第一節:人間界への門出
夜明け前の魔王城。
霧がかった中庭に、ひときわ目立つ金髪の女性が一人、旅支度を整えていた。
魔王エステア──いや、今日からは“エスティ”。人間として、母として生きるための第一歩である。
「よし……身分証、着替え、旅費、ノクス用のぬいぐるみ……うん、準備完了」
彼女が小さく伸びをすると、背後から足音が一つ。
「お待たせしました、魔王様。私も準備完了です」
振り向いたエステアの目に飛び込んできたのは──
「え、誰!? マジ誰!? セス!? お前セス!? なにその顔!」
「失礼な。私ですよ。どうです、人間風執事スタイル」
「ええええ!? てかあんた、もう人化覚えたの!? ずるくない!?」
「学習と応用は得意ですので。魔王様の無茶に付き合うには、私も準備が必要ですから」
「ぐぬぬ……なんか悔しい!」
いつも通りの、ややスレスレな口調の応酬。しかし、これもまた信頼の証である。
セスはそっとノクスを背負いなおすと、小さく口を開いた。
「ところで、臨時講師の話……勝手ながら辞退の手紙を送っておきましたから」
「は? なんでよ!? あれが一番融通ききそうだったじゃない!」
「人物鑑定があります。王国法により、教職に就く者は“人物聖印”で経歴と善性をチェックされるのです」
「……それってつまり……?」
「魔王、即バレです」
「だめじゃん!! それ、一番やっちゃいけないやつじゃん!!」
「ですので、代わりに“仕立屋の手伝い”という設定に変更しました。繕い仕事は魔術でこなせますし、住人との接点も少なく済みます」
「……セス、やっぱあんた有能ね」
「いまさらですか」
そんなやりとりをしていると、ドタドタと廊下を駆けてくる足音が響いた。
「エステアぁぁぁぁぁ!!!!」
「今日で出発って本当かあああああ!!!」
「ちょっと!! 置いて行かないでって言ったのに!!」
姿を現したのは、モルテ・リュース・アミーの三人。
エステアは苦笑しながら肩をすくめる。
「ごめんね。こっちもバタバタしてて……でも、三人とも人化まだでしょ? 下手に目立ったら大変なのよ」
「むむむ……まあ確かに、今のままでは人間界の空気に合わんじゃろうな……」
「俺、でっかすぎて村入ったらすぐバレると思うしな」
「わたしなんて、ナンパされちゃいそうだし……」
「心配の方向性おかしいからね!?」
三人はそれぞれ、どこか寂しげな顔でノクスを見下ろす。
まだ眠っているノクスは、旅の準備などどこ吹く風とばかりに、セスの背でスヤスヤと呼吸している。
「……それでもさ」
アミーがぽつりと呟く。
「一緒に暮らして、ちょっとだけ家族っぽくなれてたんだよ、わたしたち」
「正直、寂しいぞ…」
リュースも、視線をそらしながら言う。
「……気を付けて行ってこい。今度は、人間界で再会じゃな」
モルテの声も、どこか感傷的だった。
エステアは、ふっと微笑む。
「ありがとう。人間界、思ったより変なところだったら、すぐ戻るから」
「そこは“頑張る”じゃろうが!?」
「いや、だって未知じゃん! 無理なもんは無理よ!」
笑いが、静かな朝の城に響いた。
──そして。
旅支度を終えた魔王と執事と幼子は、夜明けの転移陣へと歩き出す。
「エステア!」
振り返ると、三人がそれぞれ手を振っていた。
「絶対、また会おうな!」
「元気でのう! ノクス!」
「お母さん、頑張ってね~!」
「誰が“お母さん”よ!」
そう叫びながら、エステアは微笑む。
この瞬間、魔王としての人生から、「母としての新しい日常」が始まった。
“未亡人・エスティ”と名を変えた魔王が、ノクスの母として潜入生活を始める。