第一節:不穏な手紙
魔物の群れ事件から早くも一か月の時が経ち、街にはいつもの穏やかな空気が戻っていた。街道を駆ける馬車の音、露店の掛け声、漂うパンの香ばしい香り、騎士団の巡回の姿――どこを見ても平和そのものだった。
ベアルたち銀の楯は、長い間王都を空けているわけにもいかないらしく事件の後すぐに帰還してしまった。別れの時、ノクスはベアルの大きな手で頭をぐしゃぐしゃに撫でられ、「胸を張れ、これからはお前自身が街を守るんだ」と言われた言葉を思い出しながら、日々の任務に精を出していた。
群れ事件の報酬で、ノクス、ジョーヌ、アリスはFランクからDランクまで一気に上がった。ルカだけは元々Dランクだったので金銭報酬を希望し、500ゴールドという大金を懐に入れていたが、結局そのほとんどをギルドの食堂で使い切ってしまったのはご愛敬だ。
今日もノクスたちは朝から草原地帯で害獣の駆除を行い、その帰り道だった。頭上には澄んだ青空が広がり、遠くには白い雲が羊のように漂っている。ジョーヌは自分で拾った木の枝を振り回して遊びながら歩き、アリスは背負った杖が揺れないように慎重に歩き、ノクスはいつも通り少し前を歩き周囲を警戒していた。
だがその時、ジョーヌがふとルカをじっと見つめて口を開いた。
「ねえ、あんた……なんか最近変じゃね?」
唐突な言葉にルカは肩をビクッと揺らし、「そうか?」とだけ短く返すと、周囲を見渡すように視線を走らせた。
「やっぱ変だって。最近のあんた、ずっと何か警戒してない?」
とジョーヌが眉を寄せる。
それを聞いたアリスも
「あ、私も思ってました。最近は落ち着かないというか……」と頷く。
ノクスも苦笑しながら
「うん、前から周りの様子には敏感だったけど……最近は特にだよね」と言葉を重ねた。
ルカは「あはは、バレたか」と頭を掻くが、その笑顔は少し引きつっていた。
「群れ事件のせいで過敏になってるだけだよ。あんなでかいオークが街のすぐ近くまで来るなんて思わなかったしな」
そう言って笑いながら答えたが、その視線は遠くの森の方へ無意識に向いているのをノクスは見逃さなかった。
「ふーん……まあいいけどさ」とジョーヌは口を尖らせ、枝をぶんぶん振り回して歩き始める。
アリスは複雑な顔で「ルカさんがそう言うなら信じますけど……もし何かあったらちゃんと言ってくださいね」と微笑む。
ルカは「おう、わかってるって」と笑顔を返したが、その目はどこか笑っていなかった。
気まずい空気が残る道中を歩きながら、ノクスは深く息を吐いた。これ以上突っ込んでもルカは話してくれないだろうという確信があった。
「よし、そろそろお昼時だし……早く街に帰ってギルドの食堂で何か食べようか。昨日も遅かったから、今日はたっぷり食べたいしさ!」
ノクスの声にジョーヌは「いいね!今日はお肉!ルカの奢りでステーキ食べよ!」と目を輝かせる。
「おい、なんで私が奢る流れになってんだよ」とルカが肩を落としながら笑うと、ジョーヌは「だってこの前の報酬500ゴールドもらったんでしょ?ステーキくらいいけるでしょ!」と肩を叩く。
「ったく、仕方ねえな……その代わり高いやつは頼むなよ?」とルカは笑いながら答えた。
アリスも「私はパンとスープで十分ですよ」と微笑みながら歩く。
「アリスもお肉食え!こういう時くらい栄養取らないと!」とジョーヌが肩を組みながら言うと、アリスは苦笑しながら「じゃあ……少しだけ」と答えた。
そんな他愛のない会話が、重くなりかけた空気をすぐに和らげてくれた。
街が見えてくる頃には、ノクスも笑顔を取り戻していた。ギルドの赤い屋根が見え、街道の両脇に並ぶ家々の煙突からは昼食の支度を知らせる煙が立ち上っている。街門の前で警備の兵士に挨拶しながら通過し、賑わう市場の横を歩き、ギルドの大きな扉を押し開けた。
「よーし、今日は久しぶりにステーキだな!ルカ奢りで!」
「だから高いの頼むなって言ってんだろ!」
「ふふ……今日はいっぱい食べましょうね」
「お、おう……」
いつものように喧嘩腰で笑い合いながら、ギルドの食堂へ向かうノクスたち。
ギルドの食堂は昼時で賑わっていた。煮込みシチューの匂いと焼き立てパンの香りが鼻をくすぐり、喧噪の中で笑い声と食器の音が飛び交っている。
「っはー、やっぱ肉はいいな!」
ジョーヌがテーブルの上に置かれた大きな骨付き肉を手で掴み、豪快にかぶりつく。口元に肉汁をつけながら満足げに笑う姿に、ルカが半分呆れながら「お前、もう少し女の子らしく食えよ」とため息を吐いた。
「うっさいわね!いいじゃん別に、今だけくらい豪快に食べたってさ!」
ジョーヌは口をもぐもぐさせながら反論する。
「ふふ、ルカさんが奢りの日は遠慮せず食べるのが正解ですから」
アリスも微笑みながら、いつもより少し大きめのパンをかじっていた。
「ほんっと、お前ら遠慮って言葉を知らねぇよな……」
ルカは呆れたように笑うが、口元は笑っていた。
「でも、こうして街に帰って食堂でみんなで食べるの、なんか好きだな」
ノクスが笑いながら言うと、アリスが「私もです」と頷き、ジョーヌも「ま、あんたが奢ってくれるならもっと最高だけどね」と口を挟む。
「無茶言うな」
ノクスが笑い返すと、「ひどーい!」とジョーヌが肉の骨を振り回す。
そんな他愛のない会話と笑い声が続く時間。魔物の群れ事件を乗り越え、Dランクに上がり、ようやく訪れた平穏な日々。ささやかだが確かな幸せがテーブルに広がっていた。
その時だった。
食堂の扉がガタンと開き、見慣れたギルドの受付嬢が食堂の中へと入ってきた。珍しい光景に、周囲の冒険者たちも何事かと顔を向ける。
「……ん?どうしたんだろ」
ノクスがパンを口に運びながら首を傾げる。
「なんか、誰か探してるっぽくない?」
ジョーヌも肉をかじりながら目線だけを向けている。
「あれだけ真剣な顔をしているのだから、緊急の依頼でもあるのでしょうか……」
アリスもスープを飲む手を止め、視線を送っていた。
マルナは食堂を見回すと、目を見開き、ぱっと笑顔を浮かべてこちらへ向かって歩み寄ってきた。
「ルカさん、いらっしゃいましたか!」
小柄な身体で息を切らしながら、目を輝かせてルカの前に立つ。
「え、俺?」
ルカが箸を止めて目を瞬かせると、マルナは「はい!」と勢いよく頷き、懐から赤い封蝋が施された手紙を取り出して差し出した。
「ルカさん宛に、お手紙が届いております!」
封蝋のついた白い便箋はしっかりとした厚紙で、封蝋には血のような赤で奇妙な紋章が刻まれていた。
「……本当に俺宛か?」
ルカは怪訝な顔で手紙を受け取り、表面をじっと見つめる。確かにそこにはくっきりと「ルカ」とだけ書かれていた。
「間違いなくお渡ししましたよ」
マルナは安心したように笑顔を浮かべ、くるりと踵を返して受付の方へ戻っていった。
「なんだなんだ、ラブレターか?」
ジョーヌが肘でルカの脇腹を突きながらからかう。
「いや、違ぇだろこれ……」
ルカは封蝋の模様を見つめると、その場で小さく舌打ちした。
「封開けないの?なんて書いてあるの?」
ジョーヌが首を伸ばして覗き込もうとする。
「ルカさん、差出人に心当たりがあるのですか?」
アリスも興味津々で聞く。
「…………」
ルカは無言で手紙を持ったまま立ち上がると、乱雑に手紙をポケットに突っ込み、深くため息をついた。
「ルカ…?どうしたんだ?」
ノクスはルカの顔を見て、静かに呟く。
ジョーヌも不思議に思いながらも「ちぇ、つまんないの」と言い引き下がり、アリスも黙ってルカの事を心配していた。
テーブルの上には食べかけのパンと肉の骨が残り、空気だけがひりついたままだった。
食事を終え、ギルドの扉を開けて外に出ると、日差しはすでに傾き始めていた。街の通りを歩きながらも、ノクスたちはなんとなくルカに声をかけられずにいた。
「……じゃあ、私はここで。明日またギルドで」
教会へ向かう分かれ道でアリスが立ち止まり、柔らかく微笑む。
「うん、また明日な」
ノクスが手を振ると、ジョーヌも「じゃーね!」と元気に手を振る。
「……気を付けて帰れよ」
ルカも短く言葉をかけると、アリスは「はい」と嬉しそうに頷き、街灯が灯り始めた石畳の道を歩いていった。
その背中を見送ったあと、ノクス、ジョーヌ、ルカの三人は無言で歩き始めた。
いつもなら帰り道も笑い声で満ちるのに、今日は何かが違う。
ルカがポケットに入れた封蝋付きの手紙――あれが何なのか、ノクスもジョーヌも言葉には出さなかったが、その夜、それぞれの胸の奥に小さな不安の種が芽吹いていたのを感じていた。
屋敷の明かりが見え始め、母さんが迎えてくれる姿を想像して、ノクスは一度だけ深呼吸した。
「……ただいまって言ったら、笑ってくれるといいな」
そう呟くと、ジョーヌが「何言ってんのあんた、言わなくても笑って迎えてくれるでしょ」と笑い、ルカは小さく笑って「……ああ、そうだな」と答える。
そうして三人は小さな屋敷の扉を開け、ゆっくりと中へ帰っていくのだった。
◆ ◆ ◆
夕食もすっかり終わり、食器を片付けた後の屋敷は、いつもより静かだった。
「ふぅ……」
ルカは珍しくリビングの椅子に深く座り込み、肘をついてぼんやりと天井を見上げていた。普段なら食事を終えるとすぐに部屋に籠る彼女が、こうして人前で食休みをするのは珍しいことだった。
「珍しいな、ルカがリビングで休んどるなんて」
ソファで本を読んでいたモルテが、目線をずらしながら視線を向ける。
「たまにはいいだろ」
ルカは顔を背けるようにして答えたが、その表情にはどこか疲れが見えていた。
ソファの隣ではエステアとセスが何やら難しい顔で会話をしていた。今夜の話題は街の防衛体制についてだ。魔物の群れ事件以降、セスはこの街の警備体制の脆弱さに不満を覚えているらしく、何度も改善案をエステアに話していた。
「街の北門は夜間になると見張りが一人になる。あれでは夜襲を受けたら即突破されるぞ」
「そんなに心配なら自分で見張りに立ったらどう?」
「私は執事ですので、夜は主の護衛が優先です」
そんな他愛もない、だが平和な時間だった。
「さて……」
しばらくぼんやりしていたルカは椅子から腰を上げ、無言でリビングを出て自室へ戻ろうとした。
「ルカ」
不意に背後からセスの声がかかる。
「ん?」
扉に手をかけたまま振り返ると、セスがいつもの涼しげな微笑を浮かべながら歩み寄ってきて、白い便箋を差し出してきた。
「落とし物です」
「……あぁ、悪いな」
ルカは眉をひそめ、無造作にその手紙を受け取った。ポケットにしまったはずのそれが落ちていたのに気づかなかったらしい。封蝋の赤い紋章が、ちらりと灯りの下で輝いた。
「……」
ルカは一瞬だけ手紙を見つめたが、すぐに無言で扉を開け、そのまま部屋を出ていった。
その背中を静かに見送ったあと、セスは表情を変えずに振り返り、エステアとモルテに視線を向ける。
「エステア様、モルテ」
「何かあったのかの?」
モルテが本を閉じ、ゆっくりとセスを見る。
「今の手紙ですが……ヨトソラスの封蝋印でした」
「ヨトソラス……?」
エステアは小さく首を傾げ、瞳を細める。
「どこだったかしら……聞いたことはあるけど」
「おぬし……」
モルテが呆れたように眉間を揉みながら、ため息を吐く。
「ヨトソラスは王国と魔界のちょうど境界線上にある小国じゃ。表向きはただの小国、人間の住民が細々と暮らしているが、実態は違う……のじゃろ?」
「ええ、その通りです」
セスは頷き、視線を少し鋭くした。
「ヨトソラスの王族は代々、古い血統を持つ吸血鬼の一族なのです。表向きは平穏を装っていますが、あの国の中は人間と吸血鬼が共存する奇妙な均衡で成り立っています」
「吸血鬼の国……」
エステアは頬に指を当て、小さく首をかしげる。
「でも、それがルカと何か関係あるの?」
「エステア様……ルカは吸血鬼です」
セスが冷静に告げると、エステアは「あっ」と声を上げる。
「……そうだったわね」
モルテは「全く、おぬしは……」と苦笑しながらも「しかし、吸血鬼の国からルカ宛に手紙が来るとは……不穏じゃのう」と呟いた。
「はい、私も妙な胸騒ぎがします」
セスは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「ヨトソラスから、吸血鬼のルカ宛の手紙……偶然とは思えません。何らかの呼び出しである可能性が高いでしょう。しかもそれがこのタイミングで来るとは」
「ルカはあの様子じゃ何も話してくれないでしょうね」
エステアはソファに背を預け、天井を見上げた。
「うむ、あ奴のことじゃ。あまり他人に頼らぬし、一人で行動してしまうじゃろう」
モルテも小さく頷く。
セスは目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。
「エステア様、モルテ。万が一のことがあれば、ルカの身に危険が及ぶ可能性があります。私としては……手紙の内容を確認した方が良いと考えております」
エステアは視線をセスに戻し、しばし沈黙した。
屋敷内は外の風が吹き込む音だけが響き、夜の冷たい気配が床を這っていた。
「そうね……」
やがてエステアは静かに口を開いた。
「私は……ルカのことを信じてる。でも、家族に何かあったら……それは私が耐えられない」
「……エステア様」
「モルテ」
「うむ」
三人の視線が交わり、その場に確かな決意が生まれる。
「決まりじゃな」
「はい」
エステアはぎゅっと手を握り締めた。
「ルカが不在の時に……手紙の内容を探りましょう」
外では満月が静かに空を照らし、誰も知らぬ闇の中で、小さな屋敷に不穏な風が忍び込んでいた。
それでも彼らは気づいていなかった。
その手紙が、ノクスたちと自分をヨトソラスへと誘う、大きな物語の幕開けになることを――。