第一節:修行へ向けて
深夜の森での戦いから数日が過ぎ、街の空気にも徐々にいつもの穏やかさが戻ってきていた。
ノクスはギルドの掲示板の前で腕を組み、眉間に皺を寄せていた。修行を始めようと決意したはいいものの、何から手をつけていいのか見当がつかなかったのだ。
「魔法も剣も使えなきゃ駄目なのはわかるけど……どうやって鍛えるのがいいんだろう……」
後ろでジョーヌが欠伸をしながら座っており、その隣ではルカが鍛錬を思い出したのか剣を振る素振りをしている。
「ノクス、お前さっきからずっと同じ場所で考え込んでるけど、決まらねぇの?」
「うん……。ただ我武者羅に動くだけじゃ意味がないってお母さんにも言われたし……指導してくれる人がいないとダメだと思うんだ」
「じゃあギルドにいる冒険者に頼んでみたら?」
「いや、それはいいかな。まずは自分でできるところから鍛えたいんだ」
ノクスは真剣な顔で呟くが、その目はどこか不安げで、そしてどこか決意が滲んでいた。ジョーヌは口を尖らせながら「真面目だねえ」とぼやいたが、ルカは剣の柄を握り直し、
「でもよ、修行するにしてもどうやるんだ? お前、まともに体術も剣術も魔術も習ってないだろ?」
「だから困ってるんだよ……」
途方に暮れたようにノクスが小さく溜息をついたその時だった。
「なんだ、お前ら修行するって話は本当だったのか?」
低く、力強い声が響き、振り向くとそこには赤茶の短髪を無造作に撫でつけ、肩に大きな荷物を担いだリュースが立っていた。街の子供たちに囲まれて無理やり風船を持たされていたその姿はどこか間の抜けた雰囲気だったが、今は鋭い眼光を放っていた。
「リュースさん! どうしてここに……?」
「ちょっと野暮用を頼まれてただけだ。で、立ち聞きするつもりはなかったが……修行するのか?」
ノクスは頷くと、リュースはにやりと笑った。
「じゃあ俺が見てやるよ。鍛え方ならわかってるからな」
「えっ、本当ですか!?」
「ただし……俺の修行は厳しいぞ? 泣き言言うなよ?」
「もちろんです! お願いします!」
ノクスが目を輝かせて頭を下げると、リュースは腕を組んで満足げに頷いた。ジョーヌが呆れたように「よく言うよ」とつぶやくが、ノクスは気付かないほどに真剣な表情だった。
だが次の瞬間、柔らかくも鋭い声が響いた。
「おやおや、リュースだけに任せるつもりですか?」
声の方を向くと、いつの間にかそこに黒衣の執事服を纏ったセスが立っていた。冷静な瞳がノクスを見つめ、その口元には微笑が浮かんでいた。
「ノクス様、修行をなさるのでしたら私も是非お手伝いさせていただきたい。……主の大事な御子息の鍛錬となれば、見過ごすわけには参りませんので」
「セスまで……! 本当にいいんですか?」
「ええ、しかしご安心ください。リュースのような脳筋訓練ではなく、魔力制御・動きの精度を鍛える方向で考えておりますので」
「脳筋は余計だぞ、セス!」
「事実ですから」
ギルドの前で言い合いを始める二人に、ジョーヌはため息をつきつつ笑いをこらえ、ルカは「こういうのも悪くねぇな」と目を細めていた。
「ずいぶん賑やかだな?」
さらに涼やかな声が響き、街路を歩いてきたエステアが三人を見つめていた。魔族としての重圧を微塵も感じさせず、穏やかな笑みを浮かべている。
「お母さん……」
「ノクスが修行を始めるなら、私も見届けないとね」
「え? エスティも?」
そうルカが呟くと、その後ろでぱたぱたと本を抱えたモルテが追いついてきた。
「待つのじゃエスティ! ……はぁはぁ、我も……ノクスの修行、見届けるのじゃ……!」
「モルテも来たの?」
「当たり前じゃろ!」 (それに骨鼠を使って安全確認もせねばならんしな)
その後ろでは、あくびを噛み殺しながらアミーも歩いてくる。
「あーもー! みんな揃って何よこれ! ついでだから私も見てあげる! 監視役でも何でもやるわよ!」
「……えっと、みんな……?」
ノクスは目を丸くして周囲を見渡した。そこにはリュースとセスが仁王立ちし、エステアとモルテとアミーが肩を並べて立っている。ジョーヌとルカも肩をすくめて笑い合っている。
ノクスは胸がいっぱいになった。自分が修行を決意したこと、それがこんなにも多くの人を動かしてくれるなんて思っていなかったのだ。
頼れる家族と仲間がいる。その事実が胸を温かくし、同時に背筋を伸ばす。
「ありがとう! 俺……絶対に強くなるよ!」
その言葉に、リュースはがははと笑い、セスは微笑み、エステアは優しく頷き、モルテは満足げに目を細め、アミーは小さく笑みを浮かべる。
こうして、ノクスの修行は――街の外れの森を舞台に、彼を支える者たち全員の見守る中で始まろうとしていた。
その日の夕刻。
街の外れの屋敷のリビングには、いつもの夕食準備の音ではなく、奇妙な緊張感が漂っていた。
「修行をするにあたって、寝坊なんぞしたら承知せんぞ」
リュースが腕を組み、壁際で巨大な斧を研ぎながら目を光らせていた。その横でジョーヌはリンゴをかじりながら、
「寝坊したら起こすから大丈夫でしょ。あーしも付き合ってやるんだから感謝しなさいよね」
とけだるげに言うが、どこか楽しみにしているのがわかる。
ルカは剣を持ったままソファに座り、
「修行なぁ、血が滾るなぁ……! でもまあ、メシはしっかり食わせろよ?」
と口を尖らせる。そんなルカの頭を後ろから軽く叩くのはモルテだった。
「こら、刃物を持ってソファに座るでないわ。……さて、ノクス、逃げ道の確保と、安全確認は任せておくのじゃ」
「ありがとう、モルテ」
ノクスは頭を下げると、テーブルの上に置いた短剣の柄を強く握りしめた。その隣でアミーがくすっと笑い、
「修行って言っても、本当にボロボロになったら面倒なんだからね。私が応急処置はするけど……」
と目を細めた。
キッチンで夕食の支度をしていたエステアが鍋をかき混ぜる手を止め、ノクスに向き直る。
「ノクス。修行を始めるのはいいけど、無理はしないこと。わかった?」
「うん……でも、少しぐらい無理しないと強くなれないから」
その言葉にエステアは少し笑って、小さく頷いた。
「そうね。でも、帰ってきたらご飯はしっかり食べること。それが条件よ?」
「うん、ありがとうお母さん」
柔らかい笑顔を向けるエステアに、ノクスは胸が温かくなるのを感じながら返事をした。
それを見ていたセスがゆっくりと立ち上がり、リビング中央に進み出た。
「明日から本格的に修行を始めますが、それぞれの役割を決めましょう。リュースは体術と基礎体力、私が魔力制御と剣術の型、モルテは遠隔監視と緊急支援、アミーは応急回復と体調管理……」
「私はノクスの食事管理と生活管理を担当するわ。修行の合間にケガをしても、すぐに治療できるし」
「エスティまで……」
ルカが呆れたように笑ったが、どこか楽しそうだった。
準備が整う中、ノクスは一度、自室へ戻った。
鏡の中の自分はまだ幼さの残る顔をしていたが、目だけはしっかりと前を見据えている。
「……絶対、強くなる。みんなを守れるぐらいに」
その言葉を胸の奥で繰り返しながら、ゆっくりと深呼吸をした。
部屋を出ると、階下から食欲をそそる匂いが漂ってきた。リビングではエステアが食事を並べており、ジョーヌがテーブルの端でスプーンをくるくる回している。
「遅い! 早く座りなさいよ、腹減った!」
「お前、修行する前からそんな態度でいいのか?」
「うるさいわねルカ! あんたこそ肉狙ってる目してるわよ!」
「いや狙ってねぇし!」
騒ぐ二人を横目に、モルテは椅子に座りながらも杖を抱え、骨鼠の視界をチェックしている。
「ふむ、森の結界に異常は無し。獣も魔物も来ぬ。安全じゃ」
セスは「ありがとうございます」と頭を下げ、続けてノクスに笑顔を向ける。
「ノクス様、明日は早朝から開始します。心身共に整えて挑むように」
「そのつもりだよ、セス」
いつもと変わらない、だけどどこか少しだけ特別な夕食が始まった。
鍋の湯気、みんなの笑い声、スプーンが皿に当たる音。これが守りたい日常であり、強くなる理由だった。
食事が終わる頃、ノクスはもう一度みんなの顔を見渡した。
「みんな、明日からよろしくお願いします。必ず、強くなるよ」
その宣言に、エステアは優しく微笑み、モルテは満足げに頷き、アミーは「はいはい、頑張りなさい」と言って笑った。ジョーヌとルカは「おう!」と声を合わせ、リュースは大きく手を叩き、セスは静かに目を細める。
ノクスはその笑顔を胸に刻み込みながら、明日の修行への決意をさらに強くしていくのだった。