森の中に差し込む木漏れ日が、風に揺れる枝葉に合わせてちらちらと地面に踊っている。早朝の冷たい空気の中、ノクスたちは簡易の野営地を作り、本格的な修行を始める準備をしていた。
「さて、今日は体を慣らすところから始めようかの。」
モルテが腰に手を当て、どこか誇らしげに立っている。エステアはその隣で腕を組みながら、うんうんと頷いていた。
「はい、よろしくお願いします!」
ジョーヌとルカ、そしてアリスが元気よく声を合わせる。ジョーヌは短剣を腰に差し、ルカはいつもの剣を肩に担いでおり、アリスは修道服を汚さないように袖を捲りながらもしっかりした目をしていた。
「おう! こういうのは気合だからな!」
ルカが大きく肩を回し、ばきばきと骨が鳴る音を響かせる。ジョーヌは彼を横目で見て「うるさい」と呟いたが、その口元はどこか笑っていた。
アリスは深呼吸をして、神聖術を補助に使いながら柔軟体操をしている。見るからに落ち着いており、呼吸も乱れずにこなしているその姿に聖女としての資質を垣間見る瞬間だった。
「ノクス、お前も準備体操はしっかりしなさいよ。」
「う、うん。」
ノクスは素直に答えながらも、自分の腰に巻かれた布を直し、汗を拭った。短剣の柄が不慣れで邪魔になるたび、そっと位置を直す。
「じゃあ早速……走り込みからだな! 森の周囲を十周!」
リュースが腕を組みながらそう叫び、ルカとジョーヌは「はーい」と声を上げて駆け出す。アリスも柔らかく笑みを浮かべ「行きますね!」と続く。
ノクスも慌てて走り出そうとしたが、
「ノクス!」
「はいっ!?」
「転ばないように気をつけるのよ? もし疲れたらすぐ言いなさい。」
「そうじゃ、無理は禁物じゃからの。」
エステアとモルテの声が重なる。
ノクスは思わず足を止め、振り返るとエステアがふわりと優しい笑顔を浮かべて手を振っていた。その隣ではモルテが目を細めて頷いている。
「だ、大丈夫だから!」
ノクスは苦笑いして言い返し、駆け出した。
ジョーヌ、ルカ、アリスはすでに先を行き、軽やかに木々の間を縫うように走っている。ルカは枝を避ける時に「よっと!」と軽口を叩き、ジョーヌは淡々と走り続け、アリスは呼吸を整えながらも後れを取らずに続いている。
「よし、僕も!」
気合を入れて速度を上げようとした瞬間、枝に足を引っ掛けてノクスは思い切り転んでしまった。
「ノクス!!」
すぐさま聞こえてきたのは、エステアとモルテの悲鳴だった。
二人は駆け寄り、モルテは杖をついて姿勢を低くして傷の確認を始め、エステアはノクスの背中を支える。
「こ、転んだだけだから大丈夫だよ……」
「なに言ってるの! 小さな傷でも放置は駄目よ!」
「そうじゃそうじゃ、ここで怪我して修行どころではなくなったらどうするのじゃ!」
小さな擦り傷に回復魔術が施される。あっという間に傷は塞がり、痛みも消えた。しかし、ジョーヌたちは既に周回を続けている中、ノクスだけがまた取り残されてしまった形になった。
「……うぅ……」
ノクスは自分の両手を見つめる。自分だけが過保護に守られている。昨日の夜、勇気を出して戦ったはずなのに、こうして修行の中ではいつも「無理をしないで」と止められる。
自分だけが、前に進めていない気がするのだった。
「ノクス、大丈夫? まだ走れる?」
エステアが心配そうに覗き込む。その笑顔はあまりに優しくて、逆に胸が苦しかった。
「う、うん……走るよ。」
無理に笑顔を作って立ち上がるノクスを見て、モルテが「本当に大丈夫なんじゃな?」とまだ心配そうにしている。
「二人とも、大丈夫だから見ててくれるだけでいいよ。お願い。」
「……」
エステアとモルテは目を合わせ、小さく頷いた。
再び走り出すノクスの背中を見送りながら、二人は少し複雑な顔をしていた。
「なぁなぁモルテ、私たち……少し過保護すぎるのかしら?」
「過保護じゃない、守っておるのじゃ。」
「……でも、これじゃあノクスが望む強さには届かないんじゃないかって、思っちゃうのよ。」
「…………」
答えずに目を伏せるモルテ。
二人は遠ざかっていくノクスの背中を見つめ続けていた。
その後、周回を終えたジョーヌ、ルカ、アリスは息を切らしながら戻ってきたが、笑顔で充実した表情を浮かべていた。
「はーっ、走った走った!」
「意外とアリス、やるじゃん。」
「ふふ……負けられませんから。」
ルカとジョーヌにからかわれながらも、アリスは笑顔を浮かべる。
その光景をノクスは見つめながら、心の奥にじんわりとした焦りを感じていた。
「……僕も、もっと強くならなくちゃ。」
自分がこのままでは置いて行かれる。
そう、強く思った。
しかし、その思いとは裏腹に、エステアとモルテはノクスの膝の砂を払って笑顔を向ける。
「さ、次は何をするのかしら?」
「次はなにかのう、うむ……」
修行初日からして、ノクスの挑戦は波乱含みのものとなっていた。
「さて、基礎体力づくりはこれくらいでいいだろう。次は実戦形式でいくぞ。」
昼過ぎの森の広場に、低く響くリュースの声が落ちる。大剣を背に立つその姿は、普段の大雑把な兄貴分という印象を覆すような、鬼人族の近衛師団長としての威圧感を纏っていた。
「え、もう実戦形式?!」
ルカが目を輝かせる。「いいねぇ、修行って感じがするぜ!」
ジョーヌはつまらなそうに溜息を吐くが、その足取りには緊張感が混じっていた。
アリスは短く「分かりました」と答えると、いつもの穏やかな表情のまま魔力の流れを整えている。
その中で、ノクスは息を呑んで立ち尽くしていた。先ほどの走り込みで既に膝は笑っているのに、今度は戦闘訓練だという。
「よし、じゃあまずはお前らの力量を確認するぞ。」
リュースが地面に太い木の棒で円を描き、中央を指差した。
「一対一の模擬戦をやってもらう。勝ち負けは重要じゃねぇ。自分がどこまで出来て、どこがダメか見極めるのが目的だ。全力でこい。」
その言葉にルカは笑顔で剣を抜き、ジョーヌは短剣を指で弾きながら肩をすくめる。
「面倒だけど、まぁ、やるだけやるわ。」
アリスは緊張した面持ちで頷き、ノクスは震える指で短剣の柄を握り締めた。
「じゃあまずはルカとジョーヌからだ。」
リュースの合図で、二人が円の中に入る。
「いくぜ、ジョーヌ!」
「はいはい、来なさいよ。」
その瞬間、ルカが疾風のように踏み込み、剣を振り下ろす。しかしジョーヌは最小限の動きで避け、肘でルカの脇腹を突く。ルカが呻き声を上げるが、その目には楽しげな光があった。
「ははっ、やるじゃん!」
「……口だけじゃないところ、見せなさいよ泣き虫」
刹那、二人の動きが加速する。鋭い打撃と回避が交互に繰り返され、数合交わした後、ルカが背後を取り、剣の刃先をジョーヌの首筋に突き付けた。
「はぁはぁ、これで俺の勝ちだな」
「ちっ、わかってたけど勝てないか…」
リュースは顎を撫でながら笑う。
「いい動きだ。ルカの踏み込みは合格だが、隙が大きい。ジョーヌは無駄がなくていいが、力負けする場面があるな。次、アリス!」
アリスは両手を組んで祈るようにして深呼吸をすると、穏やかな目でリュースを見つめる。
「お願いします」
相手はルカ。再び構えるが、今度はアリスが軽く指を動かすだけで、ルカの体が僅かに後ろに引かれる。
「っ、なんだ?」
「捕縛の術です」
ルカが無理やり剣を振ろうとするが、アリスの詠唱と共に足元を淡い光の鎖が縛り、ルカの動きを止めてしまった。
「す、すげぇ……」
「私、力はありませんから……拘束して動けなくする方が得意なんです」
アリスは汗を拭いながら、軽く会釈した。
「よし、十分だ」
リュースは笑顔を浮かべて満足そうに頷く。
「さて……ノクス、お前の番だ」
「う、うん……」
手汗で滑る短剣を握り直し、ノクスは円の中に立った。
相手はジョーヌ。ジョーヌは「怪我したら面倒だから本気は出さないから」と宣言しながらも、短剣を逆手に構える。
「来なさい」
ノクスは大きく息を吸って踏み込んだ。だが踏み込みが浅く、ジョーヌは余裕で横に避けると、そのままノクスの背中を軽く叩いた。
「……はい、一本」
「ま、まだだ!」
顔を赤くして振り返るノクス。しかしジョーヌは溜息をつきながらまた軽く動いただけで、ノクスの突きは空を切り、足を引っ掛けられて尻もちをつく。
「……」
静まり返る空気の中、ノクスだけが息を切らし、地面に座り込んでいた。
「ノクス君……」
アリスが心配そうに駆け寄る。
「立てる?」
「う、うん……」
ノクスは震える膝で立ち上がったが、その目は悔しさに滲んでいた。
「次、ルカ」
ルカとも模擬戦をしたが、踏み込んだ瞬間に剣の背で肩を叩かれ、あっさり終わった。
「……マジかよ」
「お、おいノクス、大丈夫か?」
「だ、大丈夫……」
けれど、何度繰り返しても結果は同じだった。
ジョーヌにも、ルカにも、アリスにも勝てなかった。攻撃は当たらず、動きも遅く、集中しようとすればするほど視界が狭くなり、足元がおぼつかなくなる。
結局、リュースが「今日はここまでだ」と声をかける頃には、ノクスは膝に手をついて肩で息をしながら地面を見つめていた。
自分だけが何も出来ない。
この前の事件で勇気を出して踏み込めたのはただの勢いだったのかもしれない。
自分は何も出来ないままなのかもしれない。
「……僕、弱いな……」
そう、小さく呟いた声は風に消され、誰にも聞こえなかった。
けれど、ノクスは決して倒れなかった。
涙をこらえながらも、拳を握りしめて立ち続けていた。
◆ ◆ ◆
夜風が涼しくなり、窓の外で虫の声がかすかに響く頃。
屋敷の自室で、ノクスはベッドに寝転がっていた。昼間の模擬戦の場面が、目を閉じても何度も蘇ってくる。
ルカの豪快な剣の振り下ろし、ジョーヌの鋭く無駄のない動き、アリスの魔術の正確さ。
何一つ、自分にはなかった。
踏み込みは甘く、動きは遅く、相手の動きについていけず、剣を振るうたびに無様に空を切り、何度も地面に転がされた。
その度に「大丈夫ですか?」とアリスに手を伸ばされ、「おい、大丈夫かよ」とルカに頭をかかえられ、「あんた、本当に勇気だけはあるわね」とジョーヌに呆れた目で見られる。
胸が痛くなった。
(……僕、弱いな……)
内心で思うと、本当にその言葉が胸の奥に鉛のように沈んでいく。
寝転がったまま天井を見つめる。
自分がパーティで一番弱い。
それは紛れもない事実で、言い訳の余地もない現実だった。
エステアやモルテが心配して、すぐに訓練を止めようとした理由もわかる。あの時は苛立ったけれど、彼女たちは自分が怪我をするのを本気で心配していたのだ。
だけど、だからといって、このままでいいはずがない。
(アリスを助けに行くと決めた時、後悔しないって決めたのに……)
あの時、恐怖を押し込めてアリスを助けに行った。
あの時の自分の決意が嘘になるのが、一番怖かった。
「……僕は……」
小さな声が部屋の中に落ちる。
ベッドの上で握りしめた拳が震える。
(僕は、このままでいたくない。)
ノクスは跳ね起きると、机の上に置いてあった短剣を手に取った。
刃の光が、月明かりに反射してわずかにきらめく。
深呼吸を一つして、姿勢を正す。
短剣を握った手を胸の前に構え、脚を半歩後ろに引く。
昼間リュースに教わった基本の構え。
「……はっ!」
低く声を吐き、刃を振るう。
重心がぶれないように、肩に余計な力が入らないように、足先の角度を思い出しながら、ゆっくりと、丁寧に振る。
風を切る音もしないほど遅い動作。
けれど、その刃筋は昼間よりも真っ直ぐだった。
もう一度振る。
呼吸を整えて、振る。
(僕は、弱い。でも……)
刃を振るたびに、小さな風が生まれる。
何度も何度も、同じ型を繰り返す。
一振りするごとに、肩の力が抜けていく。
(それでも……諦めたくないんだ。)
足幅を確認して、半歩踏み込み、振り抜く。
呼吸を吐き切る。
また構え直して、同じ動作を繰り返す。
部屋の外。
廊下の薄暗い灯りの中で、ジョーヌとルカが扉の隙間からこっそり覗き込んでいた。
「……な?」
ジョーヌが、小さく笑う。
その瞳はどこか嬉しそうで、誇らしげで。
「なにが『な?』だよ。」
ルカは顎を引きながらも、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「お前、心配してたじゃん。ノクスが落ち込んで、修行なんて無理だろって。」
「……別に、心配してないわよ。ただ、あんたが余計な声かけて変な励ましするんじゃないかと思っただけ。」
「へっ、俺は別に……」
ルカは言いかけて、ノクスの部屋の中を覗く。
何度も、何度も型稽古を繰り返すノクスの背中。
肩が揺れているのは疲れか、涙かはわからない。
けれど、その目は前を向いていた。
「……必要なかったな。」
「そういうこと。」
ジョーヌは満足そうに笑い、ルカも肩をすくめて笑った。
「まったく、あいつは弱いくせに変に粘るんだよな。」
「そこがいいんじゃない。」
小さな声で呟いたジョーヌに、ルカが不意に振り返る。
「なんだよ、それ。」
「別に。」
ジョーヌは踵を返すと、静かに廊下を歩き出した。
「明日も早いんでしょ。さっさと寝なさい。」
「お、おい、ジョーヌ!お前今、絶対、なんかニヤけてただろ!」
「ニヤけてないわよ、バカ。」
夜の廊下に二人の小さな言い合いが響く。
部屋の中で、ノクスは短剣を振るう手を止めることなく、小さな決意を刃に込めていた。
「……絶対に、強くなる。」
その言葉は小さな誓いとなり、夜の空気に溶けていった。