作戦決行当日の朝、ノクスは屋敷の門の前で槍を杖代わりに握りしめながら立っていた。心臓がまだ落ち着かない。ギルドに集合し、銀の楯と共に魔物の大群へ挑む。今日はその日だ。
少し早く来すぎたかと思っていると、ジョーヌとルカが門の脇で肩を並べて座っていた。
「今日の作戦、あーしらの役割って何だろうなー」
ジョーヌが背伸びしながら呑気に言う。
ルカはその隣で鞘に入った剣を肩にかつぎながら、
「どうせ俺らは突撃して潰す役だろ。分かりやすくていいじゃねぇか」
ルカは笑いながら言ったが、その目にはいつものような気楽さはない。どこか緊張を帯びた鋭さがあった。
ノクスは二人の言葉を聞きながら、喉がやけに渇いていることに気づいた。手のひらが湿っているのに、口の中は乾き切っている。
今日、自分は死ぬかもしれない。
その恐怖はずっと頭の片隅にまとわりついていたが、それ以上に今、一緒に冗談を言っているジョーヌやルカ、そしてこれから合流するアリスが戦場で倒れてしまうかもしれないという恐怖が重くのしかかっていた。
「……ふぅーー……」
大きく深呼吸する。肩の力を抜くように、肺の奥の不安を吐き出すように。
(大丈夫。訓練で出来ていたことを思い出せ。槍を振れる。避けられる。周りを見られるようになった。大丈夫、きっと大丈夫だ)
それでも首の後ろがじんわり冷たい。
その時だった。不意に肩をポンと叩かれる。
「……え?」
振り返ると、そこにはエステアが立っていた。目を見張る。モルテ、アミー、リュース、セスまで揃っている。全員が心配そうな顔をして立っていた。
「お、おはよう……!」
普段通りの声を出したつもりだったが、喉が乾いていて少し掠れてしまった。
「おはよう、ノクス」
エステアは優しく微笑むが、その瞳はどこか揺れていた。
「今日、大規模な戦闘があるって……ルカやジョーヌから聞いたけど、本当なの?」
「えっ……」
今日の事は話していない。心配をかけないように、訓練に行くと言って出るつもりだったのに。
ノクスは目を見開き、隣のジョーヌとルカを見る。二人は気まずそうに目を逸らしながら「ごめんね」というポーズをしていた。
(隠す意味、もうないか)
「……うん。本当だよ」
小さく頷くと、エステアは俯いて「そう……」と短く呟いた。気まずい沈黙が流れる。
ノクスの心臓がまた速くなる。顔が熱くなる。何か言わなくてはと思うのに、言葉が出てこなかった。
しかし、エステアは顔を上げて、明るい声で言った。
「でも、大丈夫よね?ノクスなら、あんなに真面目に訓練してたんだもの」
笑顔を見せてくれたその瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
「うん、大丈夫。ちゃんと帰ってくるから」
「そうだわ」
思い出したようにエステアが小さく呟くと、腰のポーチから小さな袋を取り出し、その中から細長いガラス瓶を4本取り出した。中には透明な液体が揺れている。
「これを持っていきなさい」
差し出された瞬間、モルテ、アミー、リュース、セスの四人が一瞬だけ目を見開いた。空気がわずかに張り詰める。
ノクスは瓶を受け取りながら、瓶の中の揺れる透明な液体に視線を奪われていた。だから家族たちの微妙な反応には気づかずにいた。
「なんだこれ?」
隣でルカが身を乗り出し、瓶を覗き込む。ジョーヌも興味津々で覗き込みながら、
「なんか……ただの水みたいだな」
と呟いた。
エステアは瓶を見つめると、小さく微笑みながら言った。
「これは本当に危なくなったとき、そのタイミングで飲むのよ。回復ポーションだから」
「えっ、回復ポーションって高いんじゃなかったっけ?」
ジョーヌが顔を上げ、目を丸くして言った。
エステアは肩をすくめるように笑いながら、
「倉庫の奥に眠っていたのを掘り出しただけよ。だから気にしなくていいわ」
「倉庫の奥……」
ジョーヌはすごく微妙そうな顔をしながら、瓶を逆さにしたり光に透かしたりして眺める。
「多少古くても効果があるなら問題ねぇだろ」
ルカは気にした様子もなく割り切ったように言った。ルカらしい。使えるものは使う、それだけだ。
ノクスは瓶を胸元に持ち直し、笑って言った。
「ありがとう。ヤバくなったら、すぐ飲むよ」
その言葉にエステアは安心したように笑みを見せたが、視線の奥にほんの少しの不安が揺れているのをノクスは見逃さなかった。
そんなやり取りをしていたところに、リビングからバタバタと足音が響き、アリスが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「皆さんすいません! 少々遅れました!」
「あ、アリス!」
ノクスは手に持った瓶をアリスに見せた。
「これ、お母さんから貰った回復ポーションなんだ。みんなで一本ずつ持って行こう」
ノクスは手際よく瓶を三人に一本ずつ渡していった。受け取ったアリスは大切そうに瓶を抱え込み、
「エスティさん、ありがとうございます!」
と元気よく頭を下げた。
「ええ、皆、本当に気をつけるのよ」
エステアは全員の顔を順番に見つめると、その場で一歩前に出て言った。
「無事に帰ってくるのよ……ノクス、ジョーヌ、ルカ、アリス」
名前を一人ずつ呼ばれた瞬間、胸の奥がじわりと温かくなった。ジョーヌは片手を上げながら「ヤバくなったらすぐ逃げるしー」と気だるげに答え、ルカは「任せとけよ」と歯を見せて笑った。アリスも「はい!」と力強く頷いた。
ノクスはエステアの目を真っ直ぐ見て、拳を胸元に当てて言った。
「絶対帰ってくるよ。約束する」
ノクスも笑ってみせると、モルテが「その意気じゃぞ」と笑い、手に持っていた小さな布袋を差し出した。
「ほれ、簡単じゃが痛み止めの薬草を入れておいた。ポーションほどの効力は無いが多少役に立つじゃろ」
「ありがとう、モルテ姉ちゃん」
アミーはにかんだ笑顔で「負けそうになったらすぐ逃げるのよ、いい?」とノクスの肩を叩く。
リュースは「お前らならやれる。あの地獄の訓練についてこれた奴が、簡単に死ぬわけねぇだろ」と笑いながら髪をぐしゃっと撫でた。
セスは相変わらず無表情だったが、「必ずご帰還ください。本日の夕食はアリス様も招待して9人分作りますので、後片付けを手伝ってもらわなければ困りますので」と言い、ノクスは思わず笑ってしまった。
(みんな……ありがとう)
自分がどれだけ大切に想われているのかを痛感する。それと同時に、自分がこの人たちを失いたくないという気持ちが、胸の奥で熱く燃え上がった。
「……行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
エステアがそっとノクスの頭を撫でる。その手が優しくて、少しだけ泣きそうになったが、ぐっと堪えた。
「帰ってきたら、美味しいご飯を作ってあげるから」
その言葉が、どれだけ心強かったか。
ノクスはジョーヌとルカ、そして少し遅れて合流したアリスと共に歩き出した。
後ろを振り返ると、エステアと家族たちが門の前で手を振ってくれていた。ノクスも笑顔で手を振り返し、そして歩を進める。
背後で見送る家族たちの視線を感じながら、絶対に生きて帰ると強く心に誓った。
「よし、行くか!」
「行きますか」
「おう!」
「了解です!」
4人の声が重なった。
こうしてノクスたちはギルドへ向かう道を歩き出した。街はいつも通りの朝の喧騒があったが、胸の奥には張り詰めた緊張と、震えるような決意が渦巻いていた。
(大丈夫。帰ってくる。絶対に)
ノクスは強くそう誓いながら、これから始まる戦場へと向かっていった。
◆ ◆ ◆
ノクス達の背が角を曲がり、完全に見えなくなった時だった。
屋敷の門の前に残った家族たちの間に、張り詰めるような静寂が落ちる。
その静けさを破ったのは、セスの落ち着いた低音だった。
「……エステア様。先ほどノクス様たちに渡された回復ポーションのことですが」
セスは穏やかな笑みを崩さずにいたが、その金の瞳が一瞬だけ鋭く細められる。
「まさかとは思いますが……あれは、エリクサーではありませんか?」
その瞬間、アミーの肩がぴくりと動き、モルテは「あーあ」と小さく漏らす。リュースも「やれやれ」という風に肩を竦めた。
エステアは少しだけ目を伏せて、小さく息を吐き、
「ええ、そうよ」
と、静かに告白した。
「聖杯から生み出した、純度の高いエリクサーよ」
その言葉を聞いた瞬間、周囲に淡い緊張感が走る。
モルテは口元を押さえ「やっぱりそうじゃったか」と呟き、アミーも「マジかぁ~」と頭を抱える。リュースは苦笑しながら「ま、らしいっちゃらしいな」と笑うしかなかった。
セスは瞼を伏せ、わずかに眉を寄せると、
「……やはりそうでしたか。エステア様、辺境の街の最底辺の冒険者パーティがエリクサーを所持していると知れ渡れば、必ず出所を疑われ、調査が入ります」
淡々とした声で忠告するが、それは責めるものではなく、ただ事実を述べているだけの声だった。
しかしエステアは視線を逸らさず、真っ直ぐセスを見つめて答えた。
「もちろん、そのくらいわかっているわ。承知の上で、あの子達に渡したのよ」
セスが小さく「なぜ、そこまで……」と言いかけた時、エステアは言葉を重ねる。
「私は……私は、本当はノクスに、あの子に危険なことなんてしてほしくないのよ」
言葉を吐き出すと同時に、エステアの目から大粒の涙が一滴、もう一滴と零れ落ちていった。
「でも……ノクスの夢は冒険者になることだった。戦うことは危険だってわかってる。でも、それでも……あの子が自分で選んだ道を、私が潰したくなかったの」
肩が震えていた。頬を伝う涙を拭いもせず、声を絞り出すように続ける。
「もしもの時、ほんのわずかでも生き延びられる可能性があるなら……あの子の未来を守ることができる可能性があるなら……私は後悔しないために、渡したのよ」
モルテがエステアの手の甲に手を置くと、小さく笑みを浮かべて言った。
「そうじゃな、それが親心というものじゃよ」
アミーは肩をすくめながら、少し目を赤くしつつも笑顔で、
「本当に……昔のあんたからは考えられないくらい立派な親だねぇ、エステア。私、ちょっと妬けちゃうよ」
リュースは大きく腕を組みながら、胸を張って、
「大丈夫だ。俺が直々に鍛えたんだぜ? ジョーヌもルカもアリスはもちろん、ノクスもそう簡単にやられたりはしないさ」
と自信に満ちた声で笑った。
セスもわずかに口元を緩めると、
「そういうことなら、私は何も申し上げません」
と一礼した。
エステアはぐしぐしと目元を拭い、鼻をすすりながら、少し笑った。
「……そうよね。そうだったわね。こんなところで死ぬわけないものね、あの子たちが」
その言葉にモルテも「そうじゃとも」と笑い、アミーも「私たちの可愛い家族なんだから」と呟き、リュースも「帰ってきたらまた鍛えてやらねえとな」と笑った。
セスも最後に「無事に帰ってきて、笑顔で『ただいま』と言ってくれますよ」と小さく言った。
エステアは両手を胸元で握りしめ、顔を上げて青空を見つめながら、
「大丈夫、大丈夫よ……私の自慢の子達だもの」
と、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
門の先、角の向こうに消えたノクス達の背を思い浮かべながら。
彼らが笑顔で「ただいま」と戻ってくるその時まで、自分たちは信じて待つことしかできない。
それが今の自分達にできる
この屋敷の前で、それぞれが心に誓う。
(無事に、帰ってくるんだぞ……)
彼らの小さな祈りが、柔らかい風に乗って、遠くに向かって流れていった。