとアミーのやり取りを横目にモルテは目を瞬いた。
あまりにも突然、あまりにも当然のように放たれたその言葉に、一瞬脳の処理が止まった。
「ま、魔界じゃと?」
「そうだよ!!行きは転移で送られたから楽だったけど、帰りは門が使えなくて歩きと馬で帰ってきたんだからね!しかも、行った先でリュースの昔の部下に遭ってさー、『アミー様、なぜこんなところに!?』とか言われて面倒くさかったんだから!」
ぷりぷりと怒りながら言うアミーをよそに、モルテはゆっくりとその袋を引き寄せる。中身が見えるように口を開くと、中には黄金の杯――聖杯が鎮座していた。
「これが件の
思わず声が漏れるモルテ。その聖杯は紛れもなく、魔界の魔王城の宝物庫に保管されていた聖遺物であり、かつて王都の教会から奪われた重要な品だった。
「アミーに頼んで取りに行ってもらったの、あなたにこの聖杯を調べて欲しくてね」
「はあ!?それだけのために魔界まで行かせたの!?私の苦労、返してよ!!」
「ふむ、調べるのはいいが、なぜじゃ?」
「魔王の勘かしら?」
「うざぁぁぁぁぁい!!」
アミーの絶叫が屋敷に響き渡る中、モルテは疲労感が混じる複雑な表情で聖杯を撫でていた。
(……まぁ、調べろと言うなら調べるか……)
モルテは静かに聖杯へ手を伸ばす。金属製の聖杯は室内の空気を張り詰めさせるような存在感を放っていた。指先を杯の縁に触れさせ、そっと魔力を流し込む。魔力の糸が淡く青白く光り、聖杯の内側を螺旋を描くように駆け巡った。
「わ……何これ、綺麗」
隣で覗き込むアミーが声をあげる。その隣で腕を組んでいたエステアも目を細め、興味深そうに光の流れを追っていた。だが、当のモルテは二人の声が耳に届いていなかった。
聖杯の内側で、モルテが流し込んだ魔力が変質していく。青白かった魔力が、透き通るような透明な液体へと変わり、聖杯の底から徐々に満ちていく。ほんの数秒で、聖杯は完全に透明な液体で満たされた。
(……これは……!)
モルテの紅の瞳が大きく見開かれる。古い文献で一度だけ目にした記述が頭をよぎった。
“聖杯とは、万物の霊魂を救済する器である”
そしてその救済の形は、命という形で現れる。すなわち――
「おーい、モルテ?何やったの?」
アミーが肩を小突くまで、モルテは完全に固まっていた。はっと我に返り、聖杯から指を離し、水面をじっと見つめながら呟く。
「……この聖杯は……魔力を……エリクサーに変換する装置なのじゃ」
「は?」
アミーが目を丸くし、エステアも珍しく驚いた顔でモルテを見た。
「エリクサーって……あの、どんな傷も治して病も癒す伝説の……?」
「あれじゃ」
モルテは息を吐き、重々しく言葉を続けた。
「魔力を注げば注ぐだけ、無限にエリクサーを生み出す事ができる。正確には作り出すのではなく、注いだ魔力をそのまま変換するのじゃが……この効果、尋常ではないの」
エステアは沈黙したまま聖杯を見つめ、アミーは驚きの顔から少しずつ納得したように目を細めた。
「そりゃ……王都側も、これを取り返したくて必死になるわけだわ……」
アミーが吐き出すように言った。
「で、返すんでしょ?これ」
アミーは肩をすくめる。魔族である自分たちは、元々身体が頑丈で、多少の傷では死なない。エリクサーなど必要ない存在だ。それならば、わざわざ奪って持っておく理由はないはずだと。
「そうね……」
エステアも同意しながら、その視線はどこか遠くを見ていた。
その時、部屋の奥で控えていたセスと、ソファの肘掛けに座っていたリュースが顔を見合わせると、リュースが「待った」と声をかけた。
「お前ら、これ、本当に返すつもりか?」
リュースが珍しく真剣な顔をしていた。軽口を叩くことの多い彼のその顔に、アミーもエステアも眉をひそめる。
「……何か知っているのか?」
モルテが問うと、リュースは腕を組み、少し過去を思い出すように目を閉じて語り始めた。
「今から十年ほど前、魔界と王都で戦争してた時期があったろ。あの時、やたらと王都側の兵がしぶとかったんだ。腕を切り飛ばしても、腹を貫いても、翌日には同じ奴が傷もなく前線に戻ってきやがった」
エステアは息を呑む。あの戦争の時の記憶が蘇る。魔族軍がいくら攻めても人間側の粘りが異常で、無尽蔵に湧くかのようだった。
「あの時は、王都側に凄腕の治癒師でもいるのかと思ってた。でもな……」
リュースは聖杯を見つめる。
「こいつを使って、エリクサーを無限に生み出していたとしたら……謎が解ける」
「…………」
言葉を失うエステアの横で、セスが口を開いた。
「魔王様がその聖杯を拾ったのは、あの戦争が最も激化していた頃でした。前線視察の帰りに、森の奥で見つけて拾われた日の翌日、突然王都側が停戦要求をしてきたのを覚えておられますか?」
エステアはゆっくりと頷いた。当時は唐突すぎて理由が分からなかった。だが、もし王都側がこの聖杯を失ったからだとしたら。
「つまり、これを返せば……王都は再びこの力を使い、再び戦を仕掛けてくるかもしれないって事?」
エステアが静かに口にすると、セスは目を伏せて肯定するように頭を下げた。
「その可能性は、十分にございます」
室内が静まり返った。
さっきまで小さな騒ぎで終わると思っていたが、一瞬で世界の均衡を揺るがしかねない問題へと変貌していた。
アミーが黙り込んだまま、無言で聖杯を見つめる。冗談を言う余裕は、今の彼女にはなかった。
モルテは静かに椅子へ腰を下ろし、聖杯の水面に映る自分の瞳をじっと見つめていた。その瞳に映るのは、これから来るかもしれない戦乱と、それを止めるための答えを探す自分自身の姿だった。
(……どうする、エステア……)
(どうするのじゃ、我らは……)
その問いが、誰の口からも発せられぬまま、しかし全員の胸の奥でぐるぐると渦を巻きながら、重くのしかかるように部屋の空気を圧迫していた。
エステアは目を閉じ、深く息を吐いた。そしてもう一度聖杯を見つめる。
「――答えは、急がなくてもいいわ」
それだけを口にし、その場の空気を少しだけ緩ませるのだった。